ー第1面 ニューグリップタイヤ
ー第1面ニューグリップタイヤ
愛知県名古屋駅から地下鉄東山線で一駅。伏見駅の一番出口を出て100m程のビル3階にあるゲームソフト制作会社、ニューグリップタイヤ。年に2〜3件タイヤの注文が舞い込む、紛らわしい名前の会社。
会社発足から5年。
創立時デジタル地図と交通情報をリアルタイムで連動させ、住宅地図レベルでのオンラインレースゲームで、そこそこのヒットを放った。
しかし、自分達の車で実際の道路を使って、このゲームをプレイする連中が現れ、警察と被害に遭った住民の圧力でオンラインゲームは閉鎖の憂き目にあった。
会社幹部はシミュレーションゲームにアレルギーを起こし、RPGに路線変更して、なんとか業界のトップテンを維持している。
能登島秀彦は、もともとシミュレーションゲームをやりたくて、例のゲームをヒットさせたニューグリップタイヤの2年目に入社した。
入社時は事件は起こっておらずシミュレーションゲーム全盛だった。しかし事件後は一切のシミュレーションゲーム開発は却下になった。
能登島は企画としてクライムズを提出したが、石川開発部長の
「これは売れそうにないね〜。」
と言う一言で企画会議に行くまでもなく、企画書は能登島の作業ブースに戻ってきた。デスクで戻ってきた企画書を眺めている能登島の所に西堀栄一がキャスター椅子ごと入ってきた。
「シミュレーションのシの字だけで判断してんじゃないの?。部長。」
「一応RPGで出してんだけど…。」
「これが?。シミュレーションだよ。最高に面白いと思うんだけど?。」
「西堀の面白いは、別の意味だからな…。」
「面白いよ。登る山が噴火中で、いつ登れるかわからないなんて、食いつき半端じゃないよ。部長が製品にしないってんならさ…俺達で作っちゃっおうぜ。ホムペでオンラインにすれば、会社の連中でプレイできるよ。結構、みんな期待してたんだぜ。」
「部長が却下するのをか?。」
「ノトだって、わかってたんじゃないのか?。」
「これ以上、睡眠時間削ったら、起きてる時間が24時間超えちまうだろうが。」
「パーツに分けて作れば問題ないよ。」
「やるかな。」
このひと言が、とんでもない事件の入り口だった。が、それは半年後の話しであり、能登島は新しいゲーム クライムズ を早くプレイしたくてウズウズしている、普通のゲームクリエイターだった。
能登島の退社時間は決まっていない。
会社に居てもしょうがない時が退社時間になる。例えば並行している作業で他が遅れているか、能登島が突出してしまった場合とか…。そうでなければ退社時間は訪れない。そして、しばしば作業は自宅に持ち込まれる。理由は会社のハードやソフトよりも自宅のそれの方が遥かに上だからだ。
自宅で良好なハードやソフトが申請されて切り替えられる。常に自宅の方が速くてレベルが上になる。聞けばビックリするような月給の割に質素な暮らしは、こうしたカラクリにある。そして自宅で作業するための帰宅を退社とは呼ばない。ボランティアに行くと呼ばれる。この作業に給料は支払われない。これに異を唱える者は、この世界から消えてゆく。会社のハードやソフトだけで作業された製品は、品質が低くて使えないと言われてしまうから…。
能登島は新作RPGのディスクを鞄に入れて、石川部長にメールを打った。
ーボランティアに行ってきます。ー
数メートル先で石川部長が返信する。
ーどれくらいだ?。ー
ー15時間程度。ー
ーえらく速いな。ー
ー今使ってるソフトは速くて使えますよ。今度申請しますから。ー
ー月末はよせ。月始めにしてくれ。ー
ーわかりました。ー
能登島は立ち上がるとガンダムグッズのアナハイムエレクトロニクスのキャップを被って、出口のスロットにIDカードを通した。ピッと音がすると、それぞれの作業ブースから手だけが出て振られた。
ドアが開き能登島は開発部の外に出た。
かかとが崩壊寸前のGTホーキンスのスニーカーに、リーバイス。季節に関係なく一年中着ているハワイ土産のアロハシャツ。冬はこの上に陸自の友達が横流ししてくれた戦車兵の防寒服を着る。今は夏なので、それは作業ブースの机の下のダンボールに広辞苑と共に入っている。
能登島はこのボランティアをもう一人の人物にメールで知らせていた。大学時代の彼女、椎名実花。
地下鉄東山線伏見駅の改札前で、彼女は勝負服とおぼしきファッションとメイクで能登島を待ち受けていた。
「どれくらい時間あるの?。」
「15時間。作業は7時間あれば楽勝だ。市販のソフトいじくったら、15時間が7時間になった。本当はいじくっちゃいけないから、内緒だぜ。」
「時間つくってくれたんだ…。」
実花は目を伏せて顔を赤らめた。
「俺的には事故だよ。8時間会社に戻れないし、外も歩けない…。それにしてもどうした?。ちゃんと納得してくれたはずだぜ?。」
能登島はゲームクリエイターになるにあたって、実花とは別れていた。
実花は背筋を伸ばし、顔をあげて券売機の方を見て言った。
「…考えた。ノト君の事。私にはノト君以外考えられない。」
「また同じ話を俺はするわけだ。まあ、そう言うのは嫌いじゃないけどさ。シイナはさ、最高にかわいいし、優しいし、気配りもできる。ファッションセンスも最高。しかもナイスバディだ。料理も俺の好みを知ってるし、掃除も大好き。手袋もセーターも編めるし、子供好き。だったらゲームクリエイターなんて宗教をやってる男じゃなくて、ちゃんと彼氏の役目を果たして、お金もちゃんと入れてくれる男を選択すべきだ。俺は家に帰ってこないし、収入はソフトとハードに使っちまう。誕生日も結婚記念日もゴールデンウィークもお盆休みもクリスマスも宗旨宗派が違うから関係ない。その上にバージョンアップなんてお布施も必要だ。こんな奴の彼女である意味はあると思う。結婚したら、契約違反だよ。」
前回はこれで実花を納得させた。だが、今回は怯まなかった。実花は能登島の方を向いて、目を見つめた。
「…それでいいよ。何故だかわかる?。ノト君のゲームは優しいし、生きる勇気をくれる。…私は、ノト君のゲームに何度も勇気をもらった。私はノト君のゲームがあるから生きてゆける。ノト君に何もしてもらわなくたって、ノト君がゲームを作ってくれてプレイできればそれでいい。そのためなら、働いてノト君の子供を育てみせる。…ホームページの仕事を始めたの。少しづつだけどお金も入ってくるようになった。…なんとかできると思う。」
能登島は敗北宣言をしなければならなかった。実花の仕事は能登島も知っていた。教えたわけでもないのに、プロの目から見てもビジネス的に見ても有望で才能にあふれていた。
「来年のクリスマスまでテスト期間を設定させて欲しい。」
「テスト期間?。」
能登島はポケットからキーをとりだして実花の手の上に置いた。
「アパートのスペアキーだ。来年のクリスマスまで実花の気持ちが変わらなかったら婚姻届を出す。ただしセックスはなしだ。子供はそれまでつくらない。耐えられる?。」
「耐えるよ。耐えてみせるよ。」
能登島は目を閉じて首を振った。こんな馬鹿な提案を受け入れられるのは、世界でこの娘だけだと能登島は感動していた。能登島は敗北宣言を発した。
「ならばスタートだ。改札口にエントリーを。」
実花がレスキューとなって能登島を救う事を2人はまだ知らない。もしキーを渡さなければ能登島の命は露と消えていた事を…。
第2面に続く