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阿久津誠一郎が籠目市に最初にできたタワーマンションを購入したのは三十歳の時だった。
歳にも収入にも見合わない大きな買い物をしたのは、ステイタスを得たいためでも、素晴らしい眺望を得たいためでもなく、二年前に結婚した妻、理里のためだった。
結婚式の前日、誠一郎を呼び出した理里は真剣な顔で、いつもより丁寧な口調で未来の夫に告白した。
「私、家では全裸でいたいんです」
妻は全裸主義者だった。
突然の事態に結婚当初は苦難の日々が続いた誠一郎だったが、持ち前の我慢強さで乗り越え、遂には妻が心置きなく全裸でいられるよう、覗かれる恐れのないタワーマンションを購入した。安心したのもつかの間、新たな苦難が訪れる。マンション購入と同時期に授かった一人娘が、母親にならって全裸主義になってしまったことだ。
教育上好ましいのか?なにより将来困るのではないか?思い悩む日が続いたが妻の「私は幸せになれたから大丈夫よ」の一言で吹っ切ることができた。全裸主義のおかげなのか、娘の瑠璃はすくすくと元気に育ち、背も高く、出るところは出、引っ込むところは引っ込むグラマラスな体型の持ち主になった。
今現在、誠一郎は海外で単身赴任をしているが ローンがちょうど半分を過ぎたタワーマンションのオートロックは、今日も愛する妻と娘を守っている。
しかし今、リビングの中央に置かれたソファを占領して悠々と麦茶の入ったグラスを傾けているのは、誠一郎の愛する二人ではない。ルリの友人であり、超絶美少女でもある、枇々野那奈である。
ナナはホットパンツから伸びる優雅な曲線美をおしげもなく見せびらかしながら、クーラーの冷気に身をゆだねている。部屋の主の一人であるはずのルリは、ソファから押し出される格好で床に敷かれたラグの上に寝転がって、雑誌をめくっている。スポーツ雑誌が発行している夏の高校野球特別号である。ルリは涙を誘うドラマが載っている雑誌よりもデータ重視のものを好む。
ちなみにルリは全裸ではない。ルリもその母親も、客が来たときには服を着るぐらいの常識は持ち合わせている。親子揃ってゆったりとしたワンピースなのは、すぐに着替えることができるようにである。
「どこが優勝しそう?」
最後のページの編集後記にまでじっくりと目を通しているかと思うと、表紙に戻ってまた最初から読み始めたルリに、ナナが問いかける。
「同学社西院だな」
即答したルリはパラパラとページをめくり、同学社西院のページを示す。紙面を四ページも貰っている学校がある一方で、同学社西院のページは一ページだけだった。つまり有力校ではない。
「太多とか神楽坂がいるところじゃないの?ドカベン王子とか」
「意外だな。高校野球に興味があるのか?」
「私だってニュースぐらい見るわ。あれだけ連日放送していれば、有力な選手と学校の名前ぐらい覚えるわよ。カッチンに話を合わせるためにもね」
ルリの母親はなぜか娘のことをカッチンと呼ぶ。なのでナナもそれにならってそう呼んでいる。
「なんだ、高校野球の話がしたかったのか?」
「なに言ってんの。なんで私が坊主頭の男共が炎天下の下で球遊びをしている話をしたくならなくちゃいけないのよ。野球になんて興味ないけど、カッチンがどうしても高校野球の話がしたくなったときに、なにも知らなかったら困るでしょ。適当に相槌をうって合わせることもできるけど、ちゃんと話ができたほうが嬉しいでしょ。だから、テレビのスポーツニュースレベルの情報は覚えることにしているの。分かった?」
「そんな努力をしているとは知らなかった、申し訳ない。許してくれ」
ルリは起き上がるとソファでふんぞり返っているナナの前に三つ指をつき、頭を下げる。
「そんなことじゃ誤魔化されないわ。本当に許して欲しいなら脱いで」
「それは断る」
言ってルリは雑誌を振ったが、ナナはひらりとかわした。かわされることは想定内だったかのように、ルリは高校野球に話を戻す。
「太多はスピードはあるが制球力がない。地方大会ならまだしも、全国大会でコントロールが悪いピッチャーは通用しない。神楽坂はストレートも走っているし、変化球もあるしコントロールも良い。ただ残念ながら持久力がない。あそこは二番手以降のピッチャーが大したことがないから、地方大会もけっこう危ない試合がいくつかあった。ワンマンチームは地方大会は切り抜けられても、甲子園を勝ち抜くことはできない」
「ドカベン王子は?」
「ただの色物だ。なんにでもキャッチフレーズをつけるメディアの浅薄さを明らかにしているだけだ。もっとも雲雀丘池高校はあんな色物を使いながらでも勝ち抜けるだけの力がある、それなりにバランスが取れている学校だ。太多や神楽坂のところよりは勝ち抜けるかもしれないな」
「つまりは一人のエースよりも、みんなの力の勝負ということね」
「それすらも覆せる圧倒的なエースがいるなら別の話だがな。高卒一年目からプロで活躍した田上だって、春夏連覇はできなかった。彼を超える逸材はなかなか出てこないだろうし、つまり当たりだ」
普段は無口に見えるルリだが、スポーツの話になると眼鏡に隠された厚ぼったいまぶたの下の瞳を輝かせながら饒舌に語る。つまりオタクっぽいのだ。
ナナはそんな友人を嫌がることもなく、話に付き合う。
「じゃあ同学社西院は、カッチンの見立てでは一番総合力に優れたチームということね」
「ああ。それに二番手のピッチャーがいいんだ。こいつがこの甲子園で化けることがあれば、かなり面白いことになると予想している」
「ふーん。それで、カッチンは今までに何回優勝校を当てたの?」
「一回も当てていない」
ルリはさらっと答える。
「駄目じゃない」
「チームワークとか、チームの士気とか、データだけじゃ分からないことも多いからな。数字には出てこない汗と涙が勝敗を決することもある。特にメンタルが鍛えられていない高校生のゲームはな。そこが面白いんだ」
「メンタルの闘いなら、カッチンが出れば最強ね」
「お前には言われたくないな」
「あら、私はただのか弱い美少女よ」
言いながらナナは、か弱さを微塵も感じさせない勝ち誇ったような笑みを浮かべながら空になったグラスをテーブルの上に置き、新たな思い付きをルリに押し付ける。
「さて、それじゃカッチンの高校野球話に付き合ってあげたことだし、今度は私に付き合ってもらいましょうか」
「高校野球の話を始めたのはお前の方じゃないか」
「さぁ、水着を買いにいくわよ」
ルリの抗議を完全スルーして、ナナは細長く白い人差し指で天井を指しながら宣言する。
「水着?なんで水着?」
ナナの思い付きには慣れているつもりのルリも、突然の言葉に目を丸くする。
「なに言ってんの?女子高生が水着を買うのになんで理由がいるのよ。しかも、私たちにとっては高校生活始めての夏よ。義務教育の枷から外れた記念すべき年の夏なのよ。喜びに小さな胸を打ち鳴らしながら水着を買いにいくのは当然の行為じゃない。それともカッチンの胸は大き過ぎるから、この高鳴りが湧き上がってこないというの!」
人の家のソファの上に立ち上がり、拳を上げながらナナは熱弁をふるう。
「申し訳ないが全く高まってこない」
ルリは生真面目に胸を触って確認してから答える。
「それにお前は明後日から実家に帰るんだろ?水着を買ってどうするんだ?明日市民プールにでも行くのか?」
ナナはある事情から親と離れ、叔母の家に居候して高校に通っている。明後日実家に帰るという話を、先ほどルリの母親としていたところだ。
「ああ、ああ」とさっきまで一気呵成な勢いだったナナが、情けない声をあげながら突然崩れ落ちる。
「なんで私が騒ぐしか能のない子供とそのお母さんたちでごった返す市民プールに行かなくちゃ行けないの。ナンパしたかったりナンパされたかったりする高校生に溢れ、初めてのプールデートにお互い気恥ずかしい顔を見せる中高生に溢れ、微妙な距離感をわざとらしいノリで隠しあうグループ交際の連中に溢れ、なにが目的なのか分からないけど片隅で本を読む男がいたりする市民プールに、なんで私が行かなくちゃ行けないの!」
「すごい楽しそうだな」
「ええ、市民プールには意外なことにワクワクとドキドキがいっぱい詰まっているの!でも行かない。なぜならそれ以上に面倒くさいから」
「まぁ、そうだろうな」
自他共に認める超絶美少女のナナが市民プールに姿を現せば、男たちの目を引くのは間違いない。目を引くだけならまだ良いが、声をかけられるのも確実だ。多分、プールには同じ学校の男子もいるだろう。そいつが友達にメールで報告をすれば、一時間以内に校内の男子生徒が市民プールに殺到するのは確実だ。
「そして残念ながらホテルのプールの招待状はゲットできていない。だからと言って、海まで少女二人で遠出するなんてリスクを冒す気はさらさらない。よって明日、カッチンが私とウォーターリゾートを楽しみことはできないの。もちろん明後日もね。残念?」
「ああ、残念だな」
「でも喜んで。今から一緒に水着に買いに行くことによって、カッチンは私の水着姿を見ることができるのよ。更に、私にどんな水着を着せるかの選択権が得られるかもしれない。さぁ、テンションが上がってきた?」
言われるルリのテンショは全く上がっていないが、諦めきった顔で答える。
「分かった。付き合ってやる」
「なに言ってんの!私だけを裸にしようたってそうはいかないわ。カッチンも買うのよ!」
「お前と一緒に行かないならプールに行く予定も海に行く予定もない。よって水着は必要ない。なによりお金がない」
「高校野球の雑誌を買うお金があるのに、なんで水着を買うお金がないのよ」
「値段がぜんぜん違うだろ!」
「分からないわよ。このデフレスパイラルの時代、水着にだって価格破壊が起こっていてもおかしくはないわ。徹底的にコストカットした、布地が少ないうえにすけすけの白い水着が、雑誌と同じ値段で売っているかもしれないじゃない」
「そんな水着を着るのは嫌だ」
「お金は出してあげるから買ってきなさいよ」
ダイニングテーブルで二人のバカ話を聞いていたルリの母親が口を挟んだ。
「お父さんが帰ってきたら旅行に行こうって話してたから、ルリが水着を買ったって聞いたら喜ぶわよ」
「どこに行くの?」
ルリは、私は聞いていないぞ、という顔で訊く。
「私も聞いてないわ。でも、ルリが水着を買ったら、水着が着られるところになるわよ」
「はぁ、じゃあしょうがないか」ルリはあっさりと陥落した。
「ナイスよリリママ!」
ナナは親指をぐっと立ててルリの母の提案を称えると、軽やかにソファから飛び降りる。
「そうと決まればすぐに出発よ」
「私は着替えるんだからちょっと待て!…それじゃ、ナナのテンションが高い間に行ってくる」
玄関に駆けていくナナに怒鳴りながら、ルリは出かける前から疲れた顔でゆっくりと立ち上がる。
「いってらっしゃい」母はにこやかに二人を送り出した。