2話
一人で悩んでいるうちに、瞬く間に日は過ぎて行った。
あれからシェイラも何も言ってこないし、僕も婚約解消の真意を質す機会を失ってしまった。……いや、ただ彼女の本当の心を聞くのが怖かったのかもしれない。そしてこのままでいれば、何事もなかったことになるかもしれない。そんな甘い考えの僕をあざ笑うかのような出来事があった。
それを知ったのは、本当に偶然だった。
たまたま仕事の用事で、書類を運んでいたときだ。前から歩いてきた二人の男の会話が耳に入ってきた。見たことのない顔だったから、別の部署で働いている人たちなんだろう。僕もそうだが、彼らもお互いのことを気にせず歩いており、普通ならただすれ違って終わるだけだった。彼らの会話に「シェイラ」という言葉が聞こえてこなければ。
「なぁ、昨日俺、驚いたよ。突然、あの姫君が突然やってきたからさ」
「ああ、聞いた、聞いた、ラトゥーサ侯爵のシェイラ姫が来たんだろう!? 俺もその場にいたかったよ! 俺みたいな下っ端が妖精姫を見られる機会なんてないからな……でも何をしに、俺たちの仕事場なんかに来たんだ? 法律用語が好きとかって趣味は聞いたことないが……」
「そんな趣味を、姫君がもつわけないだろう。あいつだよ、あいつ、オーリンを訪ねて来たんだよ」
「はぁ? オーリンって……あの女癖の悪いやつだろう? なんでそんなやつのところに……ま、まさか…今度のターゲットはシェイラ姫かよ……うわぁ……」
「でもな、あいつをよく知る奴によれば、今回はどうやら本気だって話だ。何しろ、いつも何人もの女と同時に付き合っていたのに、姫君以外とは手を切ったとか……必死で口説いているらしい姿を見た奴が何人もいるとか……」
「天地がひっくり返るとはこのことだな。でもよ、シェイラ姫には婚約者がいるんじゃないのか?」
「そうなんだよなぁ……」
遠ざかっていく二人の会話に、僕はいつの間にか足を止めていたことに気づいた。
ばくばくと、心臓が嫌な音を立てている。
頭が真っ白になって、何も考えられずにいた。
僕が何もしなくても、彼女は自分の望みを叶えるためにしっかりと動いていた。
シェイラが僕の仕事場に来たことなんて、一度もない。
それどころか、どんな仕事をしているのかなんて、気にかけたこともない。
僕はようやく、あれから何もいわない彼女の「本気」を知ったんだ。
鮮やかな木々が彩る昼時。
さわやかな風がそよぐ中には、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
老若男女、品の良い紳士、淑女があふれている今日は、とある公爵が開いた園遊会だ。
普段はこういった場に顔を出すことはないのだが、たまたま仕事の休日と重なったこと、次期公爵としてはこういった場で、顔を広めなくてはいけないという処世術のこともあって、父上に言われ仕方がないと参加したものだった。とはいえ、ここに招待されている人たちは幼いときから交流があるので、見知った顔も多く、緊張はしないが、その分こちらのことを良く知っているので気疲れはする。僕はラファトーラ公爵と奥方に挨拶をした後、そのほかにも招待された人と季節や仕事の話などをして一息ついたところだった。
今日の園遊会では、僕のような若造の参加は少なく、そのせいか聞こえてくる会話も穏やかなものが多い。少し疲れを感じた僕は、ラファトーラ公爵の自慢の庭をぐるりと周ってみることにして、近くにいた知り合いにその旨を告げ、歩き始めた。
ラファトーラ公爵の庭は、小さな森といってもよいほど広い。よく手入れされた花々や木々、そして庭の中央にある小さな湖には、白鳥が数羽優雅に泳いでいた。ボートにものれるらしいが、今日はその用意はしてないようだった。僕はこの場からあまり離れることがないよう、そして人目を遮る木々を見つけ、その場に座り込む。これが自分の家なら、母上などに行儀が悪いと叱られそうだが、ラファトーラ公爵ならそれに気づいても、お目こぼしはくれるだろうというちょっとした甘え考えを抱き、息を吐いた。
一人になると、途端に頭を占めるのはシェイラのことだ。
ついに僕は現実を見ることを決め、サルージに相談をした。とりあえず、今はどんな状況になっているのか、オーリン・ケルンとはどんな人物なのか知りたかった。サルージは一つ返事で引き受けてくれ、そしてあっという間に僕の求めていたものを探し出してきてくれた。
もちろん、それは良いものではなかったけれど。
シェイラと、オーリン・ケルンが知り合ったのはやはり、夜会でのことらしい。
オーリン・ケルンはダンスがとても上手く、そういったことで彼女と気が合ったらしかった。それ以後、必ず夜会のダンスでは彼と踊り、親交を深めていったようだった。そして、オーリン・ケルンはシェイラの虜となり、顔も良く、彼女の欲しい言葉や振る舞いをくれるオーリン・ケルンに気持ちが向いて行ったようだった。今では、ダンスだけでなく、夜会を二人で抜け出すこともあるという。二人が何をしているかは考えたくないことだが……彼女のそういった噂が僕のところに届かなかったのは、僕が仕事にのめりこんでいたこと、僕と彼女の醜聞を広めてはならないと友人たちがそれを止めていたこと、シェイラを崇拝している男たちが、オーリン・ケルンのことを苦々しく思いながらも、彼女の立場を悪くしたくないと口止めをしていたこと……それが良かったのか、悪かったのかはわからない。ただ、わかるのは、僕は何も知らなかった大ばか者ということだけだった。
「はぁ……」
一人でいれば必ず出るようになったため息。
ため息をつくたびに幸せが逃げるというが、それは事実かもしれない。何しろ、最近は食欲もないし、頭もときどき痛むし、時々胃もちくちくするようになってきた。そんなことを考えていたせいか、日差しが頭にあたった瞬間、少しだけ目の前が真っ暗になった。自分でも驚き、少しだけそのことに怯えたとき、聞こえたのは若い女性の声。
「あら、こんなところで何をしていらっしゃるの? ライデウ様」
彼女の声とともに目に入ってきたのは、真っ赤な薔薇のようなドレス。
視線をあげれば、彼女の挑戦的な赤い瞳が自分を見下ろす。その中には決して好意ではない、いつも僕を責めるような、憤るような色が走っているように思える。
「……アルシュ嬢……」
彼女の名は、アルシュ・ラトゥーサ。シェイラの姉で、僕が一番苦手とする人だ。
まるで真夏太陽のように燃え上がる黄金色の髪。
見た者を焼き尽くすかのような赤い瞳。彼女が現れた途端、その場は彼女の圧倒的存在感で支配される。赤い唇から紡がれる言葉に、男たちはひれ伏し、夜会で惜しげもなくさらされる首筋や肩などの素肌は、怪しげで魅惑的、まるで大輪の赤い薔薇の化身かのような彼女は、何故か昔から僕に対して辛辣な言葉を吐く。
シェイラとは全く正反対。しかし、アルシュ嬢の言うことはいつも正しい。
いつも僕が目を背けがちな事柄を、真正面から突きつけてくる。その彼女が今日の園遊会に出席しているとは思わなかった。
「具合でも悪いのかしら?」
「いえ、大丈夫です。少し休んでいただけですから」
探るような彼女の視線から逃れるよう、僕は立ち上がった。その目がじぃっと僕の動きを観察しているようにも感じられたが、僕は気にせず立ち去ろうとした。だが、アルシェ嬢はそれを見逃してはくれなかった。
「あら。久しぶりに会ったというのに、もうお帰り? それにこんなところに女性を一人置いていくつもりかしら?」
た……たしかに、こんな場所に女性一人を置いていくのもどうかと思うが、勝手に来たのは彼女だろう……という反論をうまく言えない僕は、せめてもの抵抗とばかりに小さく息を吐き、アルシェ嬢を振り返った。
「……では、ご一緒にお戻りになりますか?」
「そうね。でも、こんなに素敵な湖ですもの、少し散歩がしたいわ。お付き合いくださる?」
赤い瞳が私の誘いを断らないわよね? と雄弁に物語っている。
僕は情けなくも、顔をひきつらせた笑顔を見せて差し出された白く細い手を、そっと掴んだ。
散歩の誘いを受けたものの、アルシェ嬢はあまり話さず、ゆっくりと景色を堪能しているように見えた。これなら僕はいらないじゃないか……と思ったのだが、ラファトーラ公爵の庭といえ、何が起きるかわからない。サルージとは違い、そろほど腕に自信があるわけでもないので、足止めぐらいはできるかなぁとそんなことをのほほんと考えながら、彼女の少し後ろを歩いていた。それにしても、彼女がこの園遊会に参加しているとは思わなかった。何しろ、彼女は派手好きで交友関係も広く、いつも人に囲まれている人だ。シェイラとはまた違った彼女の魅力に男たちは惹かれていたが、何故か女性にも人気が高く、夜会でも女性たちと楽しそうな会話をしている姿をみかける。そんなことを考えながら、腰まである豊かな黄金色の髪が揺れるのを、なんとなく見ていたせいか、突然アルシェ嬢が振り返ったのに対処することができなかった。
「……聞いていらっしゃるの? ライデウ様」
「え、ええ!? あ、あの何か……」
どうやらアルシェ嬢は僕に話しかけていたらしい!
なんてことだ! 話しかけられたことにも気づかず、ぼうっとしていたなんて、紳士として情けなに限り……彼女の瞳が不快気に細まる。うわぁ……これは、少しまずいかもしれない。
「わたくしと一緒だというのに、何をお考えに? どうやら、私の存在をお忘れになるほど、お悩みがあるようですわね。わたくしでよければ、お聞きしましょうか?」
「い、いえ……申し訳ありません。失礼いたしました」
「あら、別にお謝りになることはありませんことよ。何をお考えでいらしたのか、お話くだされば」
……まずい、これはかなり怒っているようだ。
いつも、人の注目を集める彼女は、余程僕に無視されていたことが気に喰わないのだろう。徹底的な追及の構えを見せている。ここまで、女性に敵意を向けられたことがないせいか、僕も頭が混乱していたのだろう、つい変なことを口走ってしまった。
「その、本当に何かを考えていたわけではなく……アルシェ嬢の髪がきらきらして綺麗だなぁと見ていたとか……あ」
……やばい。
ここは、徹底的に謝るところだった。
「……」
「……」
アルシェ嬢ば、ぽかんとした顔で僕を見ている。
僕はそれになんと返してよいのかわからず、また、口走ってしまったことにどう対処して良いのかわからない。しばし嫌な沈黙の時間が流れ、……突然アルシェ嬢がくるりと前を向いた。
「そろそろ、戻りましょう。公爵様たちがご心配になられるかもしれませんわ」
「は、はい」
とりあえず、怒られなかったことに安堵しよう。
僕は先ほどより早く歩き始めた彼女の後を、慌てて追い始めた。そして、園遊会に参加している人たちの会話が聞こえる頃になってきたとき、僕はアルシェ嬢から思わぬ問いを受けた。
「ライデウ様。シェイラとの結婚はいつなされますの?」
「え?」
「シェイラと婚約をしてもう五年。あの子ももう、結婚してもよい年頃ですわ。もうお考えになっています?」
「あ、ああ。はい……」
シェイラからの婚約破棄の言葉が頭をよぎる。
そのせいだろうか、僕の歯切れの悪い言葉に、アルシェ嬢は不満げな顔を見せた。
「お仕事にお力を注ぐのは決して悪いことではありません。しかし、あの子もそろそろ貴方様を支えて、アルクール公爵家を安泰に導く役目というのも自覚する必要があると思います。父などは貴方次第とお考えのようですが、わたくしは早くあの子に「落ち着いて」もらいたいと思っていますの」
「……はい」
アルシェ嬢の言葉には、何かひっかかる物言いで、聞こえる言葉とは違う意味がいくつも含まれていた。僕はその真意を読み取るよう、真正面から彼女の瞳を見つめ返す。
「妹を、お願いしますわ。ライデウ様」
「……はい」
僕を待つことなく、くるりと赤いドレスを翻して去っていく。
きっと、この園遊会にでたのは、僕にこのことを言いたかったためなのだろう。
そして、これは彼女なりの忠告。妹に起きていることは、彼女の耳にも届いているということだ。
僕はふがいない。
何事も後ろ向きで、自分が見たくないものからすぐ逃げ出してしまう。
だけど、もうそんなことはできないだろう。
僕はやっと、シェイラともう一度話をすることに決めた。