過去と今
「リシェル・・」
フェルナンドはもう一度呟く。
わたしは声も出せず、彼を見つめるしか出来なかった。
目の前に立つ男は、以前と何も変わっていないように見える。風に揺れる絹糸のように細く繊細な金の髪も、名だたる絵師が描く女神のようでありながら、凛々しい男性的な顔立ちも。
何一つ、別れた日から変わっていなかった。
「変わりは、ないか?」
フェルナンドは頬に微かな笑みを浮かべて、こちらに近付いて来る。その動きはいつも堂々としていた彼とは違い、わたしの出方を窺うようにゆっくりだ。
「・・フェル・・」
そしてわたしが小さい声で愛称を口にすると、安心したように速度を速めて来た。
懐かしい距離に彼の姿がある。とても不思議な気がした。まさかまた、話をする日が来るなんて・・。
「久しぶりだね。」
「ええ。」
だが本当は、二人が別れたのはそんなに昔のことではない。よく考えてみればつい最近のことだ。
「・・リシェル、君は、顔を見せてくれないんだね。」
フェルナンドは淋しげに囁く。わたしは彼の顔から視線を反らしていた。
彼のことはすっかり諦めたと思っていた、けれど。フェルナンドと実際に会ってしまうと、こんなに近くに存在を感じてしまうと、わたしの中にまだ彼はいたのだと今更ながら気付かされてしまう。
わたしは、弱い自分を守るのに必死だった。
「ごめんなさい。」
「何故謝る?君は悪くない。全ては僕が・・、不甲斐ない僕が・・」
フェルナンドは口ごもる。彼は震えるように下を向いた。
「僕は、本当に君を・・いや、」
彼は振り切るように顔を上げた。これ以上言う訳にはいかないと決めたように。
「君の噂を聞いたよ。」
それから、瞳を翳らせて暗い笑顔を作る。
「エミリアナ殿下の護衛騎士のケイン・アナベルと付き合い出したんだね?」
わたしの体は、呼吸の仕方を忘れてしまったようだ。
「き、聞いたの?」
喘ぐような声が出た。
「ああ、わざわざ僕の直ぐ横で、会話の話題にしてくれる人間がいるからね。」
フェルナンドは皮肉混じりの笑い声を上げる。
「君は本当に・・あの男と付き合っているのか?」
「どういう意味?」
「いい噂はあまり聞かない。」
彼は苦し気に言葉を吐き出した。
「あなたに関係ないでしょう?」
「心配なんだ!」
フェルナンドは大声を出した。わたしは思わず彼を見上げる。真剣な眼差しとまともにぶつかった。
「僕には、君にどうこう言う資格はないのかもしれない。だが、君の幸せは祈ってる。誰よりも幸せになって欲しい。だから、」
「だから、何よ・・・」
「あいつは、いい加減な男だと評判じゃないか?君を幸せに出来るとは思えない。」
「あなたが他人を悪く言うの、初めて聞いたわ。」
「僕だって言う時は言うさ。君が不幸になるのを、むざむざ黙って見ているなんて出来ない。」
彼はわたしの肩を掴むと強い口調で言う。
「君を幸せに出来る男は他にいる。あの男ではない。目を覚ますんだ、リシェル!」
「嘘つき!」
わたしは訳の分からない感情に支配されていた。気が付けば、目の前のフェルナンドに向かって大声で叫んでいた。
「何故?嘘だと・・?」
彼は悲しそうな顔をしている。
「わたしを幸せにしてくれる男?それは、あなただとでも言うの?」
フェルナンドは言い淀む。
「いや、それは・・」
「わたしの幸せ、それは、あなたの言う通り今すぐ彼と別れて、一人ぼっちになることだと言うの?」
「リシェル・・」
「そしてあなたと、もうすぐ結婚するあなたの奥様になられる方の噂を聞くことなのかしら・・たった一人で・・」
涙が溢れてきた。
「リシェル、違う、そう言う意味では・・」
「そんなの、わたしはちっとも幸せじゃない!あなたを楽にしてあげたくて、無理して笑っていたわたしも幸せじゃなかった!」
わたしは遂に口にしてしまった。心の中に閉じ込めて封をしていたあの時の思いを。
フェルナンドは打ちのめされたように黙り込んでいる。
「ケインは優しいわ。少なくとも側にいてくれる。彼がどんな思いでいてくれるのか分からないけど、一人じゃないもの。」
そう、彼はわたしを好きで側にいてくれている訳ではない。あくまでも王女を支える仲間として、わたしの状況に同情してくれているだけだ。きっと昔、彼自身がしてしまった事も、関係しているのだろうとは思うけど。
「・・今のわたしには、それでいいの。誰かの支えがあるだけで違うのよ。」
そうよ、それ以上は何も望んでいない。ほんの少しの優しさだけで、強くなれたり嬉しくなれたりすることもあるのだから。
フェルナンドは顔を歪ませて、わたしの泣き顔を見ている。彼はポツリと呟いた。
「僕は君をもう、傷付けるだけなのかもしれないな・・・。それどころか、君が一番辛い時に側にいてやることも出来ない。」
「フェル・・」
彼は淋しそうに笑う。変わっていないと思った彼の笑顔は、あの頃のように溌剌としたものではなくなっていた。
「リシェル、最後に願いを一つ、聞いてくれないか?」
いつの間にか、フェルナンドの目にも涙が光っている。あの時のようだ、別れを告げられた時。
「何?」
不意に、わたしは彼に抱き締められた。力強い腕の中に、懐かしい彼の匂いの中に包まれていた。
「リシェル、少しだけでいい。こうしていて欲しい。」
やるせない声が聞こえてくる。
「フェル・・」
彼の肩は小刻みに震えていて、わたしにはそれを強く振り払うことなど出来なかった。
「どういうおつもりかは、知らないが、リシェル殿を自由にして頂きたい。フェルナンド・ディッケンズ殿。」
突然、近くで大きな声が響いてわたし達は驚く。
「彼女は僕の大事な人だ。手を離して貰いたい。」
声の方へ振り向くと、硬い表情を浮かべたケインと王妃の侍女が立っていた。何故だか、ケインの息は少し上がっているようだ。
「すまなかった、アナベル殿。」
フェルナンドは、わたしの体をそっと離す。それから、顔を伏せて謝罪を告げた。
「リシェル殿も、我が儘を言って申し訳なかった。許して欲しい。」
「いえ」
わたしの顔は一気に赤くなる。ケインに見られた恥ずかしさと、フェルナンドを拒否しなかった後悔とで血が逆流するようだった。
彼はわたしをどう思っただろう?フェルナンドに容易く抱かれている、わたしを。
ケインは側にいた王妃の侍女に「後で伺う」と断りを入れて彼女を帰した。
それから、フェルナンドをじっと見つめたまま、わたしの側に近付いて来る。
「ディッケンズ殿、どういう、おつもりだ?」
そして低い威圧的な声でフェルナンドに問い掛けた。
ケインが側に来ると汗の匂いがした。そう言えば鍛練場にいると、騎士が言っていたのを思い出す。彼は稽古の途中だったのだろう。略式の鎧と剣を身に付け、兜は外し片手の中にあった。額と首筋に汗を掻いており、時々滴り落ちている。それを鬱陶しそうに手で拭いながら、フェルナンドを睨み付けて立っていた。
何故、こんなに怒ったような顔をしているのだろう?わたしは不安になる。
まさか、わたしの煮え切らない態度にうんざりしたの?それとも何の得にもならない、馬鹿げた芝居に呆れ果ててしまったの?
「本当に申し訳なかった。彼女を見ていたら懐かしさのあまり・・」
「それで、ご婦人に無礼を働くのか、あなたは?」
ケインの追求は厳しい。
「いや、そんなつもりではなかった。何と責められても仕方ないが。」
「彼女の心を乱すのは止めて貰おう。あなたは、ご自分の奥方になられる方に誠心誠意尽くされるべきだ。」
フェルナンドは彼の方へ視線を向ける。
「・・それは、君自身の、自戒の意味もあるのだろうか?」
わたしの横で、ケインの体が不自然に動いた。
「まあ、そうです。僕と同じ間違いを、あなたにして欲しくない。」
彼は目を伏せて答えた。わたしには二人の話す内容が全く分からない。どういう意味なの?
フェルナンドは微かに笑った。切なくなるような笑みだった。
「肝に命じておくよ。」
彼は背中を向け、手を上げる。さよならの合図だ。そして一歩、足を踏み出したが、何かを思い出したように振り返った。ケインを真っ直ぐ見つめると、思い詰めたように問うてくる。
「アナベル殿、君はリシェル殿に本気なのか?彼女を幸せに出来る、自信はあるのか?」
ケインは驚いて目を見張った。彼は言葉に詰まって直ぐには答えられなかった。
「それは・・」
仕方ない。だってわたし達は偽物の恋人同士だ。今のような質問に、直ぐ様反応出来る筈がない。
だが、フェルナンドは待っていた。彼は美しい顔に、静かではあるけれど強い意志を覗かせて、ケインの返事を待っている。返答次第では絶対に退かないと、その顔は言っている。
ケインは覚悟を決めたようにフェルナンドを見返すと、静かに宣言した。
「ああ、・・勿論。僕は彼女を誰よりも、大切に思っている。幸せにする自信もある。」
彼にはいつものふざけた軽さはどこにも見えなかった。その姿は、本当にそう思っているとわたしさえ信じてしまいそうな程に、真摯だった。
フェルナンドはそんな彼の表情に目を丸くして、それから柔らかく微笑む。
「安心したよ。」
まるで昔の、そう、わたしが好きだった頃のような、優しい穏やかな微笑みだった。
*
フェルナンドが去ってしまうと、ケインは気が抜けたように座り込む。
それからわたしから顔を背けるように前を向いたまま、気持ち良さそうに風に吹かれていた。風が通る度に黒髪が無造作に揺れて、整った横顔がはっきりと現れる。その表情は満ち足りたように、笑顔を浮かべていた。
だがわたしは、すっかり寛いでいるケインに苛立ちを感じている。
フェルナンドにあんなに大きな啖呵を切って、この先どうするつもりなの?
「まいった、緊張したよ。」
ケインは疲れたような声を出した。
わたし達のは、ただのお芝居なのよ?わたしは、もうすぐ城からいなくなるからいいけど、あなたは城に残るのよ。
「いい奴だったな。話したら分かった。君が惚れるのも分かる気がする。」
そしたら、あなた一人が、皆の好奇の視線に晒されるのよ?それでも、平気なの?
「最初、君が泣いてるのを見て、あいつに無理じいされたのかと思って慌てたよ。とんだ誤解だった。」
あなた、本当は馬鹿でしょ?ファンの子もいなくなるわよ。一人、損を見るんだから、分かってるの?
ねえ、本当に分かってるの?
「リシェル殿?」
ケインは顔を上げた。
「何故、黙って・・リ、リシェル殿?どうしたんだ?」
彼は慌てて立ち上がると、わたしの顔を覗き込む。
「えっ?」
やっと、わたしの方を向いたわね。中庭入って来た時から一度もまともに見てなかったでしょう?
「どうしたって、何が・・?」
わたしは心配気に見るケインに問い掛けた。
「何がって、泣いているじゃないか、・・そんなに辛かったのか?」
え?わたし、また・・泣いてるの?
「すまなかった。君の気持ちも考えず、勝手なことをして・・・」
ケインはわたしの涙を痛ましげな視線で見ている。わたしは頬を流れる涙に指で触れた。それは新たに溢れてきた温かいものだった。
「本当だ、わたし、・・泣いてる・・」
「悪かった。」
ケインは辛そうに目を伏せた。
「君は、まだ吹っ切れてなかったのに・・」
わたしは彼の言葉に息を飲む。それから、横のケインを虚ろな目で見つめた。
違う、この涙は・・
彼の瞳は黒く影を差していた。この表情は何も気付いていない。わたしの涙の本当の理由になど、これっぽっちも。
きっと勝手にわたしの気持ちに答えを出して、可哀想にと憐れんでいるだけなのだ。
わたしは心の中で叫んだ。
これは、フェルナンドのせいではないわ
・・・あなたよ
あなたがあまりに考えなしに優しくするから、辛くなったのよ!
あなたが特別に優しいのは、お芝居だって分かってるのに・・・
その優しさに意味を求めちゃいけないって分かってるのに・・・
わたしは顔を覆って泣いていた。
もう、誤魔化せない
わたしは、ケインを
いつの間にか・・好きになっていたんだ・・・