No.42 新美愛夜(アラビアン・ナイト)
僕の日課は、師匠である夏木先生から受ける講座のあと、その弟子である仲間達と一緒にお気に入りのカフェー『新美愛夜』で文学や文壇のあり方について議論を交わし合うことだった。とは言え、僕は兄弟子の桜井先輩や川端先輩のような確固たる持論を持っていないので、もっぱら聞き役に徹している。
夏木先生のパトロンをしている僕の父は、僕を『第二の夏木漱次郎』にしたいらしい。経営している貿易事業は優秀な長兄が継ぐので安泰らしい。幼い頃から夏木先生の出入りがあり、僕に至っては親戚のおじさんかと思うほど、当たり前に先生の姿が家にはあった。
父の夏木先生に対する傾倒っぷりを見れば、長兄が一時文壇の世界へ溺れていったのも無理のない環境だったように思う。長兄が自分の才能に見切りをつけるまで、次男の僕が跡目にと経営学を勉強させられていた。
「――ということだと思うんだ。だから僕は先生の『書き分け論』には到底納得出来ん」
「ううん……、桜井先輩の持論に僕も共感する一面がありますけど。でも、大衆に受け容れられ易い娯楽小説も作家にとっては生活の糧として必要、と認めてもいいんじゃないですか」
「川端は現実主義だから、それが作品にも表れるのだよ。読み物として纏まりは非常によいのだが、何処か今ひとつ心を揺さぶられる強いメッセージを読み手に突きつけることが出来ない」
「きついですね。でも、それを言うなら、桜井先輩だって、小説というより主張文ですよ。まだ仲辻の書く揺れる主人公の方が、人間味があって読後感がいい。なあ、そう思わないか、熊代」
「……そうですね。桜井先輩の弁にも川端先輩の弁にも、それぞれ僕には新鮮な発想で、とても勉強になります」
僕は兄弟子達の熱弁に相槌を打ち、熱心に聞き入る素振りを見せながら、心の中では他人事のように自分のことを振り返る。
いかにも書生であることをひけらかすように身にまとった立て襟の洋シャツは、僕の置かれた立場の居心地の悪さと同じくらい、僕の首を締めつける。袷に袴という恰好も、すっかり洋装に馴染んでいた僕には不釣合いのような気がして。
そんな陰鬱な僕の思いを、先生も父も先輩達も知らない。硝子に映る、散切り頭の僕は何とも滑稽な姿で、僕の目には道化師にしか見えなかった。
そんな僕が、何故夜毎この店へ日参するのか、と言えば。
「ああ、芙蓉さん、こっち、こっち」
同期生の仲辻が彼女を呼んだことで、盗み見ていた僕の視線と彼女のそれが合ってしまった。
「はーぁい、すぐ行きますから、書生さん達、ちょぉっとお待ちくださいねぇ」
可憐な桜の花びらが柔らかくそう告げ、ぱくりと上下へ綺麗に割れた。ただそれだけでもどきりとするのに、伝票を取りに行く為くるりと踵を返すと、結い上げた髪の僅かなほつれや左右対称の美麗なうなじが、もっと僕の心臓を蹴り上げて行くのだから堪らない。視線を逸らし損ねた僕は、先に彼女が視線を外した理由が、僕の視線を不潔でいやらしいものと受け取り背けたのではないか、とさえ勘ぐってしまい、再び彼女が伝票を手にテーブルへ戻って来ても顔を上げることが出来なかった。
「桜井さんがビール、川端さんが焼酎のお湯割り、仲辻さんがウィスキー、で、書生さんは、いつものハイボールでいいですか?」
彼女のその問い掛けに、はっとして面を上げる。彼女が再び合った視線を逸らすことはなく、にこりと女神の微笑をくれた。
「……はい」
一瞬だけ「僕の為の笑顔」という夢を見ながら、懐の財布に手を伸ばす。彼女達女給に支払われる給料はない。チップで身銭を稼いでいるから、少しでも力になりたいという思いをこめて、今日も二百円紙幣を差し出した。
「あら、いつもたくさんありがとう。ゆっくりしていってくださいね?」
お愛想だと解っている。仲間内の誰よりも金に不自由してない僕だから、頼んでいなくても気遣ってくれるし、僕の拘りであるハイボールを覚えていてくれる。でも僕は、それでもいいと思っているのだ。だからそっとしておいて欲しい。
「おいおい、熊代よ。お前親父さんにばれたらおおごとじゃないのか」
皮肉な笑みを浮かべた桜井先輩が、からかうように僕にそう言った。
「水商売の女につぎ込んでいると、摩周先生のように骨の髄までしゃぶられた挙句、筆も折らざるを得なくなるぞ。ほどほどにしておけよ」
なんて、解っていることを、川端先輩までもっともらしく忠告しないで欲しい。
「こうして芙蓉さんをこの席へ呼ぶことくらいしか、僕が出来ることはないですから。これからも教えて下さい、色々と。それに、僕はいいんです」
僕は心の中で苦虫を潰す。言っていることと腹の中で考えていることが違うじゃあないか、君達は、と。だから、言ってやったのだ。この中に、僕の皮肉を皮肉と受け取れるだけの文才の主がいるとは思えないと感じつつ。
「皆さんの憧れの的じゃあないですか、彼女は」
すっかり板についた媚びるつくり笑いを浮かべながら、僕は心の中で理屈ばかりの無能達から浴びせられる上っ面の言葉を、そうやってやり過ごすことしか出来ないでいた。
カフェー『新美愛夜』で一番人気の『芙蓉』さん。その頃の僕にとって、彼女は恋焦がれて止まない人だったのに、僕は彼女の源氏名しか知らないというのが現実だった。
いつもの仲間と『新美愛夜』を訪れた僕は、皆と同じくぽかんと間抜けに開けた口の閉じ方を暫し忘れてしまった。
――閉鎖。
「……まあ、仕方がないよな。※1 青線だし」
川端先輩が、何処か既に予期していたような口振りでそう呟いた。
「でも、それほど品の悪い店ではなかったから、結構気に入っていたんだがなあ」
頭を掻き毟りながら、とても残念そうに桜井先輩がそう零す。だけど仲間達のごちるそんな言葉は、僕の耳を右から左へと流れていった。その言葉の中に、一度も芙蓉さんに対する言葉がないから、それが無性に苛立った所為だ。軽薄なものだ。あんなに皆「可愛い」だとか「嫁にしたい」とか言っていた癖に。彼女の尻に触れた中年の親父を殴り飛ばした桜井先輩までが、一つも彼女のその後を心配しないだなんて思いも寄らない非情さだ。
「――って店も、なかなか論じるにはいい雰囲気の店なんだ。取り敢えずそっちへ河岸を変えるか。なあ、熊代」
当然のようにそう言って僕の肩を抱く川端先輩の腕を、僕は初めて払い除けた。袷の懐から財布を取り出し、目を丸くする仲辻に
「僕は、今夜のところはやめておくよ」
と吐き捨て、彼の懐へ紙幣を捻じ込んだ。
媚びた敬語を使う気にすらなれなかったのだ。どうせ僕は財布としての存在でしかないのだし、金さえあれば、自分が同席などする必要はないだろう。「おい、待てよ」と引き止める仲間達の声が聞こえていない振りをして、僕はその場を後にした。
裸電球の柔らかな橙。水煙草の香りが何処か混沌を感じさせる妖しげな空気。カフェーでありながら下品な雰囲気のない『新美愛夜』という空間は、僕の乏しい創作意欲を刺激してくれる存在だった。
芙蓉さんの家庭的な温かい笑みは、『新美愛夜』にカフェーというより学生寮のようなぬくもりをもたらしていた。時折場違いな客が来ると、常連の客達で彼女達女給を守るのが当たり前だった。
創作意欲と温かさをくれる桃源郷――それが、僕にとっての『新美愛夜』だった。
名残惜しくて懐かしくて。僕は『閉鎖』の札が貼られたままの『新美愛夜』へ日参するのが、その日以来の日課になった。
ある日店の扉に張られていた『閉鎖』の札が取れたかと思うと、そこはほどなく昼間営業する純喫茶として、『新美愛夜』という店名のまま再開された。それだけでも嬉しい出来事だったのに、店内の様子も全く変わらず、使い込まれた杉材のテーブルや椅子や床や、食器棚の暖かなこげ茶が顔見知りのように僕を迎え入れてくれたのだ。
「いらっしゃいませ」
と迎え入れてくれた店主は見たことのない顔で、それだけが少し寂しかった。だが、決して悪くはない。貿易会社を継ぐつもりで学んで来た僕の中の勘が、彼を好意的に捉えていた。まだ閑散としている店内なので、自由に席を選択出来る。僕は先輩方の目を気にすることないこの状況を芳しく思い、本来の僕が思うままキッチン前の席を選んで腰を下ろした。
「今日から営業ですか。実はカフェーの頃から愛用していたのですよ。同じ店名のままで嬉しい限り」
僕はシャッポを隣の椅子へ置き、軽く髪を手櫛で整えながら、店主にそう声を掛けた。
「私も以前の店がお気に入りだったのです。まさか客から店主になるとは思いませんでしたがね」
口髭の似合わぬ笑顔が、その言葉と共に店主から零れた。
「気づきませんでした。僕は日参していた口だったのに」
「私はよく存じておりましたよ。あなたがお客の第一号とは光栄です。芙蓉さんが、唯一お名前を呼ばなかった『書生さん』。皆があなたを熊代さんとお呼びしていて、お名前を知らないはずがなかったでしょうにね」
予期せぬ人から、思いもよらない言葉を口にされ、僕の饒舌が止まってしまった。言われて初めて気がついた。何か意味があったのだろうか。
僕の動揺を知ってか知らずか、店主は楽しげに思い出話を続けた。
「なかなかどうして、羨ましい限りでしたよ。皆に姉のような優しさを振り撒く彼女が、あなたにだけは随分とつれない。徹底したチップと給仕の間合いを取り続けているのは、どういう意味だったのだろうかな、と」
「……書生風情があまりにも金払いがいいので、却って怪しいと警戒されていたのでしょう。珈琲を」
キッチン前の席を選んだことに悔やんだ僕は、加えて水煙草を申し出た。
「ああ、失礼しました。顔なじみの方が見えたのが嬉しくて、つい仕事を忘れました。どうぞ」
彼もこちらが気色ばんだのを察したのだろうか。すんなりと引き下がり、水煙草の席へと促す為にキッチンから出て来て水煙草の準備に取り掛かった。
彼も愛飲していたのだろうか。慣れた手つきで手早く整えると、タバックを仕込んで「お待たせしました」と軽く頭を下げてからキッチンの方へ戻って行った。こちらも軽く会釈をし、ホースを口にあてがい深く吸い込む。通常は何人かで嗜むものを独占しているので、贅沢な気分をも味わえた。
水煙草を置いている店など滅多に見ない。水煙草はいつしか僕の中で、勝手に芙蓉さんと置き換えられていた。皆で嗜み楽しむもの。滅多にお目に掛かれない素晴らしい癒し。それを独占出来ている今、例え吸い始めの物足りない煙の量でも、僕次第で幾らでももっと燻らせることの出来る一時間。水煙草を楽しみながら、僕は心の中で芙蓉さんの美麗な桜色をした唇がかたどる最愛の笑顔を思い描いていた。
いつの間にか笑んで緩んだ口許がぴしゃりと閉まったのは、その瞬間だった。
「義兄さま、聞いて。お父さまがとうとう……あ」
一度は閉まった僕の口が、ぽかりと阿呆のようにまた開く。手にしていた水煙草のホースはくにゃりとだらしなく垂れ下がり、所在なさげにぶらぶらと揺れていた。
僕をそこまで驚かせた人は、今まで見たこともないいでたちで。
茜の袴に負けじとばかりに頬を染めた彼女は、淡い琥珀の袷に紅白矢絣の長着を羽織った女学生姿で僕の前に現れた。
「……書生さん……」
「芙蓉さん……」
その瞬間、『新美愛夜』の空間だけ、時間が止まってしまったような気がした。
たてられた珈琲が煙草の匂いを凌ぐ頃、僕はキッチンから最も離れた奥の席で、俯いたまま芙蓉さんと向かい合わせで座っていた。
「書生さんにこんな恰好を見られるとは思いませんでした。恥ずかしいです」
意味ありげな笑みを彼女に投げ掛けながら珈琲を置いた店主が立ち去ると、ようやく彼女が口を開いてくれた。だけど、何と答えてよいのか解らない。初めて見る解いた髪の艶やかさとか、化粧をしない芙蓉さんの意外と幼い少女のような笑顔とか、薄桃色の自然な色をした口許に気が行ってしまっていることとか、そんな僕の中身を見透かされそうで巧く言葉を選べない。それを覚られまいと誤魔化すみたいに、僕は無言で珈琲をすすった。
「あの……はしたない娘と思いました? 自分からご相席をお願いしたり、女給なんかをしていたり、とか」
彼女にはあまりにも似合わないくぐもった細い声に、思わず僕は顔と声を上げた。
「そ、そんなことは……」
ありません、と何故滑舌よくはっきりと言えないのだ、馬鹿者め。止まり兼ねない心臓に向かって、頭の中でそう罵った。一瞬大きな瞳をもっと大きく見開いた彼女は、すぐにいつもの素敵な微笑を浮かべたかと思うと、胸元に両の手を重ねて「ほぉ」と一息ついた。
「よかった。書生さんは、いつもチップだけ下さってお喋りをなさらないから、私が書生さんの気分を害していたのではないかと思っていたのですよ」
そう切り出してからの彼女は、僕の口下手を補完するみたいに、自分の話をこんな形でしてくれた。
「カフェーを辞める時に、と思っていたのに、思い掛けない形で突然お会い出来ない状況になってしまって、どうしたものかと持ち歩いていたんです」
彼女はこれまで僕から受け取ったお金だと言って巾着袋から取り出した封筒を、揃えた細い指先で僕の方へついと差し出した。
「これを、お返し致します。いずれ書生さんにお返しするつもりでいたんです」
どうやら渡して来たチップは、僕の妄想の具現と化したらしい。気を悪くなさらないで、という申し訳なさそうな声が、逆に僕の羞恥心と罪悪感を刺激した。
彼女は生計の為に給仕をしていたのではなく、何でもご尊父に「女が物書きなど生意気だ」と反対されたことが原因で、ご尊父に反発と決意の固さを知らしめる意図で給仕をしていたとのことだった。
「以前のカフェーは、義兄の友人が店主だったので、危なげなお店でないことは解っていたのですけれど。父にしてみれば、給仕ということ自体に恥を感じて折れてくれるのではないか、と思って。……私ったら、自分の話ばかりし過ぎですね。ごめんなさい」
彼女が我に返ったようなはっとした顔でそう言った。面映そうに僕へそう話を振って来る頃には、僕の方も頬の筋肉が緩む程度には緊張がほどけていた。
「いえ、僕の方こそ、大変失礼したと思います。お詫びにこちらの珈琲をご馳走させていただけますか」
ありがとうございます、と花開いた彼女の笑みは、その名のとおり、芙蓉のように淡く可憐で美しかった。
その日から僕は仲間から「女でも出来たか」とからかわれるようになってしまった。何故ならば、仲間内に隠れて一人こっそり講義のあとの時間を『新美愛夜』に費やしているからだ。
ご尊父の許しを得て、学業の傍ら執筆に勤しむ芙蓉さんとの議論は、時に僕の中にある創作意欲を以前とは異なる形で刺激した。
「どうにも僕の書く作品というのは、先生の琴線に触れることが難しい。『今の時代に求められているのは、輝かしい未来を感じさせる繁栄と成功の物語だ』と。この作品の主人公は、他者に責任を押しつけては己から逃げることに終始して終わる。読者にとって無駄な時間を費やしたと感じるに過ぎない愚作だとまで言われてしまった」
しかし、と僕は作品に対する意図した主題を話し足す。辟易とする主人公を反面教師とし、逆にあるべき姿を描き出したつもりだったのだ、と。僕は自作の主人公に、少し前までの自分を投影していた。
彼女は僕の第一稿をもう一度ぱらぱらと繰ると、ある頁で繰るのを止めて、僕の方へ向け直した。
「例えばこの場面。主人公が父親の命じるままに兵役へ就いてその道での出世を不本意ながらまい進していく訳ですが、畑違いの仕事をこなす割には、そこにあるべき主人公の苦悩や葛藤が今ひとつ伝わって来ない、と言いましょうか。……私が女だから解らないだけなのかも知れませんが」
例えば、と彼女は、給仕時代のお客の一人の語った軍籍での厳しい一面を愚痴られた話を語ってくれた。「酔いに任せて大仰に脚色されているお話かも知れませんが」と、断りの一言を申し添えると、にこりと芙蓉の花を面に咲かせた。
「なるほど……言われてみれば、僕は勢いのままに書き殴って来ただけかも知れない。訴えたい部分にばかり気持ちが先走って、そこへ至る出来事などの背景に、あまり重きを置けていなかった」
そう肯定する言葉と裏腹に、声のトーンが低くなる。なかなかどうして、反論の余地がない彼女の弁に、僕は臍を噛んでいた。
そんな僕に同情を寄せたのだろうか。見識の深さを匂わせた彼女はおもむろに話題を変えていった。
「書生さんの悪い癖ですね。すぐそうやって人さまの意見を丸ごと鵜呑みにしてしまいます。そうしてご自身の全てを否定してしまうのって、勿体無いことですわ。私、書生さんの『亜剌比亜の夜』が大好きなんですよ」
唐突に出た僕の過去の作品名と、それがよりによって彼女の口から出たことに、作者である僕は色んな意味で驚き、思わず大きな声を上げてしまった。
「どうしてその作品を芙蓉さんがご存知なんですか」
それは桜井先輩に誘われて、仲間の人数より少し多めという程度の部数だけ刷った同人誌への掲載に向けて、試験的に執筆してみた小説の題名だった。
それは、時代の波に翻弄されながらも、健気に逞しく生きていく女性が主人公の物語で、舞台はカフェーだった頃の『新美愛夜』をイメージし、主人公のイメージは勿論、穴が空くかと心配になるほど魅入っていた目の前の彼女だった。
よりによって、勝手に妄想しながらモデルにしていた当人に読まれていたとは。僕は火照る頬を冷ますつもりでいたのか、無言でグラスに手を伸ばし、ぐびりと冷たい水を飲み干した。少量の水が焼け砂を冷やせる筈もなく。そっとお替わりの水を注ぐ店主の入れた水に再び手をつける僕をどう思いながら見ていたのか、彼女は続けて丁寧且つ熱のこもった言葉でその作品の感想を述べてくれた。
「少しお話の筋に矛盾があったり、下調べの足りない描写なども散見致しましたけれど。でも、作者の主人公に対する愛情をとても感じる作品でしたわ。カフェーで働く女給の過酷さや女性の感じる屈辱を、男性なのにとても生々しく描かれていて、心無いお客からの屈辱に涙する場面では、私、恥ずかしながら本当に涙しましたの。それだけに、主人公を慕って便宜を図る店主や彼女を見初めて身請けする高官の紳士に恋をしそうになりましたわ」
そんな気恥ずかしい言葉を、茜に頬を染めて語ってくれた。僕は彼女の感想を聴いて、胸の内の恋心を彼女に見透かされてしまった気がして仕方なく、ただただ俯き、みっともない散切り頭の天辺を彼女に晒すことしか出来なかった。
歌うように空を見つめて、彼女がぽつりと言う。
「書生さん。きっと書生さんは、よいものを書こうと肩肘を張って仕上げた作品よりも、ありふれた日常から宝石を拾い上げて心のままに書き綴る作品の方が、人の心を揺り動かせるのかも知れませんよ」
不意に僕と視線を合わせた彼女が、ほんのりと頬を染めて微笑んだ。
「他にも桜井さんから読ませていただいたのですが、私は書生さんの……例えるなら与野小夜子先生のような、叙情的な作風の方が大好きです」
世を風靡している一流の女性作家で僕の作風を例えられ、僕は一瞬顔を伏せてしまった。
大好きです、という言葉が、僕の心臓を早いリズムで蹴り飛ばす。これは僕の妄想に違いないと頭では解っているのに。僕は芙蓉さんの本名さえ知らない。芙蓉さんは僕を未だに名前で呼んではくれない。そんな遠い間柄なのに、何を勘違いして期待などを抱くのだ、と叱咤する自分がいるのに。淡い橙の灯の色が、彼女の頬の紅を強調させる。僕の拙い『亜剌比亜の夜』の中で、主人公を救った英雄の紳士は、そうありたいという僕の理想像だった。
「あの……っ」
――お名前を教えてはくれませんか。
物語の中で、主人公に一目惚れをした紳士の第一声を、僕はそのまま彼女に対して発していた。物語に出て来た紳士のように、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめて格好よくは言えなかったけれど、ぐっと握り締めた自分の拳を睨みながら、そう口にするのが、今の僕の精一杯だった。
「え……? 本当に、ご存知、なかったんですか?」
向かいの席から、頓狂な声が返って来る。訝る僕がおずおず視線を上げると同時に、うっかりその存在を忘れていたが、二階席からの「やっと言えたか、この野郎」という冷やかしの声が彼女の自己紹介の声を掻き消した。
「な……っ、桜井先輩!」
びくんと肩を揺らした芙蓉さんと目が合ったのはほんの一瞬だけで。彼女と同時にその更に上、二階席へ僕の視線も流れていった。
「まあ、皆さん揃っていらっしゃったんですか。覗き見なんて、酷いです!」
振り返った二階を見ている彼女が、どんな表情をしているのか想像はついても、今の僕にそれを見ることは出来なかった。ずるい。二階席のいやらしい連中は、僕が見たことのない彼女の怒った顔を、今この瞬間初めて見ているのだ。そう思うと、桜井先輩に対する怒りがこみ上げて来るのを禁じ得ない。
それに、そこにいたのは桜井先輩だけじゃあなかった。川端先輩もにやにやとした笑みを浮かべ、そして同期の仲辻だけは、実に悔しそうな眼差しで僕の方を睨んで二階席のへりに設置されている格子柵の隙間から僕らをじっと見下ろしていた。
「ど、どうして。みんな、いつものところで談義をしていたんじゃ」
「二階席への直通階段を君に教えずにおいてよかったよ」
桜井先輩は僕の言葉を途中で遮り、グラスを片手に螺旋の階段を降りて来た。他の仲間も次々とグラスを手に取り、僕らの席の周りへと河岸を変えて来た。芙蓉さんの義兄だという店主は全部知っていたに違いない。笑いを噛み殺すような顔をしてこちらを一瞥すると、打ち合わせどおりと言わんばかりに二階席の珈琲を盆へ載せてこちらの方へ運んで来た。
「君は僕らと違って、通いの門下生だから知らなかったのだろうがね」
意地悪な笑みを浮かべて桜井先輩が勿体つけた物言いで口を開いた。ふっ、と一度だけ鼻で笑うと、他の皆も釣られた様にくつくつと喉の奥で笑い出した。
「芙蓉さんというのは源氏名でも何でもない。彼女の名前は、ナツキフヨウというのだよ」
ナツキフヨウ……なつ、き、と、僕は心の中でその名を音で復唱する。音の並びを漢字に置き換えた瞬間脳裏を過ぎったのは、毎日通う先生の門前に掲げられた木目の表札の文字だった。
――夏木漱次郎、多世、椿、沙羅……そして、芙蓉。
「え……えぇっ?!」
思わず芙蓉さんをしげしげと見つめてしまう。彼女は大きな瞳を一層見開いた一瞬のあと、ぽかりと小さく開いていた口をきゅ、と閉じて、軽く下唇を噛んだまま俯いてしまった。
「そう。芙蓉さんは、夏木先生の末娘さんなのだよ。彼女がお茶を出してくれる時、君はいつも彼女には目もくれず、熱心に先生と議論を交わしていて気づかなかっただろうがね」
確か前から芙蓉さんを見ては「嫁にしたい」というのが桜井先輩の口癖だった筈なのに。彼は当然のように芙蓉さんの隣の席へ腰を下ろすと、テーブルに肘をついて彼女の隠した顔を覗き込み、意地悪な笑みを浮かべてそう言った。
「まあ先生が反対する筈だよね。文壇を目指す理由が色恋とあっちゃあ、僕らだって正直面白くないと思うだろうし、もし先生がお許しになったら、門下生として幻滅する。けどね」
川端先輩が僕へ諭すように語ったのは、彼女が先生からそうなじられた時、大粒の涙を零しながら、僕の書いた『亜剌比亜の夜』の頁を開いて先生へ突きつけ、
『私にこれを凌ぐだけの才能がないと仰るのですか』
と食って掛かったという話だった。
「叙情面では絶賛していたけど、取材が全然足りない、ときついことも言っていたから、僕は芙蓉さんが熊代を、なんて信じてなんかいなかったのに」
僕の隣へ腰を落ち着けた仲辻がそうぼやいて、背もたれに荒っぽい仕草で寄りかかった。
芙蓉さんからこれまで聞いて来た話と、学友達が面白おかしく僕をからかいながら話してくれた打ち明け話を繋ぎ合わせてみると、点と点でしかなかった話がひと繋ぎの線へと連なっていく。つまり彼女のご尊父というのは夏木先生その人で、反対の理由は色恋を理由と早合点されていたからで、それを違うと証明すべく、社会経験の一環として彼女はカフェーに勤め、いろんなお客から情報を仕入れ、それを元に執筆の鍛錬に励んでいたということで。そのきっかけが、僕が最も心血を注いだ、彼女をイメージして書いた『亜剌比亜の夜』で……。
しゅおん、とほとばしるこの思いは何であろうか。胸を締めつけるのに心地よいこの感覚は。他の色を探すのが難しいくらいに、長い髪の間から覗く首筋までもが薄紅に染まった彼女を、僕は周囲のからかいの声にも構わず見つめてしまった。
「あの」
「も、もう皆さん、いい加減にして下さいっ。私をだしにして、楽しんでらっしゃるでしょうっ」
僕の言葉を掻き消して、はしたないと言えばはしたない彼女の絶叫が店内に轟く。彼女は巾着袋を手に取ると、がたんと大仰に席を立ち……逃げた。
「え、あ、ちょっと待って、芙蓉さん」
僕も慌てて立ち上がったが、何故かその瞬間、急に仲間達の視線に気づいてしまい、羞恥のあまりそれ以上動けなくなってしまった。男が女の尻を追うなどというみっともないことを、僕の自尊心が許さなかった。
「ほら、熊代。早く行けよ。まだ名を名乗っていないのだろう」
悪戯な瞳のままでそう言い出したのは、やはり桜井先輩からだった。
「あんな勝気ではきはきしたお嬢さんが、自ら名乗るなどはしたなくて嫌われてしまうかも、などと言って、お前さんから声を掛けてくれるのを待っていたのだぞ。――例の紳士のようにな」
全く乙女心を気づかないから、煽ってやったのに鈍感め、と苦笑する川端先輩の笑みを何処か見覚えがあると思ったら、この店の店主――彼女の義兄が彼女に向ける『妹に対する』ような慈しみの笑みとよく似ていた。
「行けよ、熊代。俺達の友情はこれで壊れるほどやわじゃない」
仲辻が、その言葉に続けて『新美愛夜』の品書きの表に記された
『夜毎新たに生まれ来る美しい愛を育み愛しむ者の集う場所』
という文言を読み添えた。それで彼からとんと背を押されると、僕は弾かれたように店を飛び出した。
どうせ才能などないからと、醒めた素振りで斜に構えて文章を書くようになっていた僕に、書く情熱を返してくれたのは彼女だった。大衆に受けなさそうな僕の独特過ぎる作品を、あんなにもはっきり「好き」だと言ってくれたのも、率直に難点を語ってくれたのも、先生を除いて彼女だけだ。見下すでも見上げるでもなく、同じ目線で本音を語らい、文学について何時間でも話題が尽きないほど話せた人は、芙蓉さん唯一人だった。
小路を出て大通りを右へ行こうか、それとも左へ、と刹那迷う。彼女の紡ぎ出す恋愛小説の主人公が、なかなか駆け引き上手な女性の多いことに思い至った。
「泣いて店を飛び出した給仕の女は、公園の噴水で初めて紳士と言葉を交わしたのだったな」
僕は自分の書いた小説の一場面を思い出し、躊躇うことなく噴水のある向坂公園へ向かう右へと一歩を突き出し駆け出した。
紳士のように、小洒落たシャッポに白のスーツ姿ではないけれど。蛮カラ姿に散切り頭のむさ苦しい書生に過ぎない僕だけれど。本当は、勝気ではきはきと言ってくれる芙蓉さんらしいから、もしそんな風に思うのならば、遠慮なく僕も言ってやろう。
「それを言うなら芙蓉さんも、女給姿ではなく、もっと貴女によく似合う女学生の姿ではありませんか」
と――。
公園内をまったりと歩く人達の中、肩で息をしながら噴水に向かう袴姿がとても目立つ。何故なら今日は日曜日。学生姿の女性なんて、唯一人しかいないから。女性というのは不思議な生き物だ。感覚で己の一番映える恰好を熟知している。背中全部で人待ちを訴えるその後ろ姿に、僕は初めて滑舌のよい声を掛けることが出来た。
「夏木芙蓉さん。僕は熊代誠次郎と申します。少しお話をしませんか」
初夏の向坂公園噴水前に、季節外れの芙蓉の花がほこりと華麗に咲き誇った。