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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

TRAGEDY

作者: 凡人
掲載日:2025/11/27

 俺はとある研究室で実験をしていた。お粗末な照明しかない暗薄い部屋。俺の他に、研究者が数人。性別などわからない。顔は、見えない。俺たちは、一つのテーブルを囲んでいる。一言も発さずに、テーブルの上に乗った大きなガラス箱を見つめている。

 ガラス箱の中に小さな小さな猪が入れられた。無垢な瞳。自分がどこにいるのかすら、理解はできていないようだ。順繰りに俺たちを見ていく。土で汚れた毛に埋もれた、小さな、つぶらな、汚れのない瞳。ほとんど光の差し込まないこの部屋の中で、この小さい命だけが、煌々と光っている。

 一人の研究員が、ガラス箱に液体を入れた。透明な水のような液体。俺は知っている。今から何が起こるか。他の研究員も知っている。それを一言で表すなら——。

 幼い猪の小さい身体の半分ほど液体が入っただろうか。研究員は液体を入れるのをやめた。彼ないし彼女は空の瓶を持ったままことの成り行きを見守る。複数人の人間の顔に囲まれる猪。心なしか、その眼の奥に光は宿っていないような気がした。

 その時は突然訪れた。

 この部屋にいる皆が予想できたことだった。液体は、罪のない一匹の動物を死に至らしめようとしている。燃えているのか。溶けているのか。暗くて様子は見えない。猪の、声にならない小さな叫びが響く。俺たちは、それを見た。自分が何者かわからないほど、この俺に感情はなかった。

 痛みから逃れようとしたのだろう。猪は暴れ回り始めた。まだ小さい身体、短い脚を文字通り懸命に動かして目の前の死から遠ざかろうとしている。俺は動かなかった。他の研究員も動かなかった。その部屋にいるものは、誰一人として実験体の生命になど興味はなかった。

 ガラス箱を蹴る音。死から逃れようとするその動物は、明らかに生に執着していた。この時ほどいのちの炎が激しく、美しく燃えることはないだろう。

 箱が倒れ、這いずり出てきた動物。それはもはや、無垢な子猪ではなかった。有害な化学物質に触れて抜け落ちた毛が一部、溶けた皮膚にへばりついている。かろうじて差し込む光に照らされた猪は、死の淵を歩く哀れなモノであった。眼に光は、見えない。

 高い声が耳をつんざく。突然、誰かが大きな笑い声をあげた。楽しみとか、悦びとか、そういうものではない、感情が理解できないような笑い声。

 一人ではない。二人、三人。どんどん大きくなっている。気づくと俺の周りを囲むのは、正気を失った生物であった。彼らは笑いながら死を見ている。それはもはや、人間であると言ってはならない。

 相変わらず、顔は見えない。先ほどと変わったことといえば、モザイクがかかったような顔に、耳まで引き裂かれたような白い口が浮かんでいることだろう。

 そしてそれは、俺に関しても同じく言えることだった。腹から湧き出てくる笑いは、俺の制御内にはなかった。普段の自分からは考えられないほどの高い笑い声。

 理由はわからない。ただ笑いたかった。息ができなくなっても構わない。ただ俺たちはこの哀れな動物を見て嘲りたかった。自分でもわからない。ただ無性に可笑しい。苦しみ死にゆく猪が、たまらなく滑稽であった。喜も怒も哀も楽も何もかもない。人間に備わる「笑う」という行動をただただ行うだけであった。

 未だなお、笑いは止まらない。底が尽きない。

 猪がよろめいた。いよいよラストパート。憐れな命はこれから美しき終焉を迎える。俺たちは笑い声と共にその時を待った。

 動物の小さき嗚咽と共に出てきたのは吐瀉物。床に吐き出される。

 止まない笑い声の中で、ただ一人、俺だけがそれを見ていた。死を間近にした動物の、謂わば最期の死への抵抗。俺は確かにそれを滑稽だと言った。美しいと言った。

 今目にしたそれは、あまりにも醜く、恐ろしかった。

 続く笑い声。とにかく恐ろしかった。俺はもう笑えなかった。逃れられない恐怖に、俺の脳は叫ぶことを許した。あの猪から、離れなければ。走って、走って、とにかく逃げる。

 俺たちは今、たった今、一つの尊い生命を奪った。

 希望に満ちていた動物の目に光は宿っていない。

 俺たちが実験対象として選ぶことがなければ、こいつにまだ明日はあった。まだこの純粋な生物はそれを望んでいた。

 怖かった。俺がした行動も、感情のない笑い声を生む周りの人間も、そして、消え逝く美しい炎も。

 叫んだ。掠れた声で、さらに叫び続けた。それが猪への供養になるわけもない。俺は、許されない存在。真っ暗な目の前に向かって走り続けた。俺たちの理不尽によって死ぬ動物と真反対の方向に。

 叫んで、叫んで、叫んで。そして俺は、

 

 僕は、目を覚ました。

 時計を見る。四時四十分。アラームはまだ鳴らない。ベッドに仰向けになって再び目を閉じる。恐ろしい夢であった。瞼に焼きついた死にゆく猪の顔が浮かぶ。温かい涙が冷たい頬をつたい、雫が耳の方へと及ぶ。

 僕が何故このような夢を見たのかはわからない。ただ、これだけはわかる。これに題をつけるとしたら。それを一言で表すなら。

凡人の見る夢でした。

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