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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

かえる池

作者: 春山ルイ


 夏の盛りが水面を輝かせる。欄干から川を眺めていると、20年前、私がまだ小学生だった頃の出来事を思い出す。



 

 私の地元は関東にあり、都会特有の、コンクリートに囲まれた暑苦しさと、田舎の寂寥感が入り交じった土地だ。

 そんな半端な町で、幼い私は過ごしていた。


 クラスメイトに田中君という男子がいた。彼は活発な子で、教師は落ち着きがないと評価していたけれど、とにかく元気だった。私は田中君と、ほどほどの距離感で友情を育んでいた。



 6月の上旬、彼は言った。


「かえる池で遊ぼうぜ!」



 学校の裏門から出て、住宅地に入り、複雑な私道を抜けた先に、鬱蒼とした林がある。木に体側を擦りながら林を抜けると、下り坂があり、進むにつれ徐々に住宅が少なくなる。完全に人の気配がなくなったあたりで、目的地に着く。


 いくつかの大木が視界を遮っているが、やがて青い水面が見えてくる。


 それが《かえる池》だ。


 

 かえる池は非常に美しく、どの季節でも清らかに輝いている。


 初夏になると蛙ががぁがぁと大合唱を奏でる。誰にも訊ねたことはないが、おそらく、かえる池と呼ばれる所以だと思われる。


 本当の名前は知らない。



 

 かえる池には、大人たちが口を酸っぱくして言う禁止事項がある。



「田中君。かえる池は遊んじゃダメなんだよ?」


「なんで?」


「だって先生もお母さんも言ってたし」


「どこの川とか池も、遊んじゃダメじゃん」



 田中君は毎年、夏になると水辺で遊びたがる。そういう習性の生き物なのかもしれない。


「でも、かえる池は……」


「平気だって!」


 小学生なんて、この程度の屁理屈にも満たない強引さで、簡単に押し切られてしまう。こうして私たち2人はあの日、かえる池に向かったのだった。




 かえる池の色は、とても絵の具では表現できないような鮮やかさと透明感を湛えていた。ほとりの草陰が揺れている。虫かなにか、生物がいるような動きだ。


 かえる池に来たことは数回しかなかったが、いつも言い様のない感覚を覚える。土と水の匂い。ひやりとした空気。そして、まるで1人ぼっちになってしまったかのような孤独感──。


「おい! 入ってみようぜ!」


 しかし今日は、田中君が一緒だった。いつもは躊躇いがちになる足も軽やかだ。


「ねぇ、入るのはダメだって。近づくのはまだいいけど、入るのだけは絶対に……って、先生が」


「なんで。別に深くないし、大丈夫だって!」


 彼の言うとおり、水深はそれほど深くない。腕を伸ばせば、肩まで浸かる前に、水底に手のひらが着きそうだ。


「でも……綺麗な池だし、汚しちゃダメとか……」


「もーいいよ。お前は入らなくて。俺だけ入るから!」


「だから……」


 田中君が池の側まで駆け寄る。



 すると、草むらが、激しく揺れて。



《がぁがぁ、がぁがぁがぁ》


 


 蛙の、絶叫にも似た鳴き声が響き渡った。あちこちの草陰から、木の根元から。

 同時に強風が吹いて、池の水面にさざ波が生まれた。


「うわっ……なんだよ」


 田中君は慌てて振り返った。

 そのせいで、足がもつれて、バランスを崩した。


「あっ」


 私の声だけがこだまして、田中君は声を発する間もなく──かえる池の中に、飛沫を上げて落ちてしまった。


 私は咄嗟にどうすべきか分からず、頭が真っ白になった。駆け寄って助けるべきなのは瞭然なのだが、住宅地の方に戻って大人を呼ぶべきなんじゃないか、などと考えたりした。



 助けを求めるように右手が浮かび上がり、そこで私は我に返った。震える脚に活を入れ、急いで池へと走った。




 池の水は透き通っているため、簡単に田中君の姿が見えると思った。

 しかし、落ちた衝撃か、水底の土煙が巻き上げられ、彼の体を包みこんでいた。


 私は土煙の中に目を凝らした。服の裾がちらりと見えるだけだ。すると、なにやら黒く小さな、まるで煤のような、奇妙な物体が無数に蠢いていた。しかしはっきりとは視認できない。



《がぁがぁ、がぁがぁがぁ》



 ずっと蛙の声が聞こえてくる。止まらない。


 おかしい。池の水深はたいしたことないはずだ。なのに、田中君の体は宇宙の中のように重心が定まらず、まったく浮かび上がってこなかった。


「田中君、田中君」


 私は必死に呼びかける。

 気絶でもしているのではないかと恐ろしくなり、私は手を伸ばそうとした。


「田中君──」


 その瞬間、田中君は池から、土煙の中から、ざばりと飛び出してきた。私は驚いて尻餅をついた。



 田中君は濡れそぼった体をずるずると引きずり、地に手を突いた。顔は青ざめ、全身から水をしたたらせ、死にかけた風体だった。


「え、ねぇ……大丈夫?」


 私の声かけを完全に無視し、ゆっくり立ち上がる。もう一度声をかけても、同じだ。彼は静かに歩き出し、池から離れていく。歩くたびに水を含んだ靴が鳴る。

 私の存在などないように振る舞い──いや、実際に気づいていないのかもしれない。



 あれだけやかましかった蛙の声も、徐々に収まる。


「田中君……」


 彼は木々の横を通り過ぎ、住宅地に帰っていった。私は困惑し、硬直して彼を見送った。最後まで彼は私の方を振り返らなかった。


 ふと、彼の濡れた足跡を見やる。そこに、池の中で見た、黒く小さな物体が落ちていた。虫かと思えば、風に揺れるゴミのようでもある。慎重に近づいてみるが、やはりはっきりとは分からなかった。




 私は家に帰り、何事もなかったように装った。

 かえる池で遊んだことで叱られたくなくて、両親には告げなかった。頭の中には常に田中君の豹変があり、学校の宿題も手に付かなかった。


 明日にはすべてが元通りであってほしい。田中君の悪ふざけであってほしい。

 息詰まる心地のまま、私は眠りについた。


   ***


 翌朝、私は安堵する。

 一見したところ、田中君は今までと変わらず、普通の様子だったからだ。


 受け答えははっきりし、授業の態度も変わりない。外見も健康そうで、やはり昨日の出来事は悪ふざけなのかと思った。


 私がかえる池のことを訊ねると、


「え? ああいや、なんでもないよ、大丈夫大丈夫。ははは」


 と、要領を得ない答えで笑った。そこで不安を覚えるが、追求はしなかった。



 しかし、さらに翌日になると、奇妙なことが起こった。


「ねえ田中君、ほっぺた……どうしたの?」


「え?」


 クラスメイトが指を差す。

 田中君の右頬に、BB弾ほどの小ささの、腫れ物が浮き出ていた。それが一箇所にいくつも集っている。


「ああ……にきびだよ、にきび」


「ふぅん……なんか、気持ち悪いね」



 一瞬だけ、浮き出た粒が、独りでに動いた気がした。独立した意識を持っているとしか思えなかった。

 声が出なかった。誰もそれに気づいていない。気味の悪いにきびから、私は慌てて目を逸らした。




 その日から、田中君は徐々におかしくなっていった。


 最初はわずかな変化だった。クラスメイトや先生が話しかけても反応が遅れる。落ち着きがないのが彼の特徴だったのに、休み時間などは椅子に座ったままであることが多くなる、など。


 彼のにきびは日ごとに増えていき、面積を広げていた。


 ある日の昼休み、私は校舎の裏にゴミ捨てに行った。日差しを避けるため日陰を選んで歩いていると、こちらに背を向け、木陰にしゃがみ込んでいる田中君を発見した──発見してしまった。


 彼は土をいじっていた。私は無視するか少し悩み、遠くから話しかけた。「なにをしてるの?」彼の反応がないのは予想していた。だから続けて訊ねた。

 彼は首だけをぐるりと回し、私の方を見た。私を見ようとした、というより、音のした方を気にした、という方が正しい気がした。



 彼はなにかを咀嚼していた。口元を無造作に動かす。目には生気がなく、黒ずんだ瞳は、人間のものとは思えなかった。


 喉をごくりと鳴らし、ようやく彼は声を発した。


「どうしたの」


「……なにをしているのかなって」


「今、何時?」


「え?」


 彼は私の質問には答えなかった。


「12時だけど」


「そっか」


 田中君はゆっくり立ち上がる。立ちくらみでもしたのか、ふらりとよろけたが、すぐに歩き出す。私の横を通り過ぎ、校舎に帰っていった。


 横目で彼のにきびを見た。やはり、動いている。




 そして2週間が経過した。6月も中旬に移り変わり、夏の暑さが本格化してくる。前日に雨が降ったから、湿度が高い。不快な朝だった。


 朝の登校途中、学校から離れた場所で、田中君が立ち止まっていた。

 髪は梳かしていなくてボサボサだ。ランドセルは背負っていないし、衣服は汚れている。表情も虚ろで、どこを見ているのか分からない。


 あれだけ目立っていたにきびも、今朝は消えていた。跡形もなくなっていた、というわけじゃなく、皮がぶよぶよになっている。


 話しかけずじっと見ていると、彼はゆらりと脚を前に出す。ぎこちなく、人形のようだった。

 明らかに学校の方には向かっていない。私は嫌な予感がして、彼の後を追いかけた。


 住宅地に着いたが、彼の歩みは止まらない。緩慢な動作で追いつくのは難しくない。むしろ時間がかかる。しかしそのときの私にとって時間などは些細なことで、とっくに学校は遅刻のはずだが、気に留めなかった。


 家と家の間を通り、林を抜ける。行き先は、間違いない。


 かえる池だ。



 かえる池の周りは静まり返っていて、別世界のようだ。さっきまで不快な湿度と暑さが体を覆っていたのにも関わらず涼しい。しかし風は一切ない。

 土と草の匂いがしているはずだが、焦燥で五感が鈍っていた。それどころではないのだ。



「田中君──」


 声をかけても彼は止まらない。坂道を下って、池に向かってずんずん進んでいく。

 彼を止めなければならない。理屈ではなく、本能的に感じた。そこで私は駆け出し、池に先回りした。池は相変わらず美しく、透明感があった。




《がぁがぁ、がぁがぁがぁ》



 蛙が鳴き出した。


 草陰か、木陰か、どこからだろう。たくさんの蛙が鳴いている。蛙の種類は分からないが、複数の種類の蛙だ。そこまで大きくないが、四方八方から聞こえてくるため、頭がおかしくなりそうだった。



 木片が軋むようにも、なにか絞り出すようにも聞こえる、蛙の音。

 鼓膜を通り抜け、脳の奥まで入り込む。



 私は咄嗟に振り返る。


 ──気づいてしまった。

 声は周囲から聞こえてくる。けれど、一番大きい音の根源は。




《がぁ》



 田中君だ。



 彼の喉──ではない。彼の頭、四肢、胴体のすべてから。

 蛙の声が鳴り響いていた。



 私は悲鳴を上げ、横に飛び退いた。田中君は私が退くと、池に直進する。うっすらと笑みを浮かべ、体から雑音を発しながら、池の前にしゃがみ込む。池を覗き込んでいる。


「た……田中君」


 私は震える腕を伸ばし、彼の肩に触れる。


 不気味に湿り気を帯びた、冷えた肌だ。


 それが、剥がれた。



 まるで貼り付けられたテープを強引に剥がすように、多少の抵抗と耳障りな音とともに、肩の皮と肉が、胴体からずるりと離れた。


 

 私は絶叫して、それを放り捨てた。

 水音を発して落ちた皮は、血の代わりに大量の水と、あの黒い粒が散らばった。


 黒い物体は、水の中で、死に絶える前の虫のように痙攣する。


 私はそのときになって、ようやくそれがなにか察することができた。



 おたまじゃくし──。


 まだ孵ったばかりの、尻尾も短いおたまじゃくし。それが、田中君の皮の内側から。




「ただいま」



 かすかにそう呟くのが聞こえた。彼は池の中に、倒れ込むように入っていった。


 飛沫の音に茫然としつつ、私は、朦朧とした頭をなんとか醒めさせ、立ち上がった。体が重く、呼吸も荒い。そっと、かえる池を覗き込んだ。そこにいるはずの田中君を助けようと。



 しかしそこに田中君はいない。


 彼の体から抜け落ちた服と、無数の黒い粒が。いや、おたまじゃくしがあるだけ。



 水面を覆うほどのおたまじゃくしが、夜闇のように、蠢いているだけだ。 




 私は意識を失っていた。

 目を醒ますと、近隣の住民の家で、助けられたらしい。私がお礼を言い、田中君の姿を見たかと訊ねると、彼は淡々と、見てないと言った。



「蛙の声が酷くうるさいから、様子を見に行ったんだ。君が寝ていた。それだけで、他に誰もいなかったよ。いるわけが、ないだろ?」


 引っかかる言い方だったが、私は口を挟まず、そのまま家に帰った。



 翌日、学校にて。担任の先生は田中君に関して、クラスのみんなに告げた。


「田中君はご両親の仕事の都合で引っ越しました」


 そんなわけはない。なのに、担任は当たり前みたいな顔をして、平気で嘘を吐いた。大人の理不尽を感じていたが、私はすでに恐怖で、追求することを諦めた。これ以上、藪から蛇が出ないように。すっかり縮こまってしまったのだ。



 引っ越しました、と言ったとおり、その日から田中君も、彼の家族も見なくなった。20年経った今でも、彼の消息がどうなったか知らない。


 実は、本当に引っ越していて、どこか遠くで平穏に過ごしているのかもしれない。



 もしくは、あの池の中に今もいるのかもしれない。


   ***


 私はもう、当時の学校のことを、細部まで思い出すことはできない。クラスメイトの名前も顔もほとんど忘れたし、かえる池の記憶も、実は完璧とは言えない。わずかに記憶を補完している部分もあるだろう。



 しかし彼の異常な行動と、最後の姿は完璧に思い返すことができる。


 それから、彼は池に飛び込んだ後。おたまじゃくしの群れに、彼が消えてしまった後。



 聞こえてきた、やかましい音は、今も私の耳にこびりついている。




《がぁがぁがぁ、がぁがぁがぁがぁがぁがぁがぁ》



 蛙の声はまるで、喜んでいるかのようだった。


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