第6話:自分の中の“正義”を疑う
人は、正義を信じたい生き物だ。
物語でも、現実の出来事でも、 「正しいのはこっちだ」「悪いのはあっちだ」と思いたい。
それは、安心感や一貫性、目的意識を与えてくれる。 しかし――
「自分の正義が、他者にとっての悪になっているかもしれない」と、 考えたことはあるだろうか?
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正義は“絶対”ではない
正義とは、**文脈に左右される“相対的な価値観”**だ。
たとえば、
家族を守るために他者を犠牲にするのは正義か?
自分の信念のために他人を否定するのは正義か?
自国の利益のために他国の権利を奪うのは正義か?
どれも、それぞれの立場では「正義」であり、 同時に「不正義」ともなり得る。
つまり、“正義の顔をした暴力”もまた、社会に存在している。
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物語に見る“正義の暴走”
多くのフィクション作品は、正義が暴走する恐ろしさを描いてきた。
善意が独善へと変わる瞬間
正しさが、他人の感情を切り捨てる理由になる瞬間
正義を名乗る者が、他者を裁き始める瞬間
これらはすべて、 「自分は正しい」という確信がもたらす“視野狭窄”の結果だ。
そして現実世界でも同じことが起きている。 SNSでの糾弾、炎上、断罪、排除。
その多くは、悪意からではなく、 「自分は間違っていない」と思い込んだ人々の手によって引き起こされている。
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自分の“正しさ”を観察する
だからこそ大切なのは、 「自分の中の正義」を疑い、観察する姿勢だ。
なぜ自分はそれを正しいと感じたのか?
どんな経験・価値観・情報が、自分の判断に影響を与えているのか?
その正しさは、誰かにとっての不幸を生んでいないか?
こうした問いかけは、 “自分を否定する”ためではなく、 “自分の判断をより深く理解する”ために必要なのだ。
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正義は、他者との関係の中で磨かれる
本当の意味での正義とは、 自分の価値観を押し付けず、他者と対話しながら形成されていくものだ。
つまり、
「違う考え」を持つ人とすれ違ったとき
「間違っている」と感じる意見に出会ったとき こそが、正義を鍛えるチャンスとなる。
そのときに必要なのは、 「自分の正義」を相対化する視点、 すなわちメタ認知的な観察眼である。
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まとめ:正義を“選び続ける力”を持とう
正義とは、与えられるものではない。
常に状況の中で揺れ動きながら、 「今、自分はどの立場で、どんな影響を与えているか?」を考え抜いた先に、 初めて“行動としての正しさ”が見えてくる。
絶対的な正義など存在しない。 存在するのは、正義を常に選び続ける覚悟と姿勢だ。
それこそが、真の知性であり、倫理であり、 人間らしさの根幹にある力なのだ。