第二章① 再始動
五日間、魂だけの存在となって織川和也の身体の中での時間を過ごした「僕」は、以降も彼の身体の中で生きる事を選択する。
時折織川の身体の中に現れる邪魔者、獣型のコトガミに対抗し、織川和也が彼らしく生きる手助けをする。それが「僕」の選んだ選択だった。
それから、僕の生活は大きく変わった。
これまで目を背け続けてきた織川の日々に、僕はようやくきちんと目を向け始めた。
すると、練習中の見え方も、これまでと変わってきた。
途轍もない緊張感が、常に辺りに立ち込めている。誰の顔を見ても真剣であり、まるで生死を懸けているかのような、そんな必死さがある。そう思っていたが、それはごく一部のメンバーに限った話だった。
この部活にはチーム制がある。A、B、Cというように……。普段の練習も、実力順で分けられたチーム内で完結しているのが基本だ。
織川がいるAチームと、Bチームの一部。彼らが纏う緊張感は、確かに僕が感じていたレベルだったが、それ以外のメンバーは、ただ場の雰囲気に合わせているだけ、という事がわかってきた。織川のルームメイトの岡崎や、部屋に出入りしてくる高木も後者だ。
バスケットボールの試合に一度に出場できるのは五人。ベンチ入りも、通常の試合であれば十二人だったはず。
だが、このチームには、ベンチ入り人数の五倍は優に超える人数がいる。事実、織川もこの前練習試合では最初はベンチメンバーだった。試合に出られる人間、出られない人間の差がついてしまうのだ。あまりにも残酷な現実がそこにはある。
幸か不幸か、バスケットボールの事は、全く知らない訳ではなかった。
父親がバスケ好きで、よくテレビの試合を見させられていた。だから、基本的なルールや戦術はわかってはいた。だが、別に父親と違ってのめり込むほど好きではないし、実際に自分がやろうとまでは全く思わなかった。
ここに来て、一体何の因果か。
父親に感謝した事は一度もなかった。自分の価値観を押し付け、こちらの気持ちを一切推し量ろうとしない。家庭を顧みず、週末に限らず飲み歩いてばかり。僕はただただこの人間が「他人」である事を自覚させられるばかりだった。
織川のポジションはスモールフォワード。攻守共に多彩な役割が求められ、ゴール近くも、遠くも両方から得点を担うポジションだ。それだけに、やはり求められるプレーの幅は多いのだろう。
僕が織川和也の身体に入ったばかりの練習試合、同じポジションとして最初に出場していたのは、安藤と同じ四年生の、宮内という人だった。
きっと、彼が当面のライバルになるのだろう。
***
無断遅刻により、織川は翌日の練習から外され、雑用係となった。
その日の練習後に安藤に呼び出され、こう通達された。
「無断遅刻の件は、監督と相談したが、一旦翌日の処分を以てチャラだ。明日からはこれまで通り、プレーヤーとして練習に参加する事」
『ありがとうございます!』
鎖は大きな声を上げて頭を下げ、そう応えていた。
何もそこまでしなくても。僕の安藤への恨みは晴れた訳ではなかった。握った拳に力が籠る。
「だが、二度目はないぞ」
最後に念を押すように、安藤はそう付け加えた。
鎖に縛られる動きに慣れてきたとはいえ、まだまだ慣れない生活に、一日の疲労は大きい。消灯前、岡崎達の隙をつき、スマホでバスケのルールを調べては、細かい所も含め、隅々まで改めて見直した。
消灯後のベッドが、僕にとって唯一の気分転換の場になった。
だが、する事なんて大して無いに等しい。
ベッドの上の段からは寝息が聞こえてくる。
スマホを触ろうにも――。
SNSを開いたとしても、出てくるのは僕のではなく織川のアカウントだ。彼のフォローした人間の、彼の好むようなタイムラインが流れているだけだ。
恐らく友人であろう個人のアカウントの、何気ない呟きばかりが流れている。大して興味も湧かない、つまらない情報ばかり。
僕は自然とニュース欄に切り替え、なるべく僕が興味を持てる情報を得ようとした。
――『DCAⅢ』 発売から一週間が経ち、続々好評の声。
あ、と声が出そうになった。この前、この見出しだけ見た所で、何らかの理由で中断せざるを得なくなった事を思い出した。
僕もこの身体じゃなければ、絶対に買っていただろう。僕も初代とⅡは随分とやり込んだ。プレイできている人達がつくづく羨ましい……。
そう言えば……と少しだけ記憶が蘇る。
「おぉ、ついに新作出るのかぁ」
自室でベッドに寝転がりながら、一人声を発した。僕の部屋には一人だけ。よっぽど大きい声でなければ、何を話そうと誰にも迷惑がかからない環境。
僕が愛してやまない「DCA」シリーズの新作。これは絶対に買わないとな。郵便だと受け取りで親にバレるし、やはり店頭に行くしかないか。
きっと久しぶりの外出になるだろう。地元で一人出歩くのは嫌だが、それでも外に出たいと思った。発売日が、待ち遠しくてたまらない。
あの時はまだ発売開始まで日があったはずだが……。それからの記憶が無い。
――まあ、いいか。
今の僕には、他に向き合うべき問題がでてきた。不思議とやる気に満ちている。
でもなぁ……。とベッドの上で身悶える。
なかなか未練を捨てきれない。
それから何十分も葛藤に苦しみ続けた。
結局、この身体でプレイしたとしても、セーブデータを引き継げないだろう、と考える事にして、ゲームの事は諦めた。
そういえば……とふとした思いつきで端末内に保存されている動画ファイルを調べてみた。
予想していた訳ではなかったが、ファイルの中に、バスケットのコートを大映しにしたサムネイルが複数あるのが見えた。
音量に最大限気を払いながら、動画を再生する。
プレーの様子を動画で観る事ができれば、なおイメージが湧きやすくなるだろう。そう思って動画を見ようと思ったが、いざ見てみると、とても自分がプレーしている姿など想像できなくなっていた。
ボール回しやポジションの変動があまりにも目まぐるしい。一体選手達の頭の中がどうなっているのか、全く理解できる見込みが無い。
……そんな中、一人だけ目を引く選手がいた。華麗な身のこなし、予想のつかない動きで、何人もの選手を置き去りにしあっと言う間にゴール付近まで切り込んでくる。パスをする素振りすらなく、素早くシュートの体勢に入る。
彼のプレーに見惚れ、同じ部分を何度も再生してしまう。
――僕はこの人間の……中にいるのか。
とても信じられるものではなかった。同じ出来事を内側から体験したという事が頭でわかっても、なお信じる事ができない。毎日のように鏡でその顔を確認する事になっているが、それでもこの華麗なプレーを直接目に収める事ができた訳ではない。
自分が目指すもの、越えようとしているものが、あまりにも直接的に、あまりにも無慈悲に僕の目に飛び込んでくる。
***
あっという間に数日が経った。
毎晩のルール確認や、それに加えて動画を探して見たりした事で、バスケに対する感覚は、僕にとっての全盛期に近い状態まで戻ってきた。だが……。
だからと言って、僕が織川の身体に入り込む余地は全くと言っていい程無かった。例えわかったとは言っても、実際に経験がある訳ではない。ただでさえレベルの高い状態に、素人の自分が入るというのは、あまりにも身の程知らずだ。
僕が何かをするまでもなく、鎖の力で、僕の魂が入った織川の身体は、何の問題もなく動いていく。
そして――。
奴の出現を何度も目にしていた。鎖を邪魔しにやって来る、獣型の謎のコトガミ。
天使の助言もあり、そいつがやって来る時の感覚は、段々とわかるようになってきた。
鎖の動きが、いきなり鈍くなるのだ。これまで鎖が僕の感覚にどのような影響を与えるのか、ずっと無視し続けてきたが、意識を向けるようになった事で、段々とその細かな機微が分かってきた。
鎖が身体を縛る力が弱まる。まるで宙に浮かび上がるように、織川の身体との接続が弱まってしまう。こうなると、鎖が身体を動かす事がやけに難しくなるのだ。
邪魔者が現れるタイミングは、その日によって異なる。強いて言うならば練習中というだけで、ドリブル練習の時もあれば、連携プレーの練習の時もある。
「おい、何やってんだ」
上手く動けず、チームメイトに肩を叩かれた事があった。
何度も何度も、歯痒い思いをした。こいつさえいなければ……。
五日間の間に僕が感じた態度の問題も、やはりこいつが原因だったのだ。
きっと、僕が必要とされる出番はそこなのだろう。そう、頭ではわかっていたが――。
無理矢理動きを制御される時の感覚を思い浮かべる。あの時の妙な感覚が、怖くて仕方が無かった。
僕は弱虫だ。そう再認識した。