第一章⑥ 選択
自分でも自分の感情がよく分からなかった。
気付けば自転車を取りに行き、曖昧な記憶を頼って寮へと戻る。
このまま逃げてしまえば、どんなに遅くとも今日の二十三時五十九分まで身を隠し続ければ、もう僕には一切関係無い話だというのに。
そうはわかっていたのに、何故だか僕は練習場へと、真っ直ぐに向かっていた。
だが、僕は所詮腰砕けだった。
体育館まで着いたのはいいものの、館内を移動し、いつものバスケ部の練習場の扉の前に来るや、途端に足が竦み始めた。
扉の向こうには、こちら側からでもわかるほど、様々な大きな音が絶えず聞こえてくる。
バスケットシューズが床と擦れる音、大きな掛け声、怒声。タイマーの鳴る電子音。それらを聞いているうち、扉にかけたはずの手が、その場で硬直してしまった。
僕がこの扉を開ける事で、間違いなくその場の空気を乱す事になるだろう。全員からの視線を浴び、安藤や他の部員からどんな言葉をかけられるか。
色々な事を考え、のぼせ上ってしまった僕は、扉に手をかけたまま、その場で硬直してしまった。
ガタッ、と扉が開く音が聞こえたと思った時にはもう遅かった。
中に居た、扉を開けた人物と、正面から目があった。何度も見た顔だった。レギュラーメンバーとして、試合にフル出場していた、そして僕にメッセージも送っていた、小柴だった。
「あ、カズ……」
その目はひどく冷たかった。
***
「ふうん、それがお前の言い分か」
練習終了後、体育館には僕と主将の安藤だけが残っていた。
――ゼミの集まりが、急に。
必死で頭を回し、勇気を振り絞って発した理由がそれだった。
「事前に連絡する余裕も無い程、急だった訳だな」
安藤のギラついた目を前にし、僕は顔を逸らして頷く事しかできなかった。
「それって、学生だけの集まりか? 先生だったら、事前に言っておくよな。常識的に」
はい、と小さく返事をする。
「目を見て話せよ、この野郎」
力の入った言葉に、僕は何とか顔を上げた。真っ直ぐに僕の目を捉え、睨みつけるようにこちらを見る安藤の顔があった。
「昨日の練習も酷かったな、お前。気の抜けたプレーしやがって」
昨日? 気の抜けた? 予想外の指摘に、頭が真っ白になる。
「練習試合で結果残したからいいのか? 監督が見てないからいいのか? なあ」
安藤は、さらにヒートアップしていく。
違う。
「俺ぁ、そういう奴が一番嫌いなんだよ。お前高校まで何をしてきた? そんな甘い環境で育ってきた訳じゃないだろう、なあ」
違う。
安藤はさっきから、織川和也に向けて言葉を発している。彼に対して抱いている感情を、無関係の僕にぶつけている。
「なあ、何とか言ったらどうだ」
「……はい」
溢れ出そうになるものを飲み込み、何とか言葉を発する。
「はいじゃねぇだろ!」
安藤が凄みを利かせた。嫌な予感はしていた。頼むから、早く終わってくれ。僕はそう切に願った。
「練習試合とか関係ねぇ。レギュラーメンバーとして試合に出るって事が、部内で何を意味するのか、お前にはわかるか?」
形式的には尋ねている形を取っているが、完全に説教の口調だ。ここは大人しく、言う事を聞いておくのが筋だろう。
「責任だ。練習中、プレーの最中、その内外を問わず、部員の一人として行動をするその全てが、周りの人間の手本となるんだ。お前の行動には、これから責任が伴うんだ。……上の人間がすることが、自ずとチームの空気を作っていくからな」
ただ黙って安藤と目を合わせる。 何も言い返すことができない。むしろ、言い返したら殺すぞとでも言わんばかりのオーラを向こうが纏っているのだから、僕が取れる選択肢など他に無いも同然だった。
「本当にわかっているのか? お前が気を抜いたプレーをすると、周りの人間も『ああ、たまに本気を出せばそれでいいんだ』なんて思うんだよ。これまで先輩達が大して指導してこなかったのは、お前を戦力として期待していなかったからだ。だが、今年は状況が違う。そんなお前も、戦力として使わなくてはいけないんだ」
――お前に僕の何がわかる。
「空気は自然と伝染する。それがチーム全体の雰囲気になって、段々と緩んだ空間になっていく。高校までと違って、この部活には顧問がいる訳じゃないんだ。自分達で空気を作っていかなきゃ、誰もが手を抜いて、段々と空気が緩んでいく。それが負けという結果として返ってくるんだ。わかっているか?」
安藤は真っ直ぐにこちらを見つめたまま、早口でまくし立てた。その一言一言に力が籠っており、その気迫に圧倒されそうになる。どうしてそこまで真剣なんだ。そんなに怒らなくたって、このチームは十分強いんじゃないのか。ここまで必死になる必要があるのか。
はい、と声をあげるがやっとだった。
「何だその生温い返事はぁ」
マズい、と思ったその時、安藤がこちらへ迫ってきた。咄嗟に離れようとするも、壁のせいでほんの少ししか後ずさりする事ができなかった。
間近で見る安藤の迫力に気圧され、僕は何も返す事ができなかった。
目が合う。何故じっと彼を見つめられるんだ。これは僕の意志ではないぞ。織川が、織川が勝手に……。
「ナメてるだろ、お前」
強い嫌悪と軽蔑が込められた、冷たい視線。そしてあっという間に、僕の視界が少し上へ動く。胸倉を掴まれている事がわかった。
チッという舌打ち音が聞こえ、安藤はそこで手を離した。
支えられた力を失い、僕はそのまま床に腰を打った。
「あまり調子に乗るなよ。……いい加減な事ばかりしていると、お前の居場所なんて、すぐ無くなるからな」
安藤はまたしても冷たい視線を僕へ投げつけ、そのまま立ち去って行った。
調子に乗る? どこがだ。僕だって必死にやってきたのに。溢れ出そうになる言葉を必死に噛みしめた。
それまでは、僕はまだ冷静でいられた。心の声を宥めるだけの余裕もあった。しかし、実際に掴まれた時、その心境はたちまち一変した。
意味不明だ。無茶苦茶だ。
痛みを感じたのは間違いなく僕の身体であり、僕の心だった。そして、自らが置かれた状況を誰にも訴えることのできない事への無力感、絶望感がより一層僕の感情を強烈に高めた。
こんな感覚を味わうのは、随分と久しぶりの事だった。
「うわあああああああ」
けたたましい叫び声。それが聞こえたのはあまりにも突然だった。僕の手は勝手に動き始め、力強く近くの壁にぶつけられる。事態が飲み込めないうち、左、右と交互にもう一度ずつ両の手が打ち出された。
どうしたんだ。何度も拳が壁に打ち付ける様子を見て、僕はようやく先程の叫び声を発した人物を理解した。加害行為とも、自傷行為とも呼べるその拳はすぐに止んだが、身体は暫くその場から立ち上がらなかった。
全部僕の仕業だ。僕が叫んで、僕が殴った。そして、起き上がれないのも、全部僕だ。
でも、この身体は僕のものではない。
「ごめん……こんな事、してしまって」
ゆっくりと、恐る恐る言葉を発する。僕が意図するのと全く同じタイミングで、織川の声が発せられる。
人のいない体育館で一人涙を噛み締める。その光景に、関係無いはずの僕の記憶にリンクしてしまう。
放課後の体育館に、一人閉じ込められた。助けを呼んでも誰も来ない中、涙を流しながら、何とか外に出ようとした。
きっかけは違うのに、ただ体育館で一人涙を流すという行為が、忘れたかった僕の記憶を呼び起こしてしまったのだ。
二度と思い出したくない、嫌な記憶。
もう、同じ事を繰り返したくない。
――――。
そこには一人の男が立っていた。そこ、というのは僕の視界のすぐ目の前。手を伸ばせば届いてしまいそうな距離。あれ、ここはどこだろうか?
見上げれば乳白色のライトに白い天井。手元には洗面台、シンク、蛇口。シンクには所々抜けた髪の毛が付着しており、あまり清潔な印象は抱かない。そして洗面台の隣の壁にはタオルがかかり、反対側には洗濯機が見える。周囲の光景を目に収めていく度に、今自分の置かれた場所への心当たりが強まっていく。
最後に答えを確かめるように、もう一度目の前の鏡に目を向けた。
僕だ。
これは紛れもなく、僕そのものだ。最近あまり自分の顔をきちんと視界に入れる場が無かったが、さすがに自分の顔はわかる。髪もぼさぼさで、髭も整っていない。あまり見ていられるものではなく、すぐに鏡から視線を逸らした。
――僕は今、どうなっている?
「あ」
声を出せば、やはり今までの僕そのものの声が出る。手や腕、首の辺りを順に触れても、やはりこれは僕の身体なんだという確信ばかりが増していく。
「どうして」
どうしてこんな所で戻されてしまったのだろう。先程までの出来事が夢だったなど、とても思えない。それくらいリアリティに富み、中身の詰まった時間だったと思う。
いてもたってもいられず、僕は洗面所から出た。
廊下を歩く。家の内装は僕の記憶と何ら変わらない。――勿論、最後に直接目に収めたのは随分と前の事だったが。
リビングを意図的に避け 、トイレや小部屋を確認する。家の中に人のいる気配はない。恐る恐る階段を上り、二階へと上がる。途中で窓から差し込んでくる日差しからするに、きっとまだ昼間なのだろう。廊下からは、四方に部屋の扉が見える。僕は一瞬迷いを覚えたが、やはり他に行く先は無いと、右横手前の扉に手をかけた。
ドアを開ける。
…………。
中には誰もいなかった。
部屋の配置は見慣れたものだ。右奥の壁につくようにして置かれた本棚。反対側にあるベッド。中央にある机。そして辺りに散乱した衣服や漫画やゲームの機械……。カーテンは閉め切ったままで、暗く湿った空気が漂っている。
ああ、やはりここは僕の部屋だ。どのくらいの間ここに居続けていたのかもわからない。ここにいる間、時間は止まっていた。僕の居場所は、ここにしかないのだろうか。
このままベッドに寝転べば、きっとまたこれまでの生活が始まる。変化のない、同じ事の繰り返しの日々。インターネットかゲームだけが僕を取り巻く存在。怠惰で、無目的な時間が連なっていく。
ある日を境に、学校に行くのを辞めた。
僕が同級生を突き落とした事が発端だった。そいつはいじめの主犯格で、そいつが大怪我を負った事で、いじめの事実が公然となり、親にもばれたからだ。
でも、結果的にはそれで良かったなんて、その時は本気で思っていた。
いざ部屋に閉じこもってしまえば。嫌な事なんて何もない。僕を悪く扱う人間もいなければ、そうされる自分に向き合わなくてよくもなる。
――それに、サトミだって、何の連絡もよこさなかった。もう人に期待するだけ無駄だ、なんて思い始めた。
ゲームにマンガに、スナック菓子。僕が好きな物は、部屋に何でも用意されていた。風呂は面倒でたまにしか入らないし、髪だってほとんど切らない。それでも、自分の容姿を気にするような状況に陥る事がないのだから、何の問題もない。
特に僕が好きだったのは、海外製のクライムアクションゲーム、略称は『DCA』だ。あらゆる人間が嫌いな僕にとって、そのゲームは恰好の復讐になった。しかも誰にも迷惑をかけていない。ただ自分の内なる破壊衝動を、仮想世界の中で発散させるだけ。
同い年の人間が、未だに毎朝早起きして学校へ登校し、缶詰のようにつまらない授業を受けさせられているのだと思うと、何だか馬鹿らしく思えてくる。
それで一体何になる。皆地獄へ落ちればいい。
僕は本気でそう思っていた。
でも、僕は、本当は――。
自然と身体を見ていた景色から背けていた。一度閉めたドアを再び開け、廊下へと戻る。
眩い光が、突然眼前に広がった。
小学生くらいの、一人の少年が立っている。何らかの発表の場なのだろうか。手にはメモを持ち、時折そちらに目を落としながら、大勢に向けて言葉を発している。
「僕の夢は、オリンピックでメダルを取る事です。僕の父も、僕くらいの年齢の頃から、同じ夢を持っていました。しかし、怪我のせいでその夢には届きませんでした。僕は、父と同じ夢を追いかけ、父の分まで、頑張りたいと思います。その為に、僕は毎日、父がコーチをしている、オリカワBCというクラブで……」
少年がその辺りまで話しているのを聞き届け、目の前の光景は再び切り替わった。