第一章④ そして日常へ
織川の生活は、実に決まりきった習慣の上に成り立っている。
朝、早い時間に目を覚まし、そのまま寮の隣にある体育館で自主練習をする。
練習場にはいつも一番乗りで、一人でコートの周りを走り続ける。途中からボールを使った自主練習に切り替え、場合によっては他の部員達との共同練習も行う。
寮の食堂で朝食を摂ると、すぐに自転車でキャンパスへと移動する。自転車十数分、という徒歩には遠く電車には近すぎる距離。やはり自転車が最適なのだろう。寮にもキャンパスにも、広大な自転車置き場が用意されていた。
大学のキャンパス、という僕にとって未知の世界への感動を覚えているのも束の間、織川は真っ直ぐと教室に向かい、授業を受ける。
授業は、コマによって実に様々な友人と受けていた。ジャージの織川に対し、私服の友人達、といった授業もあれば、皆同じように部活をしている人間同士で受けている授業もあった。部活の仲間とも関係を築き、外の世界でも関係を見出す。織川のその力は、一体どこから来ているのか。
昼食を友人達と摂り、午後の授業を少し受けると、織川はすぐに自転車へ乗って来た道を引き返す。
夕方からは練習が待ち受けている。後からわかったが、週六日、夕方からの練習は「規定練習」と呼ぶらしい。当然部員全員の参加が義務付けられており、練習メニューも決められている事が多いとの事だ。
そして練習後、夕食や入浴といった日常を、部員達共に過ごす。
これが織川の日常だ。
実に濃密で、充実している生活だ。
一日のうち、何かと向き合っている時間が圧倒的に多い。バスケの練習が中心ではありながらも、友人と話したり、授業の課題に打ち込んだり、メッセージの返信をしたり……。そして、それ以外の時間は決まって楽しさに満ちている。
一週間、一切景色の変わらない僕の生活に比べ、彩りのある毎日だ。
だが、中の僕にとっては、ただただ疲れる毎日だ。
相変わらず僕の身体は勝手に動く。僕の意志など意に介さず、ただ「織川和也」としての時間を過ごしていく。移動し、身体を動かし、他人と言葉を交わす。僕が何を思おうが、僕の身体は織川として自動的に振る舞ってしまうのだ。
食事のペースも僕とは違い、僕の意図しないタイミングで咀嚼し、嚥下される。
そもそも、人と会話するというのが何よりの気持ち悪さだった。勝手に口が動く。織川が何と言うのか、彼が実際に口を開くまで、僕には全くわからない。
会話が無いのは授業の最中くらいだ。だが、その間も、口の代わりにしきりに手が動いていた。僕にとっていつぶりの「授業」だろうか。そんな感傷に浸る余裕は無い。しきりにメモを取る織川の右手の動きに、何とか耐えるより他無かった。
そして、練習だ。
朝の自主練習は織川自身のペースで動いていたが、規定練習では、全体のペースに合わせてメニューをこなしていかなければならない。鎖の動きが上手くいかなかったようで、何度も怒られた。怒られているのは織川だと頭ではわかっても、まるで自分が怒られたような気になり、とても理不尽な気分になる。
日中の活動で既に疲弊しているというのに、さらに肉体的な負荷が僕を襲う。
抵抗する気力など、当然出てくる訳がなかった。
僕がようやく一息吐く事ができる頃には、もうベッドの中だ。床に就いた僕には、一息ついて気持ちを整理する位の余裕しか残されていなかった。
気が付いた時には眠りに落ち、そしてまた気が付けば朝日が……。
***
「しゃ、いくぞ。カズ」
目の前から声がする。僕の正面に立つのは、浅黒い肌のチームメイト。練習試合で目立った活躍を見せ、織川の父を尊敬しているという……。
辺りからは絶えず喧噪が聞こえてくる。
ああ、そうか。今は規定練の最中か。別に考え事をしていた訳ではないが、もう今の出来事に意識を向けられる程の気力が無かった。それでも、先程よりほんの少しだけ身体が楽になったような感覚がする。ただの気のせいかもしれないが。
彼は僕目がけてボールを飛ばしてくる。そのスピードに僕は驚いたが、織川は平然とそれを胸の前で受け取り、その場でゆっくりとドリブルを始めた。
姿勢を落とし、その場で小さくステップを踏む。視線は前に立ちはだかるチームメイトや、その周囲を行ったり来たりする。
――と、何の前触れもなく、勢い良く身体が前へと飛び出た。すかさず彼が僕の進路へと動いてくる。――今度は急に身体の勢いが止まり、その場に静止……かと思えば、先程とは違う方向へ、すぐに進み出す。
駆け引きだ。
敵もすぐについてくるが、すんでの所で織川は躱しきる。
おおっ、と周りから歓声があがるのが聞こえた。直後、視界がそちらの方へ向く。試合ではない。僕はそれまで列に並んでいて、メンバーが一人ずつ順にコートで一対一の模擬形式のシュート練習をしているのだ。列に並ぶチームメイトの姿を視界に捉えた事で、直前の記憶が蘇ってくる。視界が切れ、僕の身体はゆっくりと前へと進む。
ゴール直前、またしても僕の視界がぐるりとほぼ真反対へ回り、先程追い抜いた彼を、真っ直ぐに捉えた。まだゴールを決めていないというのに、随分と大胆な。そしてすぐに向き直り、ふんわりとした軌道で、ボールがゴールネットを捉える――。
歓声、に加えて今度は囃し立てるような声まで混ざっていた。抜かれた彼でさえ、どこか満足そうな表情を浮かべている。頬の緩みから、きっと織川も笑顔になっているであろう事を察知する。
自分は何もしていないのに、まるで自分が褒められたかのような不思議な高揚感を覚える。ただ、移動する際に視界に入った安藤の態度が、やけに脳裏にこびりついた。
安藤は、ただ黙って無表情でこちらを見つめていた。
***
「いよいよ、明日が最後の一日ね」
そんな声が聞こえて、僕はようやく今の状況に気付いた。
僕、というより織川和也の身体は屋上にあった。すっかり陽が落ち、闇夜に一人、天使だけが舞い上がっている。いつの間にこんなに時間が経ち、こんな所まで来ていたのだろう。全く心当たりが無かった。
「聞こえてはいるみたいね」
つい視線が合ってしまったせいで、天使はそう追撃してくる。
「何か、言いたい事はないの?」
ほんの少しだけ苛立った様子を見せたが、彼女はすぐに冷静さを取り戻し、僕から言葉を引き出そうとしてくる。その様が余計に僕の神経を逆撫でしてくる。何も好きでここにいる訳でないのだ。
「……特に」
そう返したのも、せめてもの良心だ。実際の所、一応答える事で、天使の問いかけを止める事ができるかもしれないと思ったという気持ちが大きい。
「やっぱり、元の人生がいいと?」
「別に、そんな訳でもない」
これは強がりではない。本当の気持ちだ。
「そう。あなたには、まだ自分の手で選択する機会が残されているけれどもね」
何故わかりきった事をそう執拗に聞いてくるんだ? 天使の意図が何もわからない。
「……あなたは、向いている方に見えた。ただ一瞬だけだけれど、そう見えた時があったの」
「向いている?」
「そう。織川和也として生きる事に」
意味が分からない。これだけ何もしていないのに、何が向いている判断に繋がるのだろう。
「ま、いずれにせよ、明日には全て決まるわ。あなたの選択次第では、織川和也と関わるのは、もう完全に最後になる。何か気になった事は無かった?」
気になった事は、勿論僕にだってあった。
それは、織川和也の練習態度の事だ。
練習中、チームメイトから厳しい声が飛ぶ場が何度もあったのだ。気を抜くなだの、しっかりやれ、だのそういった類のものだ。それ自体は別に織川に限った事ではない。高いレベルが求められる場と極度の緊張のせいで、練習中のプレーにミスはよく起きている。それ自体、ある意味仕方の無い事ではある。
しかし、織川に関しては、ミスというより、何か違う所に要因があるように思えてならなかった。
しかも、反対に場を沸かせる程のスーパープレーを見せる事すらあったというのに。
……だが、何だってそんな事を思い出したりしているのだ。もう自分とは関係の無くなる人間の話なのに。
「その身体に入っていると、本当は他人事なのに、自分事のように感じる事があるでしょ?」
「え」
反射的に声をあげていた。まさに僕が思い浮かべていた事は、つまりそういう事だった。
「じゃあ、当ててみましょうか。練習中に怒られたり、よくない事を言われたり。そんな事が何度かあった。あなたの印象に残っているのは、きっとそういう事でしょう」
「どうして……」
天使の顔を、随分久しぶりにちゃんと正面から見た気がする。
ずっとベンチに横並びに座っていたというのに、これまで全くきちんと話を聞いていなかった。
「大体そんな所でしょう。人から何か感情を向けられると、それが自分の事のように錯覚する。強い感情か、大勢から同じ感情を向けられるか、特にこの二つは強く印象に残る。大した話じゃないわ」
確かに、彼女の言う事には説得力があった。
「それで、練習中に怒られるというのは、まさに織川和也が今の状態にあるからこそ直面している課題ね。例の獣型のコトガミに邪魔されて、本来の自分の力を出し切れない。傍から見ると、プレーにやけに波があるように見えてしまう。それが織川の選手としての評価にまで繋がってしまっている。今のチームで完全なレギュラーを掴み切れていない事に影響していて、かなり切実な問題なの」
獣型のコトガミによる邪魔という現象を、僕はあまり感じられなかった。
だが、織川に腕はあるはずなのに、その割に怒られる回数がチーム内で多いという事は確かに僕にもわかっていた。
「僕が何らかの動きをすれば、それが解決できる?」
「そう。だから協力してって話をずっとしてたんだけどねぇ」
天使は困ったわね、というように肩を竦めた。
「疲れていたんです。毎日余裕がなくて。それで聞く元気がなくて。すみません」
嘘ではなかった。これまできちんと話さないのは確かに良くなかったが、僕も悪気は無かったのだと示さなくてはならない。
「いいわ。どのみちスタートはここから。その時にまた説明するから」
もはや、天使は僕が残る事を前提にしているみたいだ。僕はその事にふと我に返った。
「いや、別に残るなんて……」
「わかっている。ま、明日楽しみにしているわ」
それが今日の天使との最後の会話だった。
もう、この人間と関わるのも一日。
思い入れも何も無い。彼の問題というのも、もう僕には関係なくなるんだ。そう思えば、ほんの少しばかり身体の疲れも軽く思えてくるような気もした。
僕はそう心の中で呟きながら、部屋へと戻って行った。