第一章③ 「天使」と「コトガミ」
「私は、普通の人には見えない存在」
その女は、まるで天使のように、舞い上がったまま柵を乗り越え、こちらへとやって来た。
「あなた達には、私が天使に見えるみたいね」
天使と自称した女は、表情を変えないまま僕に近付いてくる。
「事実、私は選ばれた人間にしか見えない、特殊な存在。けれど、全知全能の神には遠く及ばない。天使というのは、言い得て妙なものかもしれない」
突っ込む余裕も無い。どうやら本当に人智を超えた存在が目の前にいるのだと、受け入れる他無い状況だ。
彼女はそこで近くのベンチに腰掛け、僕にも隣に座るよう促した。
僕がベンチへ座ると、天使は口角を緩やかに上げ、真横からこちらを覗き込んできた。
「何から聞きたい?」
いや、そんな事……。言いかけて僕は口を閉じた。もう今日は理解できない事ばかりで、何から聞けばいいのかわからない。
「どうやら、相当動揺しているようね。なら、私から話す事にしましょうか」
天使はすぐに緩めた頬を元に戻し、僕の返答を待つまでもなく口火を切った。
「あなたの――いえ、正確には織川カズヤの身体には、ある人智を越えた存在――コトガミという神が纏わりついている」
神、という言葉があまりにも唐突に出てきて、僕は度肝を抜かれた。
「見えない何物かに身体を縛られ、無理矢理動かされる。そのように感じる事がこれまで何度もあったでしょ」
天使に促されるまま、僕は頷く。事実、彼女が言う事は間違いではない。
「その正体が、まさにコトガミなわけ。ある意志に基づき、力を持つ存在。あなたが知らないだけで、この世界には、様々な形をしたコトガミが、至る所に隠れて存在している」
あまりにも急な話に、呆然とする。
「そんな顔をしたって、事実なのだからしょうがないじゃない。そいつは鎖のような形をしている。私には見えるわ。あなたも、次のステップに進めば見えるようになる」
今一つ腑に落ちない話ばかりだ。無理矢理頷いてみても、内容が入ってこない。
「じゃあ、見方を変えて話をしましょう」
天使は、仕切り直すように咳払いをし、話を再開した。
「本来その身体には、織川カズヤの魂があった。けれども、今はその状態にはない。そこで代わりに、あなたの魂だけが呼び込まれた」
その身体、という言葉と共に、天使は僕の方を指差した。
「それも……コトガミの仕業って訳なのか」
僕の問いかけに、天使はすぐに頷いた。
「そう。少しややこしいかもしれないけれど、あなたは一時的に彼の代わりを務めてもらう必要がある」
代わり? 全く意味が分からない。どうして、という言葉しか出てこない。
「織川カズヤの魂を奪っている奴がいるの。それもまた、何者かのコトガミである事は、私にもわかっている。そいつは四足歩行の獣のような形をして、常に鎖に纏わりついている」
鎖ですら目に見えないというのに、続いて獣ときたか……。天使の勢いに気圧されそうだ。
「この話がどう繋がってくるかわからないって、あなたそう言いたいわよね。……そうね。あなたの魂と鎖が上手く連携を取る事ができれば、織川カズヤの魂を奪い返す事ができる。その協力の為に、私があなたを呼んだという事」
天使はさらに説明を続けた。
織川カズヤの身体の中に入るのは、あなたのように選ばれた人間だけ。五日間、魂だけの存在となって織川の身体に入り、彼の代わりを務める力があるかどうか、鎖によって見定められる。鎖は織川をよく知っていて、彼の普段通りの行動を、中に入った魂にも歩ませるよう動いている。
あなたも体験したはず。鎖は、文字通りあなたを縛り、織川和也の「あるべき」行動、言動へと支配する。だから、他の人間は、誰もあなたを織川と信じて疑わない。
これでも、まだ今は私がストッパーをかけている状態なの。その身体に入った人の苦しみが強くならないよう、鎖との融合に制限をかけている。それでも、最初はかなりきついようだけれど。
これまで何人もの人間が織川の身体の中に入った。どれも選ばれた人間ばかりだったが、様々な理由から、皆それ以降代わりを務める事を放棄してしまった。次々に候補を探すも、なかなか適任者が見当たらないまま、今日に至るという。
「織川カズヤは、ある目標を持って生きていた。鎖も彼と同じように、その目標に向かって日々身体を動かしている」
「目標?」
「オリンピックのメダリストよ。彼の父が元日本代表という事はもうわかった? 彼は自らの父も、兄も成し遂げられなかったその夢を悲願として、日々練習に取り組んでいる」
大袈裟な、と心の中で呟く。
「特に、彼は兄の事をよく尊敬していて、彼になろうと思ったくらい、具体的な目標としているの」
「じゃあ、その鎖? コトガミ? とやらは、身体の中身がいかなるものになったとしても、それを織川と同じ目標に向けて、日々支配するという事になると?」
「その通り。織川カズヤから逸脱する事を、鎖は決して許さない」
なんてこった、と僕は肩を竦めた。「入れ替わりもの」では普通、入れ替わった先の行動まで縛られる事はないじゃないか。現実の方が、全く夢が無い。
自分が実際に体験している事だというのに、僕の頭にはそんな空想じみた事が浮かんでいたのだ。
「だから、決して他人だと分かるような行動を取らない事ね。鎖の縛りが突然入って、かなりきつくなるわよ」
はいはい、と僕は心の中で天使の言葉をあしらう。
そんな事より、もっと重要な事がある。
「五日経ってしまえば、それで終わりという事?」
「そうね。この五日間……もうほとんど残り四日間だけれども。あなたの適性と意志によって、あなたが織川カズヤの魂を救い出す役割を担うのか、それとも全ての記憶を失って元いた場所へ戻るか決められる。五日目の最中のどこかのタイミングで、必ずその選択ができるようになる」
ふうん、と小さく呟く。
「この身体に残って得られるメリットって、何かあるのか? 僕には、あんたのお願いが、ただ自己犠牲を求めているようにしか聞こえないけど」
現に身体を無理矢理縛られるのだ。それだけの事をさせておいて、こちらにも何か相応の見返りというものがなければ、割に合わない。
「そうね……言うならば、あなたの人生を変える、という事かしら。これまで通りの人生を、そのまま歩み続けるのか、それとも新しい自分になるのか。どちらを取りたいか」
所詮「代わり」だけどな、と内心天使の言葉に付け加える。
「私は神ではないけれど、人間でもないわ。あなたがこれまでどんな事を経験してきたか、それを見た上で、あなたをこの場に呼んだ。あなたは自らの過去も、周りの人間も憎んでいるわね」
冷静とした声色を保ちながらも、天使は目を鋭くさせた。
「……何を知った気に」
急にこちらの事を見透かすような物言いに、腹が立った。
「まあ、いいわ。あと四日間でどちらにするかを決めてくれればいいから。この四日間、織川カズヤの生活を見て、その判断をつけてくれれば、まずはそれでいい」
溜め息交じりに、天使はそう言った。
***
その後天使から少しだけ補足説明を受け、一旦その場は解散となった。
あまり長引かせると、織川の生活に支障を出してしまうからだそうだ。
自室に戻ると、ルームメイトは既に部屋の中にいて、試合から帰った時と同じように、他の部屋のメンバーも当然のように混ざっていた。ずっと外に居た事については、誰も特に気にしていないようだった。
織川は時折ルームメイトと言葉を交わしながら、荷物の整理を行ったり、スマホを眺めたりしていた。
就寝の時がやって来るまでが、とても長く感じられた。消灯の意を表す放送が流れ、他の部屋の人間は部屋を出て、僕とルームメイトは大人しくベッドへと向かった。二段ベッドの下が織川で、ルームメイトが上だった。このままいれば、また自由が利くかもしれない。消灯とは言え、まだ十時半だ。いつもの僕ならば、眠りになどまだまだついていない。
静寂に包まれたベッドの中、僕は腕を組んで天井――正確には上の段のベッドの板の部分をぼうっと見つめていた。棒状に縦並びに連なっており、隙間からマットレスが見える。
鎖が作動するのは、織川の夢、つまりバスケの競技に関係する所だけ。それ以外は自由だが、中にいる他人がおかしな行動や言動をとらないよう、彼が普段取っている行動、そして「彼らしい」行動についても、鎖が働くという。
つまり、僕のような「魂」の存在がなくても、織川の身体が動くようにできているという事になる。
気味が悪い。まるで鎖自体が一つの意志を持っている。……コトガミは意志に基づく、みたいな事を天使も言っていたが、それにしても……。
どうやら、これが夢であるという事は、もう諦めるしかなさそうだ。
――僕みたいな人間の、どこに見込みがあるなんて思ったんだ、一体。
考えながら、ふと織川のスマホを手に取った。
びっしりと並ぶ通知欄。しかも、メールやニュースなどといった、〝自分〟とは無関係なものなどほとんどなく、その大半がメッセージアプリのバナー表示だった。指でスクロールしようとも、その全てを目に収める事は容易ではなかった。
ふう、と小さく溜め息を吐く。
やはり僕は織川とは赤の他人なのだ、という自明の事実に直面させられる。
メッセージアプリのトーク画面を辿る。呆れるくらい多くの人間からのメッセージが放置されている。全部を見る気力も、返答するそれもなかった。
本当に、面倒な事に巻き込まれてしまった。
それでも、あと四日、耐えさせすればそれで終わりなのだろう。
調べたかった事の続きを、と思い立ち、検索エンジン上に「織川カズヤ」と入力する。
すると大学のホームページが一番上に表示される。その次に「オリカワBC」というサイトも見えた。「卒業生」という表記が書かれていた。
大学の方を開いてみる事にした。
部員紹介、とトップに大きな文字で書かれ、その下には何人かの顔写真が載っている。そのホームページが何であるかは、直感的にすぐにわかった。一番上の列の一番左、「4年」という表示のすぐ下に、一番初めに載っている人物は、直接言葉を交わした訳ではないが、それなりに強く印象に残っていた。
その目もどこかギラついており、野心に満ちている。リーダー格の、無骨な男。印象通り、その名の下には「主将」と色付きで表示されている。
「安藤孝輔」それが彼の名だった。
そして、「宮内俊樹」織川と途中交代した、恐らく同じポジションの選手。
他の「4年」にあまり印象が無く、流し読みをしてスクロールする。
「3年」という表示が見えた時、反射的に僕の手はすぐに止まった。
「岡崎大河」何度も顔を観た、ルームメイトその人だった。
「高木寛太」彼はルームメイトではないが、織川の部屋に訪れて来ていた。
そして、「織川和也」。これこそ、まさに今僕が彼として生きさせられている、その彼に違い無いことはわかった。まだ顔には強い馴染みを抱かないが、その名前には、言葉にし難い、何かの実感を強く湧き上がらせた。
オリカワカズヤ。その名を声には出さず口を動かして反芻する。顔も、名前も、決して悪くはないなと思った。
「小柴直文」試合で一際目立っていた、7番だ。彼も織川と同学年なのか。何か言葉を交わした記憶もある。寮に戻ってからは会った記憶が無かった。
尊敬する人物:織川俊英さん
そんな表記もあった。どうして織川の父を、と思ったが、どうやら出身県も織川親子と同じようだった。
そう言えば、と思い織川和也の欄を見返すと、彼の「尊敬する人物」には、「兄」とだけ書かれていた。
さらに調べようとしているうち、段々と身体全体に広がっていく疲労感に、僕はとうとう負けた。
――――。
中学生の頃、ある時突然、クラスメートから気持ち悪い、と言われた。別に僕は何もしていなかった。ただ普通に生活して、生きているだけなのに、それから段々と何人もの人間からそう言われるようになっていった。
気持ち悪いからと邪険に扱われる。話そうとしたら話すなと言われる。触れたら「菌」だと言って回される。
いつしかそれが、クラス全体の〝当たり前〟のようになっていた。
形容し難い理不尽さ、やり場のない喪失感、自らの無力感を嘆くこともできず、かと言って怒りをぶちまけることもできず、僕はただひたすら、ここから消え失せてしまいたいとだけ思った。
だが、実際に死ぬ勇気など微塵もなかった。最初からそんなつもりは無かったが、死にたいと思って初めて気付いたのだ。死ぬのが怖い。自らの手で首を縊る勇気も、自らの足でビルから飛び降りる勇気も無かった。結局、僕は本当に何もできない人間だったという事だけがはっきりとわかったのだった。
一人になる時、僕は〝自分〟から逃れる事ができる。僕に対して厳しい態度を取る人間もいないし、その事に苦痛を覚える必要もないからだ。だから、今の時間は、僕にとってはまだましだった。
――――。
腹筋の要領で強制的に上体が起こされる。自分の身に何が起きているのかをはっきりと理解するよりも先に、もう身体はベッドの外にあった。僕はまだ寝ぼけ眼だと言うのに、そいつは勝手に僕をカーテンの元へと向かわせ、勢いよく開け放つ。そのまま少しだけ歩き、部屋にあるカーテンを順番に開けていく。徐々に強くなる朝日が僕を襲う。
ううん、という鈍い唸り声が頭上から聞こえる。ああ、そうだ、この部屋は二段ベッドになっていて……。
ここが織川和也の部屋であるということをようやく思い出してきた頃、僕の身体は弾かれるようにして部屋を飛び出ていった。
どこかを歩いている、ということだけは辛うじて頭でわかったが、それ以外の事は何もわからない。とにかく気付いた頃には、勢いよく何度も顔に水がかけられ、無理矢理に眠気を覚まされたということだった。
はっとして目の前に視線を向ける。そこには僕ではなく、織川の顔が浮かんでいる。そのまま、弾かれるように手で顔の辺りを触った。鏡を頼りに、自らの顔であろう部位に触れる――。
奇妙な感覚。それは昨日から変わらない。デジャブだ。場所も、時間帯も、状況すらも違うというのに、まるで昨日に戻ったかのような感覚を抱いた。
……違う、ということはすぐにわかった。トイレにいるという状況は同じだが、昨日いた競技場のそれと比べると、こちらは全体的にやや小汚い……。ああ、そうだ。僕は織川和也の情報を調べようとしたまま眠りに落ちてしまったようだ。そして、やはりこの状態は日を跨いでもなお続いている。
僕がそこまで考えていた所で、織川はそのまま部屋に戻ったかと思うと、すぐに着替え、荷物を纏めて部屋を出た。まだベッドの中にいるルームメイトの岡崎には目もくれず。
そして向かった場所は、寮に併設している、昨日練習試合が行われた練習場だった。その時点で嫌な予感がしたが、織川はよりにもよってランニングを始めた。景色の変わらない、体育館の中をぐるぐると周回し続ける。昨日味わった爽快感など微塵もない。次第に呼吸があがり、僕まで息が苦しくなる。自分の意志で休憩を入れる事も、ペースを落とすことさえままならない。
僕ならばとっくに音を上げてしまいそうな領域まで来ても、彼の足は止まる事を知らず――。
気付けば、地面に手をついていた。必死で息を吐き出す。自分が生きている事を実感する。
「なんなんだよ……一体……」
壁に掛かった時計に目を向ければ、時刻はまだ七時代だ。そのせいか付近には人影一つ見えない。だからこそ、僕はこうして声を発する事ができるのだろうが。
それなりに呼吸が整ってきた頃、織川はまた立ち上がった。
――待ってくれ、まだ僕は回復し切っていないぞ。
そんな僕の心の声に構う事なく、織川は再度動き始めた。
ランニングはもう一セットだけ続いた。またも束の間の休憩時間の後、織川は自身の荷物の中から、バスケットボールを取り出した。
ドリブル練習だった。素早い動きで、様々な位置でボールをハンドリングする。立ち止まりながらの動きもあれば、動きながらのドリブルも練習する。地道な基礎練習。ランニング程の体力的な負荷は無かったものの、何度も何度も、徹底した細かい動きには繊細さが要求されるように感じられた。
僕はただ視界の中から織川の動きを傍観するだけだったが、こちらまで一緒にすり減ってしまうような感覚を抱いた。
最後に何本かゴールへ向けてシュートを放つ動きをし、織川は練習を終えた。
基礎的な動きが中心だったが、噴き出る汗が止まらない。練習着は肌にぴたりと密着し、その気持ち悪さはしっかりと味合わされる。
――やっと終わったか。
胸の裡で一つ、大きく溜め息を吐く。
だが、織川の一日はここから始まったに過ぎなかった――。