第四章⑤ 再始動
ついに完全に本来の自分の記憶を取り戻した「僕」は、再び目を覚ます。
そして、ある人物についての真実にも気付いてしまう——。
ずっと遠くで声が聞こえる。
まるで水中に潜っているかのように、外の音はくぐもってよく聞こえない。
だが、誰かが何かを必死に訴えかけているという事はわかる。
頑張って目を凝らしてみる。
声がする方向には、僕の幼馴染みの姿があった。小さい頃、近所でよく遊んでいた記憶がある。
だが、今、向こうに見える彼女の出で立ちは、僕が知っているそれよりも随分と大人びている。そう言えば、何て名前だっただろうか。
それすらしっかりと思い出せないのに、そこにいるのが彼女だという事は、はっきりとした手応えをもってわかる。
面影はほんの少し残っている。声もよく似ている。
何か応えなくてはいけない。その声をきちんと聞きたい。
そう思い、上手くコントロールの利かない身体に鞭打ち、何とか水をかいて、彼女の姿が見える壁際へと近付く。
「なのにどうしてかな。名前も違う。顔も違う。出身も、経歴も何も違うはずのあなたに、私の小学校の頃の、幼馴染みを重ねてしまうのは」
ようやくはっきりと声が聞こえた。
――僕は、彼女にとっての「あなた」は、僕が知るはずの僕とは違うのか?
自分でも何を言っているのかよくわからない。だが、彼女の言葉に何かが隠されている事ははっきりとわかる。
「私、お母さんの再婚で、高校の時に上の名前が変わったんだ。それまでは、加辺じゃなくて里見。里見愛だった」
サトミ。
その言葉が、僕の脳に閃きを与えた。
僕が奴を階段から突き落とした時、辺りが静寂に包まれる瞬間があった。
僕からそんな仕打ちを受けるなんて微塵も思っていなかったのだろう。背中を押された奴は、短い驚きの声をあげただけで、その後には床に何かを打ち付けられる強い音だけが響くのみだった。
誰もが言葉を失い、辺りを包み込んだ静寂。その静寂を初めて破ったのは、里見によってあげられた悲鳴だった。
サトミアイ。そうだ、僕が引きこもるようになった決定的出来事。彼女が僕のいじめに巻き込まれかけていたあの時、もっと違う形で立ち向かっていたら。
驚いて叫び声をあげる彼女の姿が、再び脳裏に蘇った。彼女の反応を間近で見てしまった事も、僕が引きこもるようになった一つの大きな要因だったのかもしれない。
「君が突き落としたリュウノスケ、成人式で会ったけど、全然ピンピンしてた」
僕が突き落とした? 一体何を言い始める――。
「古傷なんて目につかないくらい、派手なタトゥー入れて。全然隠す素振りもないし、トラウマなんて微塵もなくて、ただただ元気よく生きてたよ」
どうしてくれるの、こんな傷までできて。あの日の直後、奴の母親が玄関先で怒鳴り散らす声が、部屋の中からも聞こえてきた。その出来事が、僕が引き籠もる決定打になった。
「だから、君が気にする事なんて何もなかったよ。……この事だけは、どうしても伝えたかった」
信じられない。声は聞こえているというのに、彼女が発している言葉の意味を、何一つ理解する事ができない。
「カズシ君」
愛の手が、壁に触れる。
だが、何故だか直接僕の肩に直接手が触れるような感覚があった。
その感覚に気付いた瞬間、僕の全身を、何かが駆け抜けていった。
――!
それまで僕を取り巻いていた水が、あっという間に弾かれていく。
僕と外の世界を隔てていた「壁」が、すぐさま近付く――。
それは壁ではなかった。透明な膜のようなものが、こちらと一体化する。
――和也を救う。やるべき事は、ただそれだけだ。
地に足が着いたような感覚が蘇る。
僕が意図するままに、身動きを取る事ができる。
一体何が起きたのか、僕にはまだきちんとわからない。
だが、何かしらの力が、この身に宿されたのだという事はわかった。
***
――今、僕の口からはこれ以上の事を言えない。
何かっこつけてんだよ。僕は自分で自分に突っ込んだ。ちゃんと自分の所にも来てくれだなんて保険までかけちゃってさ。
――出発ノ時間ガ近付イテイル。ソロソロ出発シナイト。
そんな鎖の声が聞こえ、咄嗟に捨て台詞を吐いて里見――いや、加辺愛との時間を終わらせるという判断を下した。
自分の身に何が起こったのか、今でもはっきりと理解し切れてはいない。
ただ、目の前――恐らく今僕の身に宿っている膜の前――に鎖が張られているという事は、はっきりとこの目に見えている。膜は小動物のように、鎖にしがみついているが、意外と揺れずに安定しているように見える。
考えるならば、鎖との〝結合〟を果たしてしまった僕の魂は、何らかの隙によって入り込んだ、恐らく他の言神に守られたという事なのだろう。
きっと膜が現れなければ、僕は自分で気付かぬうちに、鎖の声を、同じように心の中で発していたのだろう。実際にそのような状態になっていた事も思うと、鳥肌が立ちそうだ。
学生会館を後にし、自転車乗り場から寮へと戻る。
一体いつまでこの状態が保てるのか、全く何もわからない。そもそも、この膜とやらの意志に飲まれてしまうという可能性だってある。たまたま今事が上手く運んでいるだけで、このままの状態を維持する事は、決して安全だとは思えない。
最後に記憶がある時、天使は和也の魂を手に取っていた。
言神が生まれている以上、本来はあってはならない存在。それがあの獣型の言神から破られ、放出された今――。
とにかく、危険が迫っている事は確かだ。
必死に頭を回しながら、自転車を漕いでいた。
――絶対に、お前を死なせたりはしない。
そんな声が、脳内に響いた。
心の中で、愛に感謝する。彼女がいなければ、きっと僕は今も自分が誰かわからないまま、織川和也の鎖に囚われたままだっただろう。本当はもっと幼馴染みとの思わぬ邂逅に思いを馳せたい所だったが、今の僕にはそんな余裕が無い事はわかっていた。
――ヨカッタ。結合ハ無事ニ続イテイル。
鎖は膜の存在に気付いていないようだ。だが、一瞬たりとも気は抜けない。
自然と自転車を漕ぐ足に力が籠もった。
寮に戻ると、もう集合の時間が迫っていた。
岡崎に前の用事を勝手に勘繰られ、あれこれ囃し立てられた。
適当に、余裕のある態度であしらう。
どうやら、僕は膜のフィルターを通り越して、和也として身体を動かしたり、外の人間と会話をしたりする事は問題なくできてしまうようだ。
適当に岡崎との会話を繋ぎながら、急いで荷物の準備を進める。
――コイツニナンカ構ッテイル場合ジャナイ。今ハ大事ナ試合ジャナイカ。
そんな鎖の内なる声が聞こえてくると、焦りが増す。何せまたエコーのかかった状態だ。鎖と融合していた時は、僕自身も自然とその感情を抱くようになっていた。
「よし、じゃあ出発するか!」
岡崎の声が元気よく響いた。まるで自分も試合に出るかのような、やる気に満ちた声だ。
「おう」
僕もなるべく彼と調子を合わせ応える。荷物の準備は完了した。
――準備ハドウダ。
天使へと問いかける声が聞こえる。鎖の声だ。
――もう少しよ。試合中には準備が完了する。
天使の声が、脳内に返ってくる。ほんの僅かな間、鎖と結合していた僕には、彼らの会話の意味が分かってしまう。
和也は、自分の魂を葬り去ろうとしている。天使に、自らの魂を殺させようとしている。
そんな事、絶対に間違っている。
そう返したくなる気持ちを、何とか噛み締めた。




