第一章② 一人
身体が勝手に動く状態は、それから変わらなかった。
控え室でチームメイトから様々に言葉をかけられる。
時折何だか笑いが起きていたが、元より彼らの発言をきちんと聞く意欲など無かった。とにかく、心の落ち着く場所に身を置きたくて仕方がなかった。
着替えや準備を済ませ、練習場を出るまでの間、オリカワの近くには常に誰かがいて、その誰かを会話している。
練習場を出ても、すぐ近くにある宿舎のような建物にすぐに入る。
ホテルと呼ぶにはあまりに質素な、真っ白な塗装が前面に広がっている。剥き出しのベランダが規則正しく並び、その多くには洗濯物が吊るされている。その光景からは、生活感がありありと感じられた。そしてその最上階の上には、金属製の柵が張り巡らされていた。
ここは学生寮だということは、建物に入ってから何となくわかった。年季の入った木目の床と天井。踏み込むと時折軋むような音を立てる床。
メインホールを少し歩いた所に階段があり、僕の身体は自然な動作で上り始めた。
階段を上がってから何部屋か通り過ぎると、身体はぴたりとその場に停止した。きっとここがオリカワの部屋なのだろう。部屋に入ってしまえば、僕はようやく自由になれるかもしれない。
オリカワはポケットに手を突っ込み、中から鍵を出すと、扉の鍵穴に差し込んだ。
フロアや階段と似たような雰囲気の、年季の入った木の扉。中に入ると二人分の勉強机と二段ベッドが置かれていた。
だが、それまでオリカワと連れ立って歩いていた男――きっとこいつはルームメイトなのだろう――も、同じ部屋に入ってきた。
彼はドアから遠く離れた奥側の机に陣取り、荷物を置いた。
僕の身体も彼に続き、空いている、ドアから近い方の机に近付いた。僕の身体は平然とした様子で歩いていたが、内心はかなり落ち込んでいた。二人部屋では、気を休める隙がどこにも無いではないか。そして何より、身体の状態はずっとこのままではないか。
リュックを肩から下ろし、衣服を整える。動いている途中で、机の上の物が視界に入った。整理された机の上に、たった一つ、写真立てが置かれている。中にあるのは集合写真。大会後の様子なのか、ジャージ姿の少年達が笑顔で列を作っている。「北信越大会」と文言が書かれている。中学生か高校生か。その中のどれが彼自身なのかはわからなかったが、トイレで見たオリカワの雰囲気と比べると、まだ垢抜けていない印象を受ける。
どうでもいいけどな、そんな事。
荷物を取り出し、整理していく。暫く部屋に無言の時間が訪れる。だが、僕が何かによって無理矢理身体を動かされている事には変わりない。
やがて、仕事が終わったオリカワは荷物を置き、席に着いた。
「じゃ、洗濯行くか」
タイミングよくルームメイトの声がかかる。彼は即座に席を立ち、僕の元へと近付いてくる。僕が返答するより先に、さらに言葉がかかる。
「俺が行っておくよ。カズヤ、試合出て疲れてるだろ」
『悪いな、ありがとう』
そう言い、オリカワは手で床に置いてある衣類の一山を指差す。
「よし、任せた」
ルームメイトはそう言い、手早く僕の荷物を拾うと、さっと僕の肩を叩いて部屋を出ていった。
――一人になった!
冷静にその事実に気付き、心の中で飛び上がりそうになった。思わぬ好機の訪れに、途端に緊張が駆け巡っていく。
試しに椅子から立ち上がろうとすると、僕の身体は思い通りに言う事を聞いてくれた。
さて、どうする? 僕は僕に問いかける。一人きりでいて、なおかつ身体の自由が利く機会なんて、この先そう多くは訪れないはずだ。ならば、今のうちに何かしなければ。
咄嗟にドアノブに手を伸ばしかけ、はたと考えその手を引っ込める。
エントランスまで通じる道のりは、何となくだが覚えている。だが、オリカワの後ろにも、まだまだ人はいた。今出て行ってしまっては他の人間や、ルームメイトに見られる可能性が高い。
それがどれだけ危ないことか。意識を取り戻した時の、トイレでの出来事を思い起こす。人前で何かしなければならなくなった時、僕の身体の自由は奪われる。きっとそうに違いない。
そうなってしまったら最後、身体の自由は僕の手から離れてしまう。……他に何か手はないものか。
この場に鏡がないというのは幸いな事だった。手を動かし、服の上からこの身体に触れていく。手も、胴体にも触覚が残る。感覚ははっきりと残っている。けれども……。
腹部に触れる。僕の身体には絶対にない、歴然とした凹凸がある。これは、絶対に僕の身体ではないことが確かだ。
溜め息を吐き、机の上に大きく突っ伏す。一体どうしてだ。どうして僕はずっとこんな所に。
頭がおかしくなりそうだ。一体どうして僕がこんな目に。せめて、この身体がずっと僕のものならいいのに。
一体誰のせいだ。オリカワとかいうこの男か。
突然生まれた衝動に身を任せ、机に頭を打ち付けさせる。
くそっ、痛い。どうして感覚は僕のものなんだ。何度頭を打っても、痛覚は変わらずやってくる。
叫び声をあげ、その場に崩れ落ちた。床の上に仰向けになる。
はっとした。突然、ある事を急に思い出した。ポケットをまさぐり、オリカワの物と思しきスマートフォンを出す。この身体はオリカワの物という事になっているはずだ。指紋認証も問題なく通り、画面に入る事ができた。
僕はすぐにブラウザを立ち上げ、検索エンジンに「オリカワ バスケ」と打ち込んだ。
検索結果はすぐに表示された。思っていた通り、先頭には「織川俊英」と表示された。引退した元バスケットボール選手。日本代表に選出された事もある、期待の新星だった選手。確かにそんな触れ込みだった。彼のプロフィールを読み込んでいるうち、そんな事を思い出した。
――本当に勿体無かった。試合中の接触での大怪我。あれさえなければ、その後の日本を支え続けてくれるくらいのレベルだったんだよなぁ、これからって時に。あれは本当に残念だったよ。
自分と同世代だった、との事で父が何故か自分の事のように自慢気にそう語っていたのを思い出す。
結局、日本代表に入れたのは、世界選手権二大会のみ。出場した大会で目立った活躍を見せ、今後が期待されたのも束の間、大怪我に見舞われた。それ以降、オリンピックも世界選手権もおろか、あらゆる競技の舞台から完全に姿を消している。まさに彗星の如く現れ、そして消えてしまった天才という事だ。
カズヤは、この人物の息子で間違いがないのだろうか。
検索結果をスクロールしていくと、「織川ジュニア、頭角現す 被災乗り越え」という表示が見えた。
珍しい名前にジュニア、という書き方は、ほぼ答えを示しているに違いないだろう。
やっぱり、と声には出さず口だけを動かす。
この出来事自体の謎は全く解けていないが、少なくとも、この人物の事は少しだけわかった。
「よぉ、元気してるかー?」
突如、前触れもなく勢いよく背後の扉が開いた。
くそっ、なんてタイミングの悪い奴だ。
途端に全身に力が籠もる。
『なんだ、タイガかと思ったわ』
スマホをポケットにしまって身体を起こし、扉の方へ向けて身体を捻りながら、織川は返す。
「あいつは洗濯だろ? ま、俺も同じ状況でちょっと暇してて」
どうやら、ルームメイトとはまた別の部員のようだ。一体何の用で僕の部屋に。
疑問を浮かべながら訪問者と相対していたが、別段大した話題がある訳ではなかった。話を聞いている印象からして、彼らが互いの部屋を訪れるのは、ごく日常的にしている事のようだった。
そうこうしているうち、あっという間にルームメイトも部屋に戻って来て――。
それからというもの、僕はずっと上の空でいた。部員と言葉を交わす。食堂で大勢の人間と共に食事を摂る。部屋に戻った後、浴場で大勢の人間と共に入浴する……。
彼の生活に、沈黙など無縁なのでは無いかとすら思えるほど、織川はとにかく誰かと言葉を交わし続ける人間だった。食堂では、ルームメイトだけでなく、周辺の席に座る他の人間と談笑する。部屋に戻れば、今度は別の部屋の人間が訪問してくる。一体彼のその活力は、どこから湧いているのだろうか。
すぐ近くで聞いている僕の方が、余計に疲れてしまう。
相対的に、入浴の時間は平穏な方で、僕は湯船に浸かりながら、ゆっくりと心を落ち着ける事ができた。五感は常に織川と共有されている。食べ物の味がわかる事と、お湯の温かさに触れられる事が、せめてもの救いだった。食事のペースは随分と早く、量も多かったが……。
織川の生活を眺めながら、僕は全く違う事を考えていた。
一体この生活はいつ終わるのだろう。いつになったら戻るのだろう。
僕は今頃どうなっているのだろう。やはり、「入れ替わりもの」みたいに、織川カズヤが僕の身体の中に入っているのだろうか。だとしたら、同じように勝手に身体が動く? ……まさかな。
どちらにせよ、こんなに人とよく話す人間が、僕の生活なんてとても耐えられるものではないだろう。僕の生活、ねぇ……。
バスタオルを握る手の感触に、ふと我に返った。
首元に意識を向け、ぐるりと辺りを窺う。身体が思い通りに動くというのが、当たり前のはずなのに何だか妙な感覚に思えてしまう。
いつの間に、身体が自由に動かせるようになっていた。周囲に目を向けると、脱衣所には他に誰もいない。僕はまだ髪を拭いており、周りの友人達は先に着替え終わったという事だろうか。織川は彼らと何か言葉を交わしたのかもしれないが、友人達との間でどんなやり取りがあったのか。考え事に耽るあまり、何も気付けなかった。
もう、いいだろ。どうだって。
髪を拭こうとしていた手を止め、僕はすぐに籠の中から衣服を手に取り、手早く着替えた。
浴場を出て、階段を上る。織川の部屋がある階を通り抜け、どこまでも上り続ける。寮を外側から見た時に感じた見立てが当たっていれば……。
ビンゴだ。思った通り、この建物には屋上があった。夜中にわざわざこんな所に来る人間なんていないだろう。そう思い、扉を捻る――。
直前の記憶は何もないが、元の「僕」自身が日々抱えていた感情は、確かによく覚えている。
僕は死にたいと思っていた。そして実際に何度か試みた。だが、結局勇気が無くて、どれも上手くいかなかった。では今、薬物の力にでも頼って、意識不明にでもなったのだろうか。それで、こんな変な幻覚を延々と見させられているのかもしれない。僕がそんな事を実行できたなんて、とても信じられないが。
だが、仮に別人になったとしても、それを観測する「僕」が元通りのままでは、何の意味もない。僕が嫌う僕から、逃げ出せる事ができない。だから、今度こそ――。
欄干から身を乗り出し、地面に視線を向ける。ああ、結構高いな。こんな所から落ちたら一たまりもないだろうな、織川は。
妬みだった。わかっている。彼が持っている物を、僕は何一つとして持っていないから。
僕の人生に、希望など微塵も無い。カッコいい顔も、抜群の運動神経も、色んな人間と明るく会話して馬鹿笑いできるコミュニケーション能力もない。だから、それを全て持っている人間の中にいて、そんな人間の一日を見せられて、僕の中に巣食う劣等感と自己嫌悪感が、これまで以上に増長されたんだ。
どうしてこんな奴なんだ。
せめて、僕みたいに根暗で、人と関わらずに生きていこうとする人間の中に入ったなら、こんな気持ちにならなくて済んだのに……。
――ダメだ! お前は死んではいけない。
「何をしているの」
突然、近くから二つの声がした。反射的に声がした方を向こうと、顔を上げた。
おかしいと気付いたのはそれからだ。
声が聞こえた方向は僕の正面の同じ高さ。つまり、人が立てる場所など何もない所からだ。
「今、飛び降りようとしたわね、あなた」
その女は純白なワンピースに身を包み、僕と同じ高さに漂っていた。
思わず声をあげ、弾かれるように柵から離れ、尻餅をついた。
「いくら自由に行動できるからって、それは酷いんじゃない?」
僕の様子に構う事なく、女は変わらず落ち着いたトーンでそう言った。
「何せ、その身体は今、あなただけの物ではないのだから」