第三章⑨ 和也の思い
「僕」が何故魂だけの存在であったかを思い出した時、身体の持ち主である和也の真の思いも明らかになる。そして…
「イレギュラーだったのは、あなたも対峙した、あの獣型の言神の存在。織川和也が鎖を生み出した時、本来ならば旅立つはずの魂を、奴が取り込んでしまった。きっと獣は、人の魂を取り込むという意志を持っていたのでしょうね。私にわかるのはそれくらい。まさかそんな事が起きてしまうなんて、私の考えが甘かった」
それの何が問題なんだ。半ば悔やむようにして言う天使の表情が、僕には何一つ理解できない。
「魂が残ってしまうと、何が問題なのか、あなたにはわかるかしら。迷いや葛藤よ。言神の意志は単一だけれど、人間が抱える感情は複雑で、時として矛盾するはずの二つの感情を同時に抱えたりする。そうなると、意志の力が弱まってしまうという事はわかるかしら?」
天使が言うのは、一見真っ当な事のようで、でも前提が大きく狂っている。
「折角兄の意志を継ぐという思いのみを残したはずなのに、バスケを楽しみたいという思いや、ありのままの自分として周囲に承認されたいという、矛盾した思いが残ってしまった。そうした潜在的な感情が魂に残っているせいで、獣が鎖に近付く度、そうした矛盾が、彼の身体に発生する事となった」
それでもなお、和也は一つの思いだけを残し、自分を捨てようとしたのか。彼の覚悟は、相当のものなのだろう。
「だから私はあなたに協力を求めた。彼の意志を、願いを達成させる為に、あなたの力は必要不可欠だった」
天使はそこで笑みを浮かべた。
「ようやくわかってくれたみたいね。今、あなたは彼の本当の気持ちを、直接聞く事ができるの」
直接? 一体どういう事だ?
そう思っていると、天使がこちらの方へと差し出した掌に、いきなり何かが浮かび上がった。
モウ、ココデ決メルシカナイ。ヤハリ、コレ以上相応シイ人間ニナド、コレカラソウ簡単ニハ出会エナイ。
「そうよ。だからあなたは、ここで心を決める必要がある。今一度、完全に生まれ変わる為の決意をね」
完全に、生まれ変わる……?
僕は改めて天使へと視線を向ける。
「そう。今のあなたが迷いを抱えてしまうのも、〝元の自分〟という存在への執着があるせい。ここで心に残る元の自分への執着を捨て、自分こそが織川和也になるのだと決めれば、いよいよあなたは鎖と結合し、新しい織川和也へと生まれ変わるの。鎖を媒介にしてその肉体と結合し、完全な一人の人間に生まれ変わる。……どう、お互いにとって幸せな事だとは思わない?」
気付けば、そこは僕がいるはずの現実の世界ではなくなっていた。何もない空間で、天使は宙に漂っている。
天使は自らの掌に浮かぶ球体の塊へ向けて、優しく声をかけた。
「さあ、思いの丈を語って」
すると天使の声に応じるように、球体から声が発せられた。
――僕は、自分の意志で鎖を生み出したんだ。
球体の中から、声が響いた。何故だかそこら中に響き渡るようにして聞こえる声は、僕がさんざん自分の、いや、和也の耳で聞いてきた、和也自身の声と、実によく似ていた。
何を馬鹿な事を言っているんだ。心の中で声をあげる。そんな事、絶対におかしい。
――僕は本来、死んでいるはずだった。兄さんが自らを犠牲にして、僕を助けてしまったせいで、僕なんかが生き残ってしまったんだ。
どうしてそんな言い方をするのか。僕は怒りに満ちてきた。折角兄に助けられて今があるというのに、どうして……。
――当時の僕と兄さんを比べたら、僕だけが残るのなんて、絶対に間違っていた。夢も持たず、実力もやる気も無く、父さんに叱られてばかりの毎日。別に僕が死んだって、それは仕方ない事で済んだんだ。
――だから僕は思ったんだ。残っている僕という身体で、兄さんを蘇らせるんだ。兄さんの志を受け継ぎ、兄さんと同じように生き、兄さんの夢を叶えるんだ。全ては兄さんの為だ。だから、僕の力不足のせいで夢が潰えてしまったら、全てが無駄になる。大事なのは兄さんの夢であって、僕なんかじゃない。
待ってくれ。思わずそう声をあげたくなった。
信じられなかった。全部嘘だと言って欲しかった。
まるで馬鹿みたいじゃないか。僕は何もわかっていなかったじゃないか。織川和也だと思っていたものの全てが、僕が生きる希望を見出した全てが、亡き兄を模倣したものだったなんて。
――自己満足かもしれない。でも、いいんだよ。あなたがそうやって、僕の鎖の生き方に賛同してくれたのなら。あなたの魂は、鎖と、とても強く共鳴している。あなたこそ、織川和也として、相応しい人間なんだって……。
「どう? やはり、あなたの最後の心残りは、織川和也本人の思いだったんじゃないの? 彼の同意無しに進める訳にはいかないと」
違う、そんな事は無い。僕はすぐさま天使の言葉を否定する声をあげようと思った。
イヤ、ソレダケガ心残リダッタ。
一体、何を……。
ソウダロ? 自分ノ中ニダッテ迷イガアッタンダロ? 元ノ自分ガドウナッテイルノカ、ヨクアル「入れ替わり」ノ物語ノヨウニ、彼ガ自分ノ代ワリヲ負ワサレテイルノデハナイカ。
そうだ、確かに僕はそう思っていた。自分が負わされた使命に勤しむ片隅で、ふとそんな事を考えてしまう僕がいた。きっと彼には、何も楽しくなくて、暗いだけの日々に違いないなんて、そんな……。
ソンナ疑念ガ残ッテイタ。ダカラ、最終決断ヲ下セナカッタ。
そして、本人が望んでいるなら、自分のする事だって正しいんだと決められる、最後の一押しが欲しかった……。
「どうやら、あなた達の心は繋がったようね。いよいよ結合が完了し、一人の人間になる事ができた」
天使の微笑みが見えた。
「エエ、ソウデス。僕ハ鎖ト繋ガリマス。ソウシテ、新シイ『織川和也』ニ……」
僕の視界を、灰色の何かが覆っていく。
コレデ、ヨウヤク新シイ自分ニ――。




