第三章⑧ 僕の正体
真相は唐突に訪れる。
和也の人生にばかり考え続けてきた「僕」に、それまで失っていた「僕」自身の正体の真実が突き付けられる。
今日もまた、ベンチ入りメンバーで揃って食堂へ行く。別にバスケの話を真剣にする訳ではない。メリハリだろうか、試合とはほぼ関係の無い、他愛のない雑談が今回の主となっていた。
――市で発生した無差別殺傷事件から、今日で一カ月となりました。
ふと偶然会話が途切れたタイミングで、食堂内にあるテレビから、そのような音声が流れるのが耳に入った。
あまり記憶になかったが、この事件に対する世間の注目度は一定数あるようだ。部員の皆も、話題を再開させようとはせず、目線をテレビの方に向けていた。
ニュースでは、現行犯で逮捕された若い男の供述が、読み上げられていた。
――人生に絶望していた。誰でも良かった。
アナウンサーの声を借りて代弁されたその供述は、感情が籠っていない分、余計に冷酷に思われる。
――逃げて。
今度はテレビの音声ではない。脳内で声が聞こえた。天使の声だと言う事はわかった。彼女の声は、非常に切迫している。
「そんな理由で人の事刺しまくるなんて、たまったもんじゃねぇな」
斜向かいに座る安藤さんが、独り言にしては大きい声でそう言った。
そうっすねぇ、などナオが返答する。
何かがマズい、という事はとにかく天使の指示から明らかだった。
何も頭が回らず、僕は発作的に――。
「ほんと、死にたいなら人巻き込むなよって話ですよね」
津田が安藤さんに同調してか、腹立たしそうに返した。
ガタッ、と大きな音が立った。
「ん、どうした?」
安藤さんの指摘で気が付いた。今の音は、他でもない、僕が勢いよく立ち上がったために起きた音だった。
「いや……」
咄嗟にそう返したが、続く言葉が思いつかなかった。
辺りに沈黙が流れる。
――なお、被害者の一名、キヨタニカズシさんは、現在も意識が戻っていない、との事です。
ぐらり、と大きく視界が歪んだ――。
――おい、キヨタニ、今日も気持ち悪ぃなお前。
――どうやったらそんなに気持ち悪くなれるの? 教えてくれよ、なあ。
――もうこいつ、キモタニでいいだろ。キモタニ。
――はいじゃあ、キモタニ。
――やば、似すぎだろ。
キーモタニ、キーモタニ……。
やめてくれ。
勝手に頭の中で流れ出した映像に、僕は頭をかきむしった。
キーモタニ、キーモタニ……。
なおもあだ名の合唱は止む所を知らない。
やめてくれ、やめてくれ……。
気が付けば、同じ卓の部員達から視線が集まっている。こちらを訝しむような、恐れているような、嫌悪しているような、そんな目で皆がこちらを見ている。
どうして、何度も何度も浴びてきた視線を、また浴びなければならないのだ。
僕は声をあげながら、その場から走り去った。
もう何が何だかわからなかった。
思い出したくなかった。目を逸らし続けていた。
自分が織川和也になる事で、ようやくこの人生を前向きに生きていく事ができたというのに。
どうしてまた、この忌まわしい記憶に向き合わなければいけないのだ。
もう、おしまいだ。
どうしてこの場に来て、嫌な過去に、ここまで向き合わされるのだ。
また、あの見下されるような冷たい視線を浴びてしまった。あの目は、本当に嫌なのだ。そう、あの時だって……。
「なあサトミ、お前昔キモタニの遊び仲間だったんだってー」
主犯格の奴らが、ついにクラスメートのサトミに目をつけ始めた。確かに、小学生の頃、彼女とよく遊んでいた。
だが、別にそんなのよくある話じゃないか。男女関係無く、仲良く遊ぶ年頃が。
教室中に彼らの声が響き、周囲からざわめきと好機の反応が出た。
「確かに、サトミ、いつもキモタニ菌の時のノリ悪いもんな」
「確かに、なんか変に気まずそうにしてるもんな」
気まずい。それは当然だろう。幼馴染みがクラス全体のいじめの標的にされているのだ。仮に彼女が今僕の事をどう思おうが、気まずくなるのは当然の事だ。
不意に、後ろから椅子を蹴り上げられる。
驚いた反応が面白かったのか、周囲から笑い声があがる。
その目だ。クラスメート中からその目が向けられている事がわかる。胸が痛い。早く時間が過ぎてくれと思った。
「なあキモタニ、お前も男ならちゃんと思い伝えないとダメだろ」
奴らの発する言葉の意図が理解できないうちに、僕はいつの間にか廊下に連れ出された。何故だかそこにサトミの姿もあった。
僕らは階段のすぐ傍まで連れられ、大勢のギャラリーを集めている。
とにかく僕達を男女の仲という事にしたいらしく、あれやこれや下品な言葉が飛び交う。皆奴らと同じように下品な笑い声をあげている。
サトミは、今にも泣きだしそうな顔をしながら俯いている。
何なんだ、これは。
今まで僕一人だけだった。別に、僕が嫌な思いをするなら、感情を遮断し、ただ時が過ぎるのを待てばいいだけだった。でも、そこにサトミを巻き込むのは違うだろう。
「はーい、今からこいつらキスしまーす」
階段の縁に立ち、教室の方へと手を挙げる奴の姿が、ふと視界に映った。
ほとんど衝動的だった。こんな事、許してたまるか。
ほんの一瞬、奴のこちらから視線が外れたその時、その背中に、勢いよく――。
***
「何をしているの。落ち着きなさい」
目の前に人が現れ、僕の身体を静止させた。
ビュンビュン、と車の行き交う音がすぐ傍で聞こえる。いつの間にか、信号も見ずに道路に突っ込もうとしていたらしい。
「ああ、すいま……」
咄嗟に顔を上げ、目の前の人を見上げた。
そこに居たのは天使だった。
天使は僕の姿に視線を送り、声をかけてきた。
「ひどく動揺して……。これでは折角進んでいる融合が台無しになってしまうわね」
そのひどく冷静なトーンは、余計に僕の神経を逆撫でしてくる。
「台無しって……もう、そんな事を考えられる状況じゃない」
「何を言っているの? あなたがその身体に入った時から、あなたの元の身体の状態は、何一つ変わっていない」
こんなにあっさりと言い返されるとは思っておらず、僕は言葉を失う。
「ただあなたがその事実に気付いたか、気付いていないか、ただそれだけの違いでしょ。別に、これまでだって、自分から知ろうと思えば、気付く事だってできていたはず」
僕はこれまでの事を振り返る。
確かに、僕は知る事ができた。今、自分はどうなっているんだ。この世界に存在しているはずの、元の自分は……。
でも、その答えを知るのが怖かった。知った所で、元の自分に戻る気持ちなんて更々無かったから、余計に……。
「知らない方が良かった、なんて思ってるのかしら。でも、知ってしまったからには、きちんと説明してあげた方が親切ね」
いや、という言葉が腹から出そうになったが、僕は途中で止めてしまった。
「その身体にいるあなたは、魂だけの存在。元々属していた身体から解き放たれて、居場所を失い、自由な状態でいる。反対の立場で言えば、織川和也の身体に入る事ができるのは、あなたのように、魂だけが自由な状態の人間だけ。私はその魂を選び、彼の身体に、彼の言神に取り込む手伝いをしていた」
まさか、と思ったその時、織川和也のスマホで見た、ユアサゲンショウのニュースを思い出した。長い闘病生活の末、息を引き取ったのだ。そして、彼も僕と同じようにこの身体にいたという記憶が、微かに残っている。
「殺したのか。この身体に入って来た人間を」
「殺しただなんて、人聞きの悪い。私はただ、彼らが本来あるべき場所に帰してあげただけよ」
まだ理解できないのかしら、とでも言いたげな表情を浮かべ、天使はさらに言葉を重ねた。
「元々死ぬはずの人間だった。それを私が一時的に留めていただけにすぎないわ」
絶望。ただひたすら絶望するのみだ。天使の平然とした表情は、ただ当たり前の事実を当たり前のように言っているだけ、というようにしか見えない。自分が関わっている事実を、何とも思っていない。
「どうやらあなたもわかってきたみたいね。これは、あなたにとってもメリットがあるという事をおわかりかしら? 確かに私はきちんと情報を伝えなかったけれど、それはあなたを動揺させないため。あなたの気持ちに配慮しての事だから」
何が配慮だ。どっちみち、いつか真相を言うのなら、こちらを一切動揺させずにお願いを聞いてもらうなんて、あり得ないだろう。
「言神というのは、本来、ある条件を満たした死人だけが宿せる物だった。この世に魂を残せなくなる代わりに、願いを一つだけ、具現化させる形でこの世に残すと。人間が本来持つ葛藤から解放され、ただ一つの思いの為だけに生きる存在となる」
天使は、もはや僕の様子になど一切構う事なく、一方的に説明を始めた。
「言神を持つ事ができる条件とは、生死の境――私がいる、今際の世界に来た事がある人間という事。今際にいる間、まだ死後の世界へ旅立ってしまう前に残す意志を決めた人間だけが、その力を残す事ができる」
私と出会った事のある、特別な人間。初めて会った時、天使は確かにそう説明した。
「織川和也のように、結果的に生の世界に戻ったけれども、今際の世界を経験した人間にも、言神を生み出す事ができる。ただし、その場合は、言神を生み出す際、死人と似た条件にならなければならない」
天使は一度言葉を切り、改めてこちらに視線を向けた。
天使は当たり前のように話しているが、和也は、自らが生きながらにして死ぬような状況を、自らの意志で選んだ事になる。そんな事、決して当たり前ではないはずだ。
「それは、自らの魂を失う事。彼の場合、『兄の意志を継ぐ』というただ一つの意志だけを残し、その他のあらゆる思いは、全て魂と共に葬り去る。そうなるはずだった」
はずだった? 一体どういう意味だ。僕は唾をごくりと飲み、天使の言葉に耳を傾けた。




