第一章① 目覚め
意識を取り戻した時、僕は違う人間になっていた。
そこには一人の青年が立っていた。そこ、というのは、僕の視界のすぐ目の前。手を伸ばせば届いてしまいそうな距離。ということは、僕は今何をしている? 周囲に目を向ける。
見上げれば乳白色のライトに白い天井。手元には洗面台、シンク、蛇口。真っ白なシンクには髪の毛や汚れが一切なく、とても綺麗な印象を受ける。僕が手をかざせば、蛇口からは自動的に水が流れる。振り向けば、複数の小便器と個室が対をなして並んでいる。
……そう、ここは間違いなく男子トイレだ。そんなことは簡単にわかる。だが、この男子トイレには全く見覚えがない。自分の記憶に眠るあらゆる空間の、どの一つとも照合がとれない。
僕は再び目の前に視線を戻す。では、この鏡に映る青年は……。
いや、これは僕ではない。全くの別人だ。
右目の下にほくろはないし、目は切れ長の二重ではないし、何よりこんなに整っていない。僕の顔は。それだと言うのに僕が今僕であるはずのその姿は、完全に別人そのものなのだ。身に纏っている黒地のジャージにも、全く心当たりがない。
「何だ、これ……」
鏡の中の青年はそう言った。言ったのは僕ではない、赤の他人だ。だが、奇遇にも僕も全く同じタイミングで全く同じ言葉を言おうとしていた。
自分が言葉を発すると、鏡の中の青年も同じように口を動かした。それと同時に知らない声が耳に飛び込んでくる。その様子が恐ろしく、反射的に口を手で覆ってしまう。すると鏡の中青年も僕と同じことをする。気味が悪い。僕は鏡を見ていることに耐えられなくなり、背を向けた。
息があがっている。自分の身に何が起きたのか、理解することができない。自分が別人になった? だが、僕という意識は変わらず残っている。直前の記憶も思い出せない。
幸か不幸か、トイレには僕の他に誰もいなかった。僕の様子を目撃している人は誰もいない。もしかして、今僕は夢を見ているのか? 何の脈絡もなく、ふとそんな疑問が浮かんだ。だが……。
自分の手を反対の手で触る。親指の付け根を押さえると、脈拍が規則正しく打っているのがわかる。それが確認できると手首、肘の辺り、上腕、と少しずつ触れる位置をずらしていく。
本当に夢を見ている時ほど、今ここが夢の中だなんて自覚を持つことがない。何故か見ている世界は現のものだと信じて疑わない。不思議とそんな習性があることは、経験則で知っている。
「嘘だろ……」
再び、自らの発声と同じタイミングで聞こえてくる誰かの声。鏡に背を向けていると、なおさら赤の他人がそこにいるような気がしてならなかった。というより寧ろ、まるでそこに自分が存在していないような気分になった。
「オリカワさん、いますか? そろそろ時間ですけど」
またも急に聞こえてきた声に狼狽える。だが、今度は僕が言葉を発したつもりはないし、声が聞こえてきたのもこの身体から少し離れた所だ。少し焦ったような、困ったような声色だった。
声がした方向、トイレの扉へと視線を向ける。思っていた通り、扉の向こうに人影が見えた。
トイレには他に人がいる気配などない。ということは、「オリカワさん」というのは、この身体の持ち主の青年の事だろうか。もしそうだとしたら、僕は何か言葉を返さなくてはいけないのだろうか。
そう思った途端、たちまち何かの強い力が身体中に走った。まるで息が詰まったように、喉が硬直して動かない。何と返せばよいのかもわからなければ、声をあげることすらままならない。
『……わかった。すぐ行くから待ってて』
突然、落ち着いた調子の声が、僕のすぐ近くで聞こえた。
それが他でもない僕自身から発せられたとしかあり得ない事を理解するのとほぼ同時に、僕の身体は突然動き始めた。
勢いよく扉を押し開けると、そこには先程「オリカワ」を呼んだであろう小柄な男が、驚いた表情でこちらを見上げていた。
「あ……」
『悪いね。もう大丈夫だから』
相手が何か言おうとするよりも先に言葉を返す。そして僕、いやオリカワの身体は、自分を呼んだ人間を置き去りにしてすたすたと歩き始めていった。
僕にとっては全く身に覚えがない道だというのに、この身体は迷うことなく真っ直ぐにある方向へと進んで行く。僕の意図とは関係なく、足がどんどん先へと動く。
『いやぁ悪いね。ちょっとお腹壊してて。おかげですっきりできたからもう大丈夫』
「オリカワ」は冗談めかした、少しわざとらしい言い方で背後を歩く男へ声をかけた。
「そうでしたか、ならよかったです」
僕を呼んだ男も、笑みを含みながら返す。
「皆さん心配してますよ。もう試合開始のタイミングなのに、肝心のメンバーがいないんですから」
『メンバーって言ったって、僕はベンチスタートだけどな』
僕の戸惑いをよそに、二人の会話は進んでいく。試合? メンバー?
僕が抱いた疑問はすぐに解消される事になった。トイレの出口と直結している更衣室を抜け、すぐ目の前にあるスライドドアを開けると、そこは大きな――バスケコート二つ分程ある体育館だった。
そこで突然身体が駆け足を始めた。体育館の一角に大勢の人間が集まっており、オリカワはそこへ向けて一直線に走っている。
まるで僕達の到着を待ち侘びていたかのように、そこにいるほとんど全ての人間がこちらを見てきた。十数人もの人間から一同に視線を向けられ、僕は気圧された。
これほどまで多くの人間がいる空間にいるなんて、一体いつぶりだろうか。緊張のような、座りの悪いような妙な心地を感じたまま、僕の身体は自然とその集団の中に飛び込んでいく。
定位置であろう場所に移動するまでの間に、怪しまれないようにこっそりと周りの人間の顔を盗み見たが、次々とこちら向くどれにも見覚えがない。自分が何者かもわからなければ、この集まりが何なのかもわからない。皆お揃いのジャージを着ており、殺気立ったような表情をしている者もいる。
知らない人間ということも相まって、余計にそれぞれの区別がつかなくなってくる。
「おーい、何してたんだ、オリカワ」
その場に足を踏み入れると、すぐに部屋の中にいる人間が反応してきた。体格が良く、声も野太い、中でも厳つい見た目をした男だった。
『……すみません、お腹の調子が悪くなってしまいました』
真っ直ぐに声をかけてきた男の方を向き、オリカワの身体は声をあげる。
「すげぇタイミングだな」
「お前が一番緊張してどうすんだよ」
周囲からこちらを茶化すような声がいくつかあがる。
ああ、苦手な空気だ。この一瞬だけですぐにそう判断できた。居心地の悪さは増すばかりだ。その雰囲気を制するように、最初に声をかけてきた男が再び声をあげた。
「ま、気にすんな。元気になったならそれでいい。さあ、来いよ」
『はい!』
オリカワはいかにも体育会系、というような引き締まった声をあげ、軽く頭を下げた。
「よし、皆集まろう」
野太い男はこのチームのリーダー格なのだろうか。彼の声かけに応じるように、あぃ、と野郎共が応える声が次々に聞こえてくる。彼らは皆、各々が着ていたジャージを脱ぎ、近くに置いていた荷物へと仕舞い始めた。自然とオリカワも同じ動きを取っている。
うわ、なんだこれ。随分と暑苦しいノリだな。
薄々勘づいていた通り、僕の性格とは正反対の場の空気に、居心地の悪さは増すばかりだった。そう思いながらも、僕の身体もまた彼らと同じ行動をしている。
大勢の男達が、輪を作るように並んで立っている。背丈には多少の差異があるが、皆同じ装いだ。Ⅴ字のネックにノースリーブ。ややダボついた大きさの膝丈のパンツ。……彼らの恰好を見て、ここがどこだかわかったように思えた。バスケットボールチーム。皆が何かを待ち受けて押し黙っているうちに、僕も自分の胸元を確認する。……どうやら僕も彼らと同じユニフォームに身を纏っているようだ。
野郎共は隣の者同士で肩を組み始めた。えっ、と躊躇いの声をあげるまでもなく、僕の両隣の者達が周りに倣う。そうされてしまったからには、僕も彼らに従わざるを得なかった。
事はあっという間に進んでいった。無骨なリーダーが、その場を盛り上げるような言葉を述べ立てた。練習試合だが、と言いながらも、決して気を抜くな、だの一秒も無駄にするな、だのやたら暑苦しい言い回しにうんざりしていたのは僕だけだったのか。周囲の野郎共もそれに応じるように何やら声を発していた。
「ケイセイレッツゴーファイ」
「オー!」
気合いを入れる儀式が終わると、そのまま一同はコートの中心部へと歩き始めた。メンバーという話があった。もう今からこの場で行われる事は察しがついていた。
僕の気持ちになど一切構う事なく、オリカワの身体は周囲と同じ動きを取っている。
案の定、それはバスケットボールの試合だった。選手の年頃やユニフォームの表記を見るに、大学のチーム同士の練習試合なのだろうという事は何となくわかった。審判は両校のメンバー外選手かマネージャーなのか、学生が務めている。
コートのすぐ傍でパイプ椅子に座り、食い入るようにコートで繰り広げられる攻防に目を向ける。先程とは打って変わり、迂闊に言葉を発する事が躊躇われるような、妙な緊迫感が立ち込めている。不用意に椅子から立ち上がるなど、とてもできそうにない。
横一線に並んだ者達は黙ったまま試合を観続け、時折声をあげたり、椅子から立ち上がったり、短く拍手をしたりする。
これでは、まるで試合を観戦しに来たようだな。父親に連れられてバスケのプロリーグの試合を観に行った昔の事をうっすらと思い浮かべた。もし観戦なら、この場所はかなりの特等席だ。チケットは相当高いだろうな。
それにしても、レベルが高い。
目にも止まらぬ速さで動く選手達、目まぐるしく変動する攻守。それだけではない。ベンチからは絶えず指示が飛び、僕達のさらにその後ろからも掛け声や歓声が飛んでくる。色々な人の声が交じり合い、その中心のコードでは十人の男達が、激しい攻防を繰り広げながらボールを回し合う。
これだけ近い距離から見ていると、その迫力はなおの事だ。
早くこの場から消えたいとは思ってはいたが、このレベルの試合ならまだ見ていられる。
中でも、一人目を引く選手がいた。
オリカワのチーム、「ケイセイ」と書かれた白のユニフォームの、浅黒い肌をした7番。恐らくチームの中心的ポジションなのだろう。彼が常に中心となってボールを回し、チームのオフェンスに大きく貢献している。洗練された彼の動きは、レベルの高いこの試合の中でも、ひときわ目立っている。
こちらのチームの方が、終始優勢だ。
前半が終わり、インターバルに入った。ベンチメンバーも皆立ち上がり、選手達を出迎える。
リーダー格の男――改め4番をつけたキャプテンは、パイプ椅子から立ち上がり、次から次へと五人の選手たちに言葉を投げかけている。番号が若いが試合には出ていないのは、練習試合だからだろうか。頷く者、ただ黙って飲み物を飲み続けるもの、タオルで汗を拭う者。反応は五人ともそれぞれだった。ただ一人、一番熱心に話を聞く者が、何故だか気になった。彼が身に纏う切迫感が、他の選手のものとは少し違っていた。フォワードを務めていた、7番。
近くには選手とは異なりジャージ姿の小太りの男もいたが、時折口を挟む程度だった。
すごい緊迫感だ。ただ黙って近くの状況を眺めだったが、僕にも十二分に彼らの気迫が伝わっている。大事な試合なのだろう。皆真剣に勝利の為に考え、動いている。
「オリカワ、準備をしろ」
第三クォーターが始まった途端、キャプテンは椅子に座ったまま振り向き、僕にそう指示を飛ばした。
準備って、それは……。
嫌な予感を覚えたとほぼ同時に、この身体が返事をして立ち上がる。
コートから少し離れたスペースへ移動し、身体を動かし始めた。それから、小走りに短い距離を往復したり、身体を小刻みに揺らしたりする。
最悪だ。やはり、僕の意志と関係なく身体が動くというこの瞬間が、気分が悪くなるし酔いそうだしで、もう本当に最悪だ。
――そうやって動けるなら、僕なんてこの場にいらないじゃないか。早く追い出してくれよ。元いた場所に。
動きが止まった。ゆっくりと前に動き出し、コートへと近付いていく。遂にその時がきてしまった。
監督がいつの間にか指示を出していたようだった。項垂れたままコートを出る一人の男。視界に映る彼の姿を見ると、それは、強い切迫感を持っていた8番の彼だった。
『任せて下さい』
彼とハイタッチを交わし、オリカワは、遂にコートへと入った。
試合再開を告げる笛が鳴るや否や、その身体は弾かれるように動き出した。素早く走り込み、ボールを受ける。重いゴムの感触が手に残ったまま、素早く力強くボールを手繰る。
静と動。勢いよく走り込んだと思えば突然立ち止まり、迫る敵の壁と対峙する。
激しいパス回しとポジションの移動。ゴール前に密集する選手達の俊敏な動きに、僕も巻き込まれている。
それは一瞬だった。突然、身体がふんわりと浮き上がる感覚に襲われた。しかし、身体はそのまま走り始めた。それまで視界が揺れていた感覚が途端に消え、ふんわりと地面に浮かび上がっているような感覚になる。先程までの不快感が、一気に消えた。
オリカワも、他の選手に負けず劣らず、高いポテンシャルを持っている。自分自身の視界が動いている状況でも、うっすらとそれは感じられた。
絶え間なく動き、空いたスペースでボールを受け取る。素早いドリブルでボールを保持したまま、素早くインサイドへ切り込む――。
その手からボールが放たれた。一瞬、時が止まったように感じられる。皆が皆、その籃球に釘付けになる。放物線を描き、ゴールの元まで真っ直ぐの軌道を描き――。
その時間は、瞬く間に過ぎていった。この身体が何をしていたのか、自分でもよくわからなかった。
きっと我を忘れたように、ただひたすらに球を追いかけていた。試合終了を告げるブザーの鳴ったその時、ようやく冷静に自分のことに気付けたのかもしれない。
試合が終わったその時、緊張の糸が解けたように、床に膝をついた。呼吸が荒い。それまでなくなっていた感覚が急に再接続されたように思えた。途轍もない疲労感が僕の身体に覆いかぶさってくる。
「ナイスゲーム」
誰かに背中を叩かれた。それに対して、僕はただ黙って頷くことしかできない。
「よくやった、本当によくやったぞ」
声だけ聞いても、それが誰なのかわからない。顔を見てもわからないだろうが。その誰かに、半ば強引に身体を起こされ、ようやく立ち上がる事ができた。
「カズ、よくやった」
「よかったぞ」
「ナイスっす」
何人もの人間が口々に僕に向けて手を突き出してくる。思わずそれに応えたが、妙な胸騒ぎは止まらない。別にそうする義務などないはずなのに、チームメイトは一人欠かさずと言っていい程、僕に声をかけてくる。
いや、違う。それは僕じゃないんだ。動きを止め、冷静になった時、自然とそんな言葉が口から出かかる。これじゃあますます、ここから逃げられないじゃないか。
やがて両チームの選手全員がそれぞれ一列に並び、前から順に、お互いの健闘をたたえ合うように胸の高さでハイタッチをしていく。カッコいい。何とも稚拙だが、僕は純粋にそう思った。それまでテレビの中で目にするだけだったような世界が、今こうして目の前にある。
だが、全身を襲う絶大な疲労感は、なおも収まらなかった。試合が終わった後は、ただ黙って、周りに合わせた動きを取ることしかできないでいた。
身体がキツい一方、頭だけは冷静に働いた。こいつは誰なんだ、本来ここにいるべきこいつは、今どこで何をしているんだ、こいつには意識があるのか。そんな疑問を抱いては、答えのわからない苦しみに苛まれていた。
その後、自分がどのような行動をとっていたのか、あまり記憶になかった。黙って周りに合わせた動きを取ればそれでよかったからだ。僕はチームメイトと同化していた。誰かに何かを咎められるなんてことは一切なかった。誰も中身が違うことに気付きなどしなかったのだろうか。
だとしたら、こいつらの目は皆節穴だ。
試合では少し盛り上がった気分にもなったが、冷静に考えれば、やはりこれはおかしい。早くここから逃れたいという思いが再燃してくる。
だが、どうやって? チャンスなど全く見えてこない。