第二章⑧ 今この時
レギュラーメンバーを決める部内対抗戦。
和也の夢を代わりに叶えるためには、この試合の結果が重要になる。
和也の身体を邪魔するコトガミに対抗すべく、「僕」は戦いを決心する。
ついにその日がやってきた。リーグ戦まで残り数週間を切ったタイミングで、監督も来て行われる部内対抗戦。安藤は明言こそしなかったが、ここでのパフォーマンスがメンバー選考に大きく影響するというのは、誰に聞くまでもなく明らかだった。
練習着に着替え、練習場へ足を踏み入れるなり、早速鎖の制御が始まった。
チームは以前から変わらず、小柴を中心としたメンバー。相手チームには、織川と同じポジションの宮内がいる。
チーム内でウォーミングアップを行っていると、あっという間にゲーム開始の時刻がやってきた。途中、監督が姿を現わして皆が大声で挨拶を行うという、いかにもな風習もあった。
「皆、力出し切ろうぜ。楽しんでいこう」
しゃあ! と大きな声で全員が返事をする。勿論、織川を含めて。
オールコートでの試合が始まった。じゃんけんの結果、先にボールを得たのは織川や小柴のチームだった。
最初にボールを手にした司令塔役の小柴がそのまま前陣へと切り込んでいく。
すかさず前に立ちはだかる敵役。周囲では目まぐるしいポジション取りが繰り広げられる。
右足を軸としたピボットで、小柴が後方から来る原へとボールを回す。
――!
早速、〝その時〟がやって来てしまった。身体が浮き上がるような感覚。奴だ。
織川の足も、思うように動いていない。ボールに絡めていない。
またも焦りに駆られる。
……しかし、ここで焦りに任せて動いてしまったら、また僕が織川の身体を邪魔する事になってしまう。
――あなたが織川和也を強化するのでは駄目。あなた自身が、織川和也になる。それが必要になる
天使の言葉が頭に浮かぶ。わかってはいる。だが、どうやって……。
「オッケーイ!」
大きな声がすぐ側で響いた。
味方同士でのパスが通らず、ボールを奪った宮内さんが、すかさずオフェンスへ転じている。
くそっ。僕は心の中で自分に鞭を打つ。僕がもっと踏み出していたら。
そう思っているうち、自然と足は動き出していた。鎖は、こういう時にはきちんと息を吹き返す。やはり、邪魔が入るのは得点機だ。
作戦を練るなら、ディフェンスの時間だ。邪魔が入らず、身体が自然と動いてくれる、今この時。
――あなたが、本当に織川和也になったつもりになる。
天使の言葉を思い浮かべる。織川は敵のフォワードのマークに入る。
――そう。僕が織川和也になるんだ。
パスは反対のフォワードへと渡った。マークを外さないよう、ゴール下で小刻みに動く。
――僕がここで力を発揮して、チームを勝利に導くんだ!
ボールはマークマンの手に渡る事なく、シュートが放たれた。
リバ! リバ!
叫ぶ声が聞こえる。織川の身体は、すかさずポジション取りの争いに加わる。
放物線を描いたボールは、一直線にゴールネットを揺らした。
「いいよいいよ、こっからだ」
声をかけ、上がるよう指示を出す小柴の声にも、心なしか怒りが籠もっているように聞こえる。
そんな小柴と目が合った。
「なあ、カズ。お前、ここで力出すしかねぇだろ?」
先程は抑えていた怒りが、険しい眉と共にこちらへ放たれた。
「おう!」
僕は力強く叫んだ。
そうだよ。これまで血の滲む思いをしてきた。安藤には努力を認めてもらえず、厳しい当たりばかりされる。それを見返すチャンスが、今この場には、公平に用意されている。
そう、だって、僕はプロになるんだから。メダリストになるんだから。
決して用意したセリフではなく、本当に、心の底から、僕は胸の裡でそう宣言した。
小柴が駆け出す。すぐさまハーフラインまで駆け上がり、ポジション取りを窺う。攻めの軸は、あくまでもフォワード二人。
フォワード二人にはぴったりとマークが張り付いており、ボールを持った小柴は攻めあぐねているのが見える。
今、僕にできる事は……。
身体は動いている。そうだ、これは僕の身体なんだ。僕が動く。僕がチームを勝たせる。
結果が出せなかったら、僕は悔しい。これまでの努力を無駄にしたくない。
よくわからないコトガミなんかに、負けてたまるか。
全身に力が滾るのが感じる。
途端に、弾かれるように身体を動かし始めた――。
――空いたスペースに動く。ナオと目が合ったその瞬間、パスが飛んでくる事を確信する。
フォワードの動きを頭に入れながらパスを受け取る。
相手の5番、6番を外すか、それとも……。
考える時間などない。すぐに駆け出し、半ば勘に頼りながら、センターラインへと切り込む。僕の動きに焦り、マークが外れる瞬間を狙う。しかし、そこ一本に頼る必要などない。
――そっちだ。
勘を頼り、すぐさまゴール下まで切り込む。
決して理想的でなくていい。泥臭くていい。ふんわりとレイアップした軌道で、置いていくようにレイアップを放つ。
「しゃ!」
ゴールが決まるのを見届け、反射的に声をあげる。
そう、この感覚だ。
迫ってきたナオと、力強くハイタッチする――。
――はっとした。ほんの一瞬の事だったが、何かこれまでと違う事が、この身に起こったように感じられた。
僕の力であるはずがない。それなのに、何故だか僕自身が、まるでこれまで幾多の勝負場を乗り越えてきた戦士のように、スムーズな動きをして……。
拳をあげる小柴と目が合った。
「ナイス!」
力強い声。決して喜びではない。彼の表情はまだ真剣だ。
「さあディフェンス一本!」
彼が目を向けるのは、早くも次のプレーだ。
何だよ、もうちょっとくらい僕を称えてもいいじゃないか。
そう思いながらも、身体は小柴に応じるように声をあげている。
プレーが再開する。
小柴が先に駆け出すのに合わせて、僕はもう一度自らの気持ちに集中した――。
***
あまりにも遅すぎた。せめてもう一日でも、もう一コマでも早くこの事に気付いていたら……。後悔は後を絶たなかった。最後に完璧な答えを導き出す事ができたとは言え、そこに辿り着くのがあまりにも遅かった。
全身の力が途端に抜けていく。身体に相当負担がかかっていたのだろうか。まるで本番の試合を終えた後のように――実際には本番の試合など経験していない癖に――疲労感が襲ってくる。とぼとぼ、と弱い足取りで前進するしかない。
「なに落ち込んでんだよ、カズ」
ポンと肩に手が置かれるのがわかった。全身を襲う途轍もない疲労感のせいで、応じる気力が微塵も湧かない。
そんな事、誰に慰められようと関係が無かった。今になって誰に何と言われようが、結果はもう決まっているのだ。
「今日、良かったぞ。ナイスガッツだった」
確かにありがたい、とは思った。だが、何か自分の意志で言葉を返す力は、僕には残されていなかった。
僕の顔を覗き込んでくるように、そいつが立ち塞がってきた。
「大丈夫だって」
声をかけてきたのは、小柴だった。
同期で、幼馴染だというのに、どこか距離感のある、不思議な関係の奴。
そんな小柴がそんな態度を見せてくるのが、意外で仕方なかった。
「……ありがとう」
そんな声を出すと、小柴は複雑な笑みを浮かべた。
「なんか、急にお前らしくなったな」
小柴と別れ寮に戻った後も、不安は消えなかった。
岡崎や仲の良い同期に声をかけられようが、表面的な返答ばかりで、心は空虚なままだった。
夜、ベッドに入った後も、僕は一人、不安と向き合い続けていた。
どれだけ憂いた所で、今更何も変わらない事は、頭ではわかっていた。
だが、もし僕が織川の夢を砕いてしまったら、一体どうなるのか……。僕達はついに、鎖に負けてしまった事になるのか……。もしそうだとして、この地獄のような日々を送り続ける気分には、到底なれない……。
――結局僕は、自分も何も変えられなかったという事になってしまう。
それだけは嫌だった。でも、それを今更いくら悩んでも……。