第二章⑥ 僕がするべき事
ルームメイトの友人達の励ましを得た僕は、改めて自分が魂として身体の持ち主である織川和也の為に何をするべきかを考える。
それから、岡崎や高木が話してくれた内容を、頭の中で繰り返していた。
僕がするべき事。それはとにかく、監督やレギュラーメンバーに、僕が抱える状況について相談してみる事だ。
これまで、練習中の動きでは、下へと降り、鎖の動きに抗う感覚を試してみた。だが、練習中以外の動き。日常生活での、他人とのコミュニケーション。これについては、僕自身に極めて強いコンプレックスがあるし、何より織川らしさから逸脱するという、下手な真似はできない。
日常生活での会話で、僕が自分から誰かに話そうなどと働きかける事をした経験は、これまで全く無かった。結局鎖が働いてくれるおかげで、自分から何もせずとも何とかなってしまっていた。
翌朝、実際に朝練の場にいる小柴や宮内さんらの姿を見ても、とても相談できる様子には見えなかった。大体、自主練をしに来ているのだ。自分自身の課題があって、それを改善しようとしている人なのだ。僕が自分の都合でその邪魔をしていい訳がない。
鎖の動きに流されるままで、なかなか介入する事ができない。
僕がようやく鎖の制御に抗う事ができたのは、練習から引き上げようとするタイミングだった。
「なあ、小柴」
半ば強引に、腹に力を込めて声をあげる。織川よりも少し早く更衣室へ向かおうとしていた小柴が振り返る様子を見て、そこで初めて呼び方を間違えた事に気付いた。
「なんだカズか、びっくりした。珍しいな、小柴だなんて」
彼はあっけらかんとした様子で笑っていた。呼び方なんて大した問題ではなかったか、と思ったが、すぐに別の問題がやって来た。
「……で、なんだよ。お前から話しかけといて」
急に真面目な表情になった小柴に、真っ直ぐな視線を向けられる。
他人と面と向かっている状況で一息吐こうものなら、あっという間に鎖の制御が始まってしまう。僕はすぐに頭を回し、言った。
「悩んでいるんだ。どうしたら上手くいくかって。……ナ、ナオも感じているかもしれないけど、僕、今壁にぶつかって、跳ね返されて……」
勇気がいると思った。果たしてこれで質問の仕方として正解だったのか。あまり手応えは無かった。小柴の反応が知りたいような知りたくないような、とても複雑な感情になった。
小柴は僕の言葉を聞いた途端、大笑いした。
「お前、人生で挫折を味わうのは初めてか? そんな事はないよなぁ?」
そんな事は……。いや、僕には何もわからない。だが、僕の表情を見てか、小柴はすぐに笑いを引っ込めた。
「ごめんごめん、茶化すのはよくないな。でもよ、この部にいる誰もが、皆一度は同じ悩みを持った事があるだろう。しんどい時を経験している。そしてそれを乗り越えた。んまぁ勿論俺もだし……」
何かを思い出そうと宙を見上げる小柴が、横目でこちらを見るのがわかった。
「……挫折をポジティブに捉えられるくらい、気楽にいこうや。これ乗り越えたら成長できるんだぜ? ステップアップできるんだぜ? めちゃくちゃいいじゃねぇか。羨ましいよ」
小さく笑い声をあげた。少々大袈裟なのかもしれないが、小柴が嘘を言っているようには見えなかった。
「時間はかかる。焦らず、冷静に自分を見つめ直していくしかない」
次あるから、と小柴は急いで更衣室を後にしていった。
いや、かく言う僕も――。
小柴の姿が見えなくなるなり、僕の身体は猛スピードで着替えをし始めた。
***
キャンパスへ入ると、自分が大学生なのだという〝実感〟が急激に増してくる。それが錯覚だという事も分かっているが、そう浸かりきってしまいたい自分もどこかにいた。
いつもより遅い時間になってしまっただろうか、と少し心配していたが、実際に教室へ入ると、授業開始時刻まではまだ時間があり、席もまばらだった。通路を歩きながら、いつも授業を受けているメンバーを探す。
『おはよう』
十人程座れそうな長机の間を、織川の身体が入り込んでいく。
「おはよー!」
元気よく挨拶を返してくれたのは、カナベアイただ一人だった。
――よりにもよって、彼女と二人きりか。
妙な緊張を覚える。
他のメンバーはまだ姿を現していないようだった。織川は何の躊躇いもなく、アイの隣に腰を下ろす。
授業開始までまだ余裕がある。全体的に人もまばらで、授業前恒例のざわつきもまだほとんどない。
織川の視界の中で彼女の様子を盗み見ると、彼女は机の上にノートを広げ、何やらメモをしている。
織川の方も、何か彼女に働きかける訳ではない。
……いや、この状況では、もはや鎖が作動するのかどうかもわからない。
リュックの中を漁り、授業に必要な用具を机の上に並べる。
しかし、手持ち無沙汰になってしまう。カナベアイは僕に構う事なく、勉強を続けている。
――気まずい。
アイの方は、ずっと自分の作業に集中しているようだ。ましてや、男女二人組。あまり教室内にはない組み合わせに、緊張は増すばかりだ。
自分も似た動きをしよう、と思い付き、適当にリュックの中から取り出したノートに目を読むふりをする。
「人、減ったね」
少しして、突然隣から声をかけられ、思わず腰を浮かせてしまう。慌ててアイへ目を合わせると、彼女は真っ直ぐにこちらへ視線を向けていた。
「ユカとダイチも、もうこの授業切るってね」
「き、切る……そうなんだ」
授業を切る。何となく「もう受けなくなる」という事なのだろうとはわかったが、大学の授業はそんな気軽に「切れる」ものなのだろうか、と他人事ながら心配になった。
「まあ、治安悪すぎて評価方法変えるって、先生の気持ちもわからなくはないけどねー。現にスポスイの巣窟になってたじゃん。……て、織川君もか、ごめん」
治安。スポスイの巣窟。これまでの友人との会話から、何となく意味はわかるような気がしてきた。
「それを言うなら……アイさんもだよ」
そう、同じ体育会として。そんな意図を込めて思い切って言ってみたが、アイが笑い出したのはどうやら違う意味のようだった。
「ねー、バカにしてる? 推薦で新聞部やる人がどこにいんのよ」
カナベアイに肘で小突かれる。不思議と次の言葉が頭に浮かぶ。
「あー、違うか。それで大学選んだ訳じゃなくて、ね」
「違う違う、それはやばすぎ」
予想以上にアイのウケがよく、暫く笑いが収まらなかった。
「ま、いいや。織川君がまだ残ってくれて助かった。ボッチじゃちょっときついもんね」
「うん。……まさか二人とも切るとはね」
まだ会話が続くとは思っておらず、適当な言葉しか浮かばない。
「ね。別に、ちゃんと聞けば、全然面白い内容だと思うんだけどなぁ、私は」
僕の理解が追いつくより先に、カナベアイが次の言葉を発している。
「そ、そうだね……」
スタミナ切れだった。何とか言葉を返さないと、という義務感こそ働くものの、大した返しが浮かばない。
「織川君もそう思う? 純粋に内容が面白いって?」
反射的にうん、と返したい所ではあったが、それはあくまでも僕の感想になってしまう。それが果たして適切かどうか迷っているうち、チャイムが鳴り、それとほぼ同時に教授が入室してきた。
「また聞かせて」
アイはそうはにかみ、正面を向き直した。
***
監督の電話番号は既に共有されていたらしく、織川のスマホの電話帳にあったが、いざ掛けてみても、なかなか繋がらなかった。
大きく息を吐く。
小柴が言ったように、挫折をポジティブに捉えるという考え方も、確かにアリなのかもしれない。
だが……。
考えながら、図書館で取った座席へと戻る。授業が終わってから、練習が始まるまでの空き時間。特に決まった予定のないこの時間で、図書館へ行き一人の時間を過ごすというのが、もはや恒例になりつつあった。
対抗戦の本番まで、もう残り三日しかない。残された時間が、余りに足りない。
小柴だって、それを自分事のように理解しているはずだが――。
何かが足りない。岡崎や高木に励まされた時も含め、僕の得たい事がダイレクトに得られていない。
だが、それは考えてみればごく当然の事だ。
――僕は、身体の中身が実は他の人間なんです。
そんな事を言った所で、一笑に付されるだけだろう。誰も真面目に返してくれない。
だって、僕は他の人から見れば、織川和也なんだから。
…………。
ふと、以前天使から言われた事が脳裏に蘇った。
――あなたが、本当に、文字通り織川和也になったつもりになるのよ。
本当に、織川和也になったつもり。その言葉を、じっくりと考えた。