第二章④ 邪魔者
対抗戦のメンバーが発表され、チームのメンバーごとで練習をする機会も増えてきた。自ずと、小柴と接する機会も増える。同期だというのに、岡崎や高木らと距離を置いている。この機会で織川とは関わる機会が増えたものの、やはり一線を引いている印象が否めなかった。
カズ。織川の事を部内で唯一そう呼ぶ人間。ただ出身県が同じだけの同期には思えない。
そんな小柴と練習外で関わる機会があった。
『ナオ』
ある日の授業が終わり、これから練習へ向かおうと駐輪場に入ったタイミングだった。
「おう、なんだ、カズか」
声をかけた先に、小柴直文がいた。
一足先に駐輪場で自転車を出そうとしている様子だった。
「何だ、今日は一段と元気そうだな」
僕達は共に自転車を押して歩き、大学の敷地外へと向かう。
『そんな事はないよ』
「そうか。いいじゃねぇか、トモヤさんみたいで」
『そうだね』
「おう」
苦笑いしながら、小柴は視線を逸らした。
テンポのよい二人の会話に、僕は置いていかれる気分になった。
「この前のフィジカルの時のヤジ、あれ酷かったなぁ。でも、Bチームの連中の声なんて、何も気にする事はないぜ。ただ自分達が試合に出れないからって、俺らの足を引っ張りたくて仕方ないんだろ。……出すべき所で結果出せば、それでいいんじゃねぇかな。大学生にもなって」
『ナオもそういう事言うんだな、意外だった。ちっちゃい時のナオは、とにかく全力でやれってタイプだったじゃんか』
ああ、と突然小柴は歯切れの悪い返事をした。
少しの沈黙の後、小柴は言い直した。
「成長、なのかな。親父さんを否定する気はないけどよ。ある意味冷たいかもしれねぇな、やりたいようにやれよ、最後は自己責任だけどなって」
小柴はそこで言葉を切り、再び黙った。
『大学生のバスケね。ナオはすぐ順応できているみたいで、羨ましいよ』
「ああ、お前も勝負所だが、対抗戦、同じチームなんだし、一緒に頑張ろうぜ」
そこまで話した所で、丁度学校の敷地外へと出た。
当然二人して寮へ向かうかと思っていたが、小柴はあろう事は織川とは反対方向を向いた。
『病院に用事だっけ?』
気を遣ってか、少し声を潜めるようにして織川は言う。
「そう。でも、悪いのは俺じゃねぇぞ。見舞いだよ」
見舞い。身内に入院している人でもいるのだろうか。僕は内側でそんな事を考えた。
「そんな気まずそうにすんなよ。姪っ子だ。もう中学生だとよ。一番上の兄貴がこっちの方に住んでるのは前に言ったろ? それに、別に病気じゃねえよ」
例の無差別殺傷事件だよ、とだけ付け加え、小柴はそれ以上の詳細を話さなかった。
『もう、退院できそうなの?』
「ああ。もうそろそろ、リハビリに入れる。ま、カナはまだ全然ましな方だよ。どっちかって言うと、メンタルの方が……な。目の前で人が刺される所をたくさん見たからな」
それは可哀想に。見ず知らずの他人の出来事とはいえ、同情してしまう。
『分かった。それは、とにかくお大事に』
織川も、当然わかっているとでもいうように、小柴に言葉をかけた。
「おう、じゃ、俺は練習遅れて参加って事で言ってるから。また後でな」
小柴は手を振り、自転車を漕ぎ出した。
織川も手を振り返す。ほんの少しだけ、織川の口角が上がる感覚がした。
***
その日の最後の一コマで、いよいよチーム対抗の練習が始まった。今日はまずハーフコート形式で、ディフェンス側がボールを取ったら攻守交代、という形式だ。
僕のチームは、司令塔役、ポイントガードの小柴を中心に、原という下級生とフォワードを組む事になった。彼は、僕が初めて織川の身体に入った時、トイレに僕を呼びに来た、小柄な彼だった。チーム分けが発表されるや挨拶しに来るくらい、とても礼儀の良い奴だ。
「原と織川のツーマンを軸とした攻めかな。向こうはマンツーマンで来るから……」
小柴が早口でメンバーに指示を送っていく。彼の頭の回転は非常に速い。
「まずはこの作戦で! 全員、出せる力出してこうや」
あい! と全員で大きな声で全員が返事をする。
変に気負わせすぎる事なく、ポジティブにやる気を高めていく。小柴のやり方に、僕の士気も高められていく。
ハーフコートでの模擬試合が始まった。じゃんけんの結果、先にボールを得たのは織川や小柴のチームだった。
最初にボールを手にした小柴が、そのまま前陣へと切り込んでいく。
すかさず前に立ちはだかる敵役。周囲では目まぐるしいポジション取りが繰り広げられる。
右足を軸としたピボットで、小柴が後方にやってきた味方へとボールを回す。
僕もボールを視界の隅に入れながら、鎖の動きに任せてポジション取りを進める。
――!
その瞬間は、早速やってきた。途端に足が止まるのがわかった。織川の身体を縛り付けていた鎖の隙間に、何かが入り込んでくるのが感じる。足は地面に着いているというのに、何故だか身体が浮き上がるような妙な感覚に襲われる。
――来たな。
息を呑む。もう覚悟は決まっている。やるべき事をやるのみだ!
本当は思い出したくないが、無理矢理過去の出来事に思いを馳せる。
怒りの感情をエネルギーに、意識を鎖の重ね、そのまますぐに下へ。
確かに地に足が着く感覚が生まれた。邪魔者など知るものか。僕が織川の身体を動かせばそれでいいんだ。と心の中で呟き、僕は自らの意志で力を込め、駆ける。
ポジション取りなら、これまでの他の部員のプレーでも、大いに参考になる。マークの裏を付くと、タイミングよくパスが渡った。手応えのもと、スプリントをかける。
勢いのままにゴール下まで迫る。
――今に見ていやがれ。
何度もこの目で見てきた動き。それに倣えばよい。
そう思い、同じ動きを繰り返す。
膝の力を使って飛び、ボールを手から放つ。
ボールはリングに直撃し、あらぬ方向へと跳ねた。
すぐさまリバウンドの争いが繰り広げられ、制した相手チームへとボールが渡った。
「オッケーイ!」
大きな声がすぐ側で響いた。
くそっ。次こそ決めてやる。そこから攻め続けて、挽回だ。
ハーフコートの形式では、ディフェンス側にボールが渡った時点で、攻守が交代する。
それからも練習は続いていった。
常に気を張り、奴が現れる意識を向ける。
焦りは募る一方だった。僕自身が制御権を取る、という事自体は上手くいく。しかし、自分のプレーから得点に繋がる事がない。シュートは悉くゴールを阻まれ、パスすらまともに通せない。ゴールを躊躇っていると、あっという間に時間が経過し、交代となってしまう。
「カズ。ちょっと冷静になれ。勢いだけで突っ走りすぎだ。もっと全体を見ろ。冷静になれ」
インターバルの間に、小柴が真剣な面持ちで僕に話しかけてくる。
わかってはいる。ただ、僕が選手としてあまりに未熟すぎるのだ。周囲のレベルについていけていない。全体を見るなどという余裕がとてもできるものではない。
模擬試合が再開した。
邪魔者は、僕を嘲笑うかのごとく、オフェンスの度に現れ、僕の登場を促してくる。
当初は高まっていた意欲も、あまりに厳しい結果を前に、削がれていくのを実感する。気持ちが弱まっていた。他人への怒りの感情よりも、自分への惨めさが勝ってしまう。段々と鎖に接触する苦しさも増してくる。
――マズい。
苦しさのあまり、僕は力を失い、その場で倒れそうになった。
……だが、決して倒れない。鎖はすかさず織川和也の身体を制御し返す。
僕は苦しみと惨めさから、逃れる事ができないまま――。
あっという間に練習が終わった。
考えてみれば、至って当然の事だった。ただルールを知っているだけの素人が、いきなり大学スポーツの実戦の場に出た所で、使い物にならないのは、誰に教わるまでもなく、明らかな事だった。気持ちだけでどうにかなるほど甘い世界ではなかったのだ。
フィジカルの時に上手くいったのも、それが直接バスケの技術を必要とするものではなかったからだ。思い返せば、当たり前の事だった。
どうすればいいか考え、次の日も、さらに次の日も、練習に取り組み続けた。
僕が入り込んだ方が、よっぽどひどいじゃないか。自分を客観視しようと意識するまでもなく、誰の目にも明らかだった。頑張れば頑張るほど、その事実を再認識させられるだけだった。
――では、一体僕は何のためにここにいるのだ?
そんな事を考えるうちに、身体は勝手に動いてしまう。それまでの織川和也の日々と何ら変わる事なく、いつもの日々を、彼の内側で歩んでいく。
――僕がここにいる意味は、どこにある?
そう考えた途端、何事にも心が向かなくなった。
――ああ、またミスをした。
チーム内のボール回しの練習で、味方との連携が上手くいかず、パスを受ける事ができなかった。チームの勢いを止めてしまった。
「おい、足止めてんじゃねぇぞ」
厳しい叱責が飛んだ。その声は安藤か、小柴か、いや、誰だ。
そこで我に返った。僕は無意識のうちに、自らを傷つけようと鎖に入り込んでいた。
――こんなの、僕がいない方がよっぽどマシなんじゃないか。
感情を失った無の時間が、果てしなく長く続くように思われた。
生き地獄も同然だ。