鬼儺
立春の前夜。星の輝く空から、冴え冴えとした月光が降り注いでいる。家々の温かな光に、吐き出した息は白く溶けた。
パラパラと軽やかな音と共に撒かれる福豆。今日は、鬼やらいの夜。
玄関先の柊鰯が魔を寄せつけず、芽吹きの象徴たる福豆は内の厄を祓う。また豆は魔滅とも書き、その生命力には強い退魔の力がある。
通り過ぎる家の庭でまた、小さな鬼が豆を投げつけられて消え去った。
鬼と一口に言っても様々だが、今日の鬼やらいで追いたてられるのは隠。すなわち人の目に視えず、疫病と災厄を振り撒き人に害を為し、鬼門から来るモノ。現代の科学とやらでは、ウイルスと呼ばれているらしい。
かの時代から時は流れ、もう夜は完全な闇ではない。眩い灯りが煌々と夜を照らすが、その光によってできた深い闇の中には、今でも人に害を為すモノたちが潜んでいる。
豆撒きによって追い出されたモノだろう、醜悪な姿の鬼が細い路地が作り出す闇の中にいた。
「……失せよ、悪しきモノ共」
黄金色の目をした鬼の面を着け、手に馴染んだ槍を構える。柄の部分が桃の木で作られた、退魔の武器だ。桃もまた、魔除けの力を持つ。
耳障りな声を残して、悪鬼は祓われた。時代こそ変われど、こういったモノが存在し続ける以上、鬼やらいという行事も残り続ける。
「ひっ、鬼……!?」
背後から驚きと恐怖の声。鬼退治の一部始終を見ていたのだろう通行人が、腰を抜かして雪道に座り込んでいた。
振り返ると通行人と目が合う。金の四つ目が宵闇に輝くのは、面をしていても隠せない。
「ば、化け物……っ!」
小さな袋に包装された豆を投げつけられる。ぱさ、と乾いた音をたてて福豆が雪の上に落ちた。
豆から庇った腕を下ろす時には、通行人が暗い夜道を逃げていく後ろ姿だけが見えた。
「化け物、か」
化け物と呼ばれるようになったのは、いつ頃からだっただろう。金の四つ目をした異形の姿。他の妖怪は持ち得ない、異質な強い退魔の力。
かつての節分、一年の厄を祓う重要な日には追儺の儀式で鬼を追い払う役目を担っていた。人々にも頼りにされ、感謝されたこともあった。
徐々に、この姿と退魔の力が恐れられた。時代が下がるにつれ、人々に追いたてられるようになる頃には鬼に堕ちていた。
今や、方相氏の名を知る者は少ない。
それでもこうして鬼を祓っているのはきっと、もうこれしか存在意義がないと知っているからだ。
行く当てもない白い吐息が、また夜に消えた。