余命告知シミュレーション
「あー、いやだなぁ……」
白衣を着た青年医師が頭を抱えてため息をついた。机のディスプレイには女性患者のカルテが表示されている。
「どうかされたんですか?」
若い看護師の細川栞が訊ねる。
「なんで僕が高橋さんに余命告知をしなきゃならないんだろ。こういうのって主治医がするべきだよね」
「先生は主治医じゃないですか」
「僕は緩和ケア医だよ。癌の診断をして手術を執刀した医者か、抗がん剤治療をした腫瘍内科の医者が伝えるべきだよ。手の施しようのなくなった患者を緩和ケアに丸投げして、余命告知もしろなんてひどすぎるよ」
西野圭太は苦々しい目をディスプレイの電子カルテに向けた。
高橋瑤子(67歳)――三年前に胃がんが発覚。手術をしたが一年前に腹膜に転移。抗がん剤でも改善の余地がなく、一ヶ月ほど前、圭太が働く病院に紹介状を持って転院してきた。
(ようはもう打つ手がなくなって、ウチに押しつけたんじゃないか……)
今日の午後、患者本人が来院する。その場で抗がん剤治療の打ち切りを勧め、余命告知をしなければならない。
「でも先生、患者さんに告知をするのは別に初めてってわけじゃないんでしょ?」
「いや、初めて……」
「マジですか?」
栞に素で言われ、圭太は顔をしかめる。
緩和ケア医になって日が浅かったことに加え、これまでは手術を受け持った病院の主治医が余命告知をしてたので出番がなかったのだ。
「あー、憂鬱だなー、やりたくないなー」
机の上に肘をつき、頭を抱えこむ。
「しっかりしてください。先生が言わなきゃ誰が言うんです」
「わかってるけど……高橋さんって寡黙っていうか、なんか気難しそうな人じゃない? いつも〝はい〟とか〝いいえ〟とか、必要最低限のことしか言わないし……」
「たしかに……」
いつも隙のない服装で、診察時も背筋がぴしっと伸び、なんというか昔の〝武士の妻〟のような古風な女性だった。お茶とか着付けの師範なのではないかと、みなで噂をしていたが真偽はわからない。
圭太がボヤくように続ける。
「同期の腫瘍内科の医者なんだけど、余命を告知したら患者さんに掴みかかられて殴られそうになったって……僕、暴力とかすごく苦手なんだよね」
栞が「わかりました」と言った
「私が高橋さんの役をやりますから、先生、私とシミュレーションをやってみましょう」
「シミュレーション?」
「余命告知の予行演習です。練習しておけば気構えができるでしょう?」
圭太は少し首をひねった後、なるほど、とうなずいた。
「わかった。やってみるよ」
慣れない余命告知の事前練習ができるのは助かった。栞は経験不足の青年医師を気の毒に思ってくれたのだろう。
「じゃあ、患者さんが診察室に入って来るところから始めますね」
栞が「ガラガラ」とコントのようにドアを開ける音を声に出し、患者が部屋に入ってきた風を装う。
どうぞ、と圭太は診察用の椅子をすすめ、ディスプレイを見ながら言った。
「えー、さっそくですけど高橋さんの余命は――」
ストップ、と栞が手で止めた。
「いきなり? とりあえず時候の話題とかから入った方がいいんじゃないですか」
「僕、そういうの苦手なんだよね……」
「なんでもいいんですよ。当たり障りのない話題なら。あと、パソコンのディスプレイを見るはやめましょう。患者さんの顔を見て話してください」
「人の目を見ながら話すのは、なんか気まずいっていうか……」
圭太はもともと繊細な性格だった。つい相手の心情を慮ってしまい、発言を控えたり、持って回った言い方をしてしまう。
栞が困ったように新米医師を見つめた。
「先生、なんで緩和ケア医になったんです?」
「緩和ケアって治療の選択肢が限られてるだろ。手術に失敗して責められたり、医療過誤で訴えられることもないし……」
「でも重病で末期の人が来るところでもありますよね」
「告知を受けた人が来るとこだと思ってたから……」
青年医師は遠慮がちに続ける。
「スマホで伝えるとかダメかな? あなたの余命はあと五ヶ月ですって」
「どんなスタンプつけるつもりですか」
栞が怒りを押し殺した声で睨み付ける。
「わかったよ。そんなに怒らないでよ」
はぁ、とため息をついて圭太がボヤいた。
「そもそも余命告知ってなんでしなきゃならないんだろ」
「患者さんへのアンケートでは76%近くの人が余命告知を望んでいるというデータが出ています。それに告知をしないと、患者さんは抗がん剤治療を続けるので、身体がボロボロになって亡くなる方も多いんです。ご存知ですよね?」
「そりゃ知ってるけどさ……」
本人のためにこれ以上の無駄な治療を止めさせるのが「余命告知」なのだ。
「で、実際に高橋さんの余命は先生の見立てではどれくらいなんですか?」
「五ヶ月ってところかな。まあ、うまくいけば半年ぐらいはいけるかもしれないけど」
転移の状況を考えれば、もって来年の春までという感じだ。今は普通に生活をできているが、これから急速に体調の悪化が進むだろう。
「具体的な日数で言うより別の表現で伝えたらどうです? たとえば来年の桜を見るのは難しいかもしれません、とか。婉曲的にというか、文学的に表現するんです」
「文学的か……」
医師の圭太は理系だ。数学や化学は得意だが国語は大の苦手だった。趣味は天体観測で、小説のたぐいも読まない。
「シミュレーションです。とりあえず言ってみてくださいよ」
わかったよ、と圭太は言い、役者のように重々しい顔を作った。
「そうですね……鷹羽さんが来年の〝こと座流星群〟を見るのは厳しいかもしれませんね」
栞が眉根を寄せ、微妙な顔をする。
「こと座流星群ってなんですか? もうちょっと身近な話題はないんですか?」
じゃあ、と圭太は言い直した。
「来年のヤマギシ春の大パン祭りを迎えるのは難しいかもしれませんね」
「なんで大パン祭りなんですか?」
「好きなんだよ、ヤマギシの菓子パン。大パン祭でもらえるお皿を子供のときからずっと集めてるんだ」
腕を組んで押し黙る栞に、圭太は教師に見放された生徒のような気持ちになり、食い下がった。
「あえて告知をしなくてもいい気がするんだよね。きっと高橋さんもわかってるよ。あうんの呼吸っていうのかな。日本人ってそういうの得意じゃないか」
「根拠は?」
「今日は旦那さんにも一緒に来てほしいって伝えてあるんだ。家族も呼ばれてるんだから、本人も薄々気づいてるよ」
「でも、良い方に考える人もいますよ。医師が余命を言わないんだから、自分は大丈夫なんだろうって」
「そりゃそうなんだけどさ……やっぱり本人を目の前にして、あなたの余命は五ヶ月ですって言うのはプレッシャーだよ」
うーん、と栞が目を閉じた。やがて、そうだ、と手を叩く。
「カプランマイヤーの生存曲線を使ったらどうですか?」
カプランマイヤーの生存曲線とは、たとえば同じ病状の人が100人いるとして、半年後に生きている人は46人です、と平均値で伝える手法である。
「なるほど。こんな感じかな。高橋さん、あなたと似た方の病状の場合、これまでの統計では、五ヶ月後に存命されている確率は34%です」
「いいんじゃないですか」
栞が合格点を出すようにうなずく。
「あくまで伝えるのは平均値です。余命五ヶ月と言っても、そりゃ中には三ヶ月で亡くなる人もいるんでしょうけど、逆に言えば一年後に生きている方もいるわけですから」
ようやく圭太の顔に明るい色がさした。
「よし、この方向でいこう」
喜ぶ青年医師に、栞が念を押すように言い足した。
「先生、もうひとつ大事なことがあります。絶対にあなたを見捨てない、最後まで私はあなたに寄り添うと伝えてください。患者さんは見捨てられたと思いますから」
「うん、わかった。ありがとう」
こうして余命告知シミュレーションは無事に終わり、あとは患者を待つだけになった。準備は万全だと思っていたのだが……。
◇
午後、予約していた診察時間になり、高橋瑤子が病院にやって来た。一人だった。旦那さんと一緒に来るかと思ったが、都合がつかなかったようだ。
「申し訳ありません……夫は急な仕事が入りまして、私が一人で参りました」
高橋さんが静かに言った。当初のプランは早くも狂ったわけだが、圭太は動揺を隠して笑顔を作った。
「体調の方はどうですか?」
「変わりないですね」
「ただ、これから辛くなってくると思います。今日は高橋さんの今後のことについてお話させていただけないでしょうか」
圭太が顔を引き締める。ここからが勝負だった。
「私がこの先どれくらい生きられるか、という話でしょうか」
いきなり相手から張り手をかまされ、圭太は声を失った。後ろに立っている栞に椅子をガツンと蹴られ、はっと我に返る。
「ええ、そうです……高橋さんの現在の病状からすると……」
圭太はそこで言葉を切った。
(本当に言っていいのか? 錯乱して掴みかかられたりしたらどうしよう……高橋さんみたいにふだん冷静な人ほど、いざとなると取り乱すかもしれないし……)
栞との予行演習での、人生のイベントを使って余命を婉曲的に伝える話を思い出した。
「その……高橋さんはこれからしたいことはありますか?」
「そうですね……お琴を習ってるんですけど、来年、発表会があるので、それに出たいという気持ちがあります」
「発表会はいつ頃ですか?」
「来年の6月です」
圭太が難しい顔で唇を引き結ぶ。
(6月は厳しい……もって5月……それもあくまで生きているという話で、外を出歩いたり、琴を弾いたりするのは……)
追い打ちをかけるように、患者の方から訊ねてきた。
「先生、具体的に私はあとどのくらい生きられるんでしょうか?」
まっすぐ見つめられ、圭太は息を呑んだ。のらりくらりと逃げ回っていたボクサーがみぞおちに強烈なボディブローを喰らった気分だ。
「その……高橋さんの癌は腹膜に転移し、抗がん剤治療も効果が出ていません……それで……現在は緩和的な措置で痛みを抑えられていますが、今後は身体を動かすこともままならなくなるかと思います……」
「つまり?」
いいかげんなことを言ったら許さないぞ、というすごい目力だ。圭太はうつろな視線を彷徨わせ、乾いたまぶたを盛んに開閉する。
「すいません。ちょっとあの……おトイレに……」
看護師の栞のあ然とする視線を感じながらそそくさと診察室を出る。病院の廊下を小走りに駆け、トイレの個室に飛び込んだ。
(だめだ……僕には余命告知なんてできないよ……)
個室の壁に両手をあて、顔をうつむかせる。
(緩和ケア医になんてならなければよかった……眼科とか耳鼻科にしておけば……)
患者の命に責任を負わされるのがプレッシャーだった。この場から逃げ出したかった(逃げ出したけど)。
白衣のポケットでスマホが振動している。看護師の栞からだろう。しばらく瞼を閉じてじっとした後、圭太はトイレの個室を出て診察室に戻っていく。
栞が話を繋いでくれていたらしく、圭太が姿を現すと二人が会話を止めた。
「失礼しました」
咳払いをして圭太は椅子に座り直し、重い口を開いた。
「高橋さんの余命ですが……正直、私では診断が難しいです。大学病院の栗山先生にお話しておきますので、先生に直接、聞いていただけないでしょうか」
栗山教授は大学病院で彼女を最初に受け持った医師だ。三年前、彼女の胃がん手術も執刀している。
トイレで悩んだ末に圭太が出した結論――それは告知を別の医師に丸投げすることだった。申し訳ないとは思うが、自分には責任が重すぎる。
高橋さんは黙って聞いた後、きっぱりと言った。
「先生から聞かせてください」
「ですからそれは――」
声に少し苛立ちをにじませると、高橋さんがキッと睨み付ける。
「私の主治医は西野先生、あなたなんですよ。逃げるんじゃありません。あなたが告知をしなさい」
毅然とした口調に圭太は圧倒された。看護師の栞も息を呑み、診察室に緊張した空気が落ちる。
「は、はい……わかりました」
青年医師はパソコンのディスプレイに向けかけた視線を止め、目の前の患者を見返した。
「……高橋さん、あなたの余命は五ヶ月ぐらいだと予想しています。ただ、これはあくまで予測です。これまでの統計では、高橋さんと同じ病状の場合、五ヶ月後に存命されている方は34%です」
ただし、もっと早く亡くなる方もいれば、一年後も生きている方もいます、と付け加える。いずれにせよ、今後のQOL(生活の質)を考えれば、抗がん剤治療は止めた方がいいと伝えた。
「……わかりました」
圭太の説明に耳を傾けた後、彼女は静かにうなずいた。
「先生のおっしゃるように抗がん剤治療は止めて、残された時間を有意義に使いたいと思います。今後もよろしくお願いします」
そう言って椅子に座ったままお辞儀をした。美しい所作だった。
「主治医として最善を尽くします」
圭太は目を逸らさずに応えた。
◇
それから五ヶ月後、彼女は旅立っていった。最後は自宅で、旦那さんや子供たちに見守られ、眠るように安らかに逝ったという。
「高橋さん、看護師だったんだね」
診察室の椅子に座りながら、圭太は手の中の手紙を見た。高橋さんの夫から送られてきた封書で、家族からの感謝が綴られていた。
高橋瑤子は大学病院で婦長まで務めたベテラン看護師だったという。どうりで肝が据わっているというか、余命を告げられても落ち着いていたはずだ。
「私は教えてもらいましたよ。四十年近く看護師をやってたって。ほら、先生が告知が怖くてトイレに逃げたとき――」
診察室で二人きりになったとき、高橋さんが自らのキャリアを明かしたという。
「……他に何か言ってた?」
「患者を生かすのが医者の仕事なら、患者を死なせるのも医者の仕事だって。人生は上り坂だけじゃない。下り坂を一緒に歩いてくれる人が必要なんだそうです」
命を助けるだけが医師の役割ではないと意味だろうか。まだ経験の浅い圭太にはわからなかった。長い時間をかけてこれから答えを見つける問いのような気がする。
「先生、どうします? また明日、告知をしなければならない患者さんが来ますけど、予行演習をしますか?」
少し沈黙した後、圭太は、いや、と首を振った。
「大丈夫。ちゃんと一人で伝えられるよ」
もうトイレに逃げ込んで泣いたりしない。患者の人生に責任を持ち、最後まで最善の治療をしてみせる。緩和ケア医は、人生の下り坂を伴走するパートナーなのだから。
(完)




