両親の安否
実家の戸を叩いてしばらくすると、"はーいー"という懐かしさすら感じる母の間延びした声が聞こえてくる。
先ほどまで感じていた不安など他所に、ラクは思わず小さく笑った。
扉を開けて出迎えた母に、笑みを浮かべながらラクはにこやかに息子の帰郷を報せた。
「ただいま、母さん。」
「…ただいま?…もしかして、ラク!?」
思わぬ来訪者に一瞬固まりつつ、ラクの顔に気づいた母サンゴは驚きのあまり大きな声を上げる。
無理もない。
8年前に上京して、そのまま仕事に就いて以来一度も帰っていなかったのだ。
そこに前もって連絡もなしに帰ったとあらば、驚きの感情以外わいてこないだろう。
それでもラクの帰郷を喜んでくれたのか、徐々にその顔は笑顔になっていく。
「おかえりなさい、ラク。騎士団の仕事はいいの?」
「いろいろあってね。そのへんは親父も交えて話すよ。」
積もる話はあれど、ひとまず中に入ろうと玄関の戸を閉める。
「親父は?港のほうが静かだったけど、もう帰ってる?」
「お父さんなら寝室にいるわ。声かけてあげて。」
寝室という言葉にラクはさらなる嫌な予感を感じた。
いくら漁師の仕事が日が昇る前の早朝からだといっても、まだ午前中の今では寝るには早すぎる。
とりあえず無事を確認するために、母親と共に寝室に向かった。
「あなた、ラクが帰ってきたわよ。」
「ただいま、親父。」
寝室に入るとベッドの上で似合わない眼鏡をかけて手紙を読んでいた父カイの姿が目に入る。
それだけならばなんということもない。
ただ記憶にある姿より白髪が混じって老けたかな、という感想しか出てこなかったろう。
しかし現実はもう少し厳しく、カイの頭や腕には包帯がまかれて血がにじんでいた。
さらにベッドの横には松葉杖が置いてあり、歩くのも困難なほど負傷していることが予想される。
港が近づくにつれて感じ始めていた嫌な予感が正体を現したようで、ラクは小さくため息をついた。
対してカイのほうは自分の体のことは気にせず、8年ぶりとなる息子の帰郷を喜ぶ。
「おう!ラク、よく帰ったな。元気そうじゃねぇか。」
「親父のほうは元気といいがたい姿だけど。」
「まぁな…。だが今回は命があっただけマシだろうよ。」
物騒なことを言いながら笑ったカイは、傷に響いたのかわき腹を抑えながら小さく呻く。
ラクは起こしていたカイの身体を支えつつ、ゆっくりと横にしてやる。
父を寝かせながらラクは静かに包帯の下にある傷の様子を探った。
通常であれば包帯を外さなければ傷の状態を見ることなどできはしない。
しかし、外傷や病気の治療を可能にする法術の使い手であるラクにかかればそう難度の高いことではない。
傷はどれも軽く肉が抉れた、または削られたような跡をしていた。
カイの漁師という仕事の特性上、多少のけがや生傷なんてものは日常茶飯事といっても仕方ないものである。
時には事故ともいうべきものが原因で大けがをすることもあるだろう。
しかし、単なる打撲や切り傷とは違う傷跡にラクはふつうの事故とは異なるものを感じていた。
「ずいぶんひどいけがだ。師匠は?」
「アズマ先生ならもうすぐいらっしゃるころよ。」
ラクが師匠と呼ぶ人間は一人しかいない。
両親の友人であり、ラクにとっては薬学と基礎法術の師匠であるアズマという人物だ。
ラクが子供のころから近隣にとってはかかりつけの薬師だった。
サンゴ曰く事件があった日から毎日薬を届け、包帯の処置をしに来てくれているらしい。
そんな話をしていると、玄関から控えめに戸を叩く音が聞こえてきた。
噂をすればなんとやら、の言葉通りタイミングよくアズマ先生が来てくれたのだろう。
母が出迎えに行ってしばらくすると、ラクにとって懐かしい声が聞こえてくる。
「いつもすいません、先生。」
「いえいえ、カイ殿の無事はこの港にとって重要事項の一つですからな。では、失礼して。」
荷物のせいか少し大きめな足音が響くと、ラクたちのいる寝室の扉からひょろりとした男が顔をのぞかせた。
気持ち頭が薄くなったかな。
そんな失礼なことを考えながら、ラクは男に向かって頭を下げた。
「アズマ師匠、ご無沙汰しております。」
静かに一礼してからラクは自分の名を告げると、一拍遅れてアズマの表情は驚きに染まった。
「ラク君か!いや立派になったね。帰ってきてたのかい。」
「はい、つい先ほど。」
そういいながらアズマは部屋に入り、ラクの成長を確認するようにまじまじと眺めた。
ラクは自分が座っていた椅子を差し出し父の前を譲ろうとする。
しかしアズマは首を振ってその申し出を断った。
「お父さんから話はかねがね。魔法騎士団に入ったんだってね。」
魔法騎士団は王都に存在る王家直属の軍隊である。
ひねりも面白みもない名称だが、その実力は疑う余地もない国内最強戦力である。
4つの師団から構成される魔法騎士団は、王都に存在する養成所の卒業生のみ入団の資格を得られる。
ラクは8年前に法術の習得を目指して上京し、養成所を経て入団した人間の一人だった。
とはいえ現在ではその称号も"元"という言葉を付けなければいけない身分になってしまったのだが。
「詳しい話はまた後ほど。それより親父の傷の原因を聞いても?」
まだ両親にすら打ち明けていない、かつ非常に話しづらい話題を強引にそらしつつ、帰ったばかりでまだ確証も得ていない父親の事情に話題を転換した。
「そうか、まだ聞いてなかったんだね。お父さんたちは魔獣に襲われたんだよ、2日前に話だ。」
どうやら父をはじめとした漁師たちは海上で鑢鮫に遭遇したらしい。
鑢鮫はオオカミのように3~5匹の小さな群れで襲ってくる魔獣の一種である。
普通の鮫肌をさらに強力にしたような皮を持っており、その威力は岩礁を削るほどであることからその名を冠している。
自分よりも大型の獲物でも体当たりで体力を削り、食い荒らす凶暴さを持ち合わせている。
海上で出会おうものなら船底に穴をあけられて、沈没と共に瞬く間にえさにされるだろう。
そんな鑢鮫に遭遇して生き残ったというのだから、不幸中の幸いというほかなかった。
「なるほど。では負傷者はほかにもいるんですね。」
「あぁ、おかげでここしばらく大忙しだよ。」
死傷者が出なかっただけマシだけどね、と疲れた表情で笑うアズマの言葉にラクは驚いた。
ハンターですら相性によっては死ぬことも珍しくない。
そんな魔獣を相手に全員生還するなどできすぎといってもよい結果だった。
「君のお父さんのおかげだよ。判断力はもちろん腕っぷしもハンターに劣らないんじゃないかな。」
「いや、俺なんて大した事ねえさ。本当の功労者はジンの旦那だよ。」
ジンはラクの祖父の代から漁師たちの護衛を務めてくれているハンターだ。
海は陸地に比べて魔力が一ヵ所にたまりにくく、魔獣が発生しにくい。
特に漁業も含めて人間の生活圏内で出会うことは年間に片手で数えるしかない。
しかし、頻度は少なくとも出会った時の危険度は陸地の魔獣の比にならない。
水の中では人間など魔力を豊富に蓄えた旨いエサでしかないのだ。
その危険から長年生き残り続け、守り続けてくれているもはや伝説に近い戦士だった。
「旦那のおかげで俺らは命を拾ったが、今回ばかりは再起不能かもしれんな。」
カイ曰く、今回の鑢鮫の襲撃でジンは相当の傷を負ったらしい。
無理もない。
ラクの記憶が正しければとうに60歳を超えた古強者である。
むしろ漁師たちを一人も死なず、自らもまた生還したというのだから常識外れと言いたくなるほどだ。
「とはいえ、皆傷は浅くないからね。まだ油断はできない状況だ。」
「確かにこれだけ被害が大きいと、師匠をもってしても即完治とはいきませんか。」
即完治という言葉を聞いてアズマは思わず苦笑いを浮かべた。
「私の本職は薬師だからね。法術はお遊びレベルさ。でも、君なら違うだろう?」
アズマは一呼吸置くと、改めてラクに向き直った。
「魔法騎士団に入団した君ほどの実力者なら、お父さんたちの傷を癒すこともできるんじゃないかい?」
アズマは期待にも挑発にも見えるような瞳でラクに問いかけた。
先ほど椅子に座るのを断ったのはこのためだったらしい。
ラクに治療を譲ろうとしたからだと今更ながら気づく。
もとよりそのつもりではあったラクは肩をすくめながら二つ返事で了承した。
「わかりました。それではこの8年分の修行の成果を師匠にお披露目と行きましょうか。」
「期待しているよ。」
アズマはさっそくラクが治療に取り掛かれるようカイの包帯を外しにかかる。
しかし、ラクはそんなアズマの動きとは裏腹に席を立って玄関に向かう。
思わずカイがラクを呼び止めた。
「おいラク、お前どこ行くんだよ。」
「どこって治療だよ。師匠も親父も、もたもたしてないで患者のとこに案内してくれないと。」
さも当然だとでもいうようにラクは外を指差す。
目の前の患者を後回しにしようとするラクにアズマは慌てて止めにかかった。
「いやいや、ラク君。まずはお父さんの治療をしてあげてよ。」
「いくら身内だからって後回しはひでぇだろうがよ。」
アズマとカイがラクの態度に抗議する。
しかし、次のラクの言葉で二人の頭は真っ白になってしまった。
「親父の傷はもう治したよ。」
してやったり、そんな表情でラクは寝室を後にする。
しばらくして部屋から母を含めた3人の悲鳴に近い驚きの声が上がった。