帰郷
なつかしいにおいだ。
黒目黒髪の青年、ラクは渡し舟の心地よい揺れでまどろみながら風に乗ってきた潮の香りに鼻を引くつかせた。
季節は春の終わり、日差しの下を歩けば少し汗ばむほど暑さが顔をのぞかせたころ。
青年ははるばる王都から街や村を渡り歩いて、故郷である辺境の街フトゥを目指していた。
肌は日に焼けにくいのかやや色白で遠目には線の細い体つきだが、よく見ると程よくしまった筋肉質な体をしている。
とはいえ、ひと月ばかりの歩き旅は多少なりとも青年の体力を削り、その疲労が程よい眠気をもたらしていた。
渡し舟の船頭も青年のような客には慣れたもので静かに舟をこぎ進める。
日の出とともに辺境伯領を出て、小一時間ほど下流に向かって進んだ舟は漁業を中心に栄えた港町キソにたどり着いた。
岸につく少し前に起こされたラクは、渡し舟の揺れをものともせずに岸に降り立つ。
客の中には舟の揺れに慌てて、船頭の手を借りながら降りる者も少なくない。
ラクの様子に少し驚いた様子で船頭は声をかけた。
「揺れても体がぶれないお客さんは初めてだ。船乗りかい?」
「いや、実家が漁師で少し乗りなれてただけですよ。」
実家が漁師と聞いて船頭は納得したらしい。
特に気にせず料金を受け取ると、またどうぞと声をかけてラクを見送る。
嘘はついていないものの、重心が安定した体運びは元軍属によるところが大きい。
元とはいえ変に軍人だとかぎつけられると、辺境では余計なうわさが流れて怖がられる可能性もある。
騒ぎの種を未然に防げたラクは内心ホッとしながら街の門へと向かった。
まだ早い時間帯かつ朝一に街を出る人間の対応がちょうど終わったあたりだったのか、予想より手早く街には入れたラクは気分よく鼻歌交じりに街を歩く。
門を入ってすぐの場所は朝市が開かれているらしく、屋台が並んでいた。
行商人の中には街に入ってそのまま荷物を広げて、屋台に仲間入りしているような者もいた。
故郷を前に浮足立ったラクは朝食も食べずに前の都市を出てきたため、屋台からくる香ばしい香りに腹の虫が限界とばかりに大きく鳴く。
「朝飯食わずに出てきたから、さすがに腹減ったな…。せっかく帰ったんだし、魚介の串焼きでも買ってくか」
ラクは屋台をいくつか回って買い物をすると、それらを食べ歩きながら実家のある港のほうへと歩を進める。
目的の魚介の串焼きは見つからなかったため、焼き鳥と干し果物をつまみながらラクはなつかしい街並みを歩く。
朝市から離れるほどに住宅街になっていくため、だんだんと喧騒が鳴りやんでいく。
今思うとこの時からかすかに違和感を感じていたようにも思う。
「いやに静かだな。」
家のある港のほうへ近づくほど、漁師をはじめとした漁業関係者たちの声で騒がしくなると思っていたのである。
しかし予想を裏切って、家のあと一歩手前まで来てもあたりは静かなままだった。
記憶にある街の様子と雰囲気が違うことにラクはなんとなく嫌な予感を感じた。
ひとまず両親の無事を確認したくなったラクは、8年ぶりに我が家の戸を叩いた。