天使の名簿
「やめてっ!」
純白の翼を持つ女天使は金色の髪を揺らして悲痛に叫んだ。
彼女の眼前で神は黄金に輝く雷の槍を地上に落とそうとしていた。
人間の男、彼女の愛する男めがけて。
だが神の腕は寸前で止まった。天使を見つめ溜め息をつく。
「人間との恋愛は許されない。ああ、オマエを地上に降ろさなければよかった」
◆
それは3ヶ月前、人間の善悪を見極める判定のため天使が地上に降りたときのこと。
突風に煽られてバランスを崩し、森の枝木に翼をひっかけて怪我をした。
治癒能力に長け痛みはすぐに取れても、骨折した翼はそうもいかない。
助けてくれたのが人間の若い男だった。
彼は天使の存在を誰にも口外せず、傷が癒えるまでの2週間優しく介抱してくれた。
若いふたり。恋は早かった。
ふたりは互いを慈しみ愛を育てた。報われないとわかっていても、愛は膨らみ大きくなった。
「オレには迎えに行く翼がない。すまない」
別れの日に男はそう口にした。天使はその言葉だけで十分と、涙して純白の翼を空へ羽ばたかせた。
◆
やがて密かに始まる逢瀬。だが度々地上へ降りる行為が疑惑を生んだ。
数度目の帰宅後の今日、とうとう神に理由を知られてしまったのだ。
「神様、人間は悪ばかりではありません。どうかご慈悲を!私と彼を一緒にさせて下さい」
必死の懇願。それを見返す神の視線は猜疑に満ちていた。
「眼下に雲海を臨み、雨に打たれることもなく風を友とし生きる。それを失くしてもよいと?」
「構いません」
「戦争や殺人、疫病が横行する地上での暮らしを望むと?」
「はい」
揺るぎない意思の、力強い返事だった。神は先ほどよりも大きな吐息を漏らした。
優秀な天使であった。神は彼女に期待していた。将来の天使長候補にと考えていたほどだった。それなのに……。
このような異端者を置いては神殿内の規律・秩序を乱しかねない。
神は顎を撫でながら思案にふけた。そして決断した。
可愛がってきた娘のような存在だ。情けがある。神殿からの追放を静かに命じた。
天使は目を見開いた。収監も覚悟していた身だった。
神の真意を理解し、深く深く頭を下げて広間を後にしたのだった。
「甘かったな……」
天使がその声を聞くことはなく、神は口元を歪ませて自身を嘲笑った。
◆
生まれ育った天上に未練も何もありはしない。天使が向かう先はただひとつ。
降り立った地には血の赤に染まった二枚の翼が無造作に捨てられていた。苦痛に歪む顔。
けれどすぐに治る肉体的な痛みなんて、翼をなくした精神的な痛みに比べたら些細なこと。
それは自らの決断。彼女の覚悟。誰を恨むことも後悔もない。
そして愛する男のもとへ駆けつけた。
驚く彼の胸に勢いよく飛び込んだ。しっかりと抱き止めてくれた腕が嬉しかった。
翼がない?
視界にも、背中に回した手の感触からもそれは見受けられない。
再び驚く男をよそに、すがるような眼差しで彼女は愛しい人を見上げた。
「天使ではない、ひとりの女として愛してくれますか?」
返答はなく彼女の唇は男のそれに力強く塞がれた。
それは翼より愛を選んだ決意への男なりの敬意。そして告白への答えだった。
腕の中に包まれながら金の髪を優しく撫でられ、天使は瞼を閉じて彼の愛を全身で感じ取っていた。
◆
天使であることを自ら絶った彼女はただの人間となり地上に消えた。
同日、天上界の書庫に保管されている名簿から、ひとりの天使の名が静かに消えたのだった。
Fin.
Thank You!