歴史が証明しているもの
自然科学には、1つの問いに対して1つの解つまり複数の答えを出さない。公式、真理を重視する学問的追求の姿勢が見られるが、例えば、それが自然科学分野が及ばない分野、人文科学分野(文学、歴史学、語学)、社会科学分野(法律学、政治学、社会学)等の他分野に問題解決のフィードが及んだ場合、自然科学は自然科学の問題解決の姿勢を貫いて良いものか、答えは「否」である。
例えば、文学は一語読み違えればその文学作品は全く別の読み物になることはよく知られているし、法律は学説、通説、判例といくつかの法律に対する判断がある。
しかし、と裕太は思う。光は地球で(現時点で)一番速く進むということは疑いようもないことだろう。
ところが、文学部の時生などは、色々創意工夫をすれば様々な光より速い進み進み方を考案できるという。
例えば跳躍航方。ワープなどで名高いこの方法、距離を平面上の2点で図るのではなくて、一点と任意に取るもう一点を直接結びつけることで、移動にかかる時間と距離を事実上ゼロにするというものである。
裕太も、小説やNスペ等で知ってはいたが、仲間内でそういう詳しい噺が身近で出ると、うーんと唸ってしまうのであった。
科学が猛烈な勢いで進歩するのはそれはそれで素晴らしく頼りになることではある。しかし、何時の時代も革新的な技術の進歩は世の人の過剰な競争心をかきたてて、かえって不和や争いの元を生み深刻な社会の歪みを生むことが多かったということは歴史が証明している。第一次産業革命はイギリスに多大な富をもたらしたが、著しい貧富の格差を産み、貧しい者は貧しい者として劣悪な状況で働かなければならなかった。この状況は1802年の徒弟法の成立まで続いた。
現代のワーキング・プアーの人たちとどこが違うだろうか?インターネットの興隆により、パソコンの技術習得が遅れたばかりに職にあぶれ、ろくすっぽな行政のセーフティネットもないまま、都市をさ迷う人たちがいる。弱い人達、確かな年収もない人達に暖かな支援を差しのべる必要がありはしないか。全ての善意を彼らに。