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ロンペリ博士の紙飛行機

作者: 前岡光明

            プロローグ 


 そうです。あれがチンベル山です。

 この深い谷間から見上げると、首筋が痛くなります。

 あの平らな山頂の雪は、夏でも少し残ってます。

 夏の朝、あの峰の肩の小屋から眺めると、東向きの、この谷の上に雲海が広がるそうです。

 そして、お日さんがあの山の高さを越す頃に、この谷間の霧が晴れます。

 毎朝、濃い霧が立ち込めるこの谷には、人々に交じって妖精が暮らしています。

 ええ、村の多くの人がそう言いますし、私も小さい頃から信じています。


 このお話は、この谷で起きたことです。

 村役場に行けば、「ロンペリ博士の奇跡の紙飛行機」の実物を見ることができます。それは、来賓室のショーケースに、さらにガラスケースに納めて、飾られています。

 この村出身の高名な植物学者ロンペリ博士がまだ若い頃、チンベル山で何日も行方が分からなかったことがありました。捜索隊が出ましたが見つかりません。その時、麓の谷の恋人マヤラのもとに、遭難場所を記した紙飛行機が飛んできて、救出されました。その紙飛行機がどのようにして、あの深い山中からマヤラの手元に届けられたのか、今もって謎とされています。

でも、どんなふしぎなことにも、真実はあります。

 ほら、あの大きな欅の樹の下で安楽椅子に身を沈めているお爺さん……。あのワッチル爺さんは、この紙飛行機の本当のことを知っています。お爺さんは、お日さんからこの話を聞いたのだそうです。

 ええ……、そうです。ワッチル爺さんの一番の友だちは、お日さんです。



 今日もお日さんが空高く昇って、谷の野っ原の、大きな欅の樹の影が短くなりました。ゆらゆら木漏れ日が揺らぎ、安楽椅子のワッチル爺さんに話しかけます。

「やあ、爺さん。きょうは身体の調子はどうだね?」

「やあ、お日さん。ありがとう。今日も気分はいい。ポカポカ暖かくて眠くなった」と、赤ら顔のまぶしそうな目が瞬きました。

「それは、いい」と、光の束が揺れました。

「そろそろチンベルの肩のお花畑が、咲き出す頃じゃ……」

 まっ白なほほひげのお爺さんは、安楽椅子の背に首を預け、頂を見上げています。

「あー、咲き出したとも、今朝はキンポウゲの一番つぼみが開いたよ」

「そうか、すぐ、まっ黄色になる。きれいじゃろう……」と、お花畑を思い浮かべているようです。

 お爺さんは若い頃からずっと山の上で羊飼いをしていましたが、老いて身体の自由が利かなくなって、この谷で暮らしています。

 もう、お花畑を見ることが出来ないお爺さんです。どんな気持ちなのでしょう。


 私は、お爺さんの昼寝の邪魔をしないよう部屋に戻りましょう。そして、お爺さんが語ってくれたロンペリ博士の少年時代の話をノートに整理します。

 申し遅れました。私の名はモニカ……、私のことはあとで詳しく申します。





         第一話 奇跡の紙飛行機


            一 


 ロンペリは、小さな頃から草花が好きだった。そして、たいがいそれらの名前を言い当てた。

 はじめてみる花は、どんな花でも、

「わあ、きれい! なんでこんなに美しいの……」と、青い瞳を輝かせた。時には、

「これは変わった花だ。いったいぜんたい、どうしてこんな花があるのだろう」と、茶色の頭をかしげ、呟くこともある。

知らない種類の草や木を見つけると、ていねいに観察して、「どんな花が咲くのだろう? どのような実を結ぶの?」と、知りたくてたまらないのさ。

 微妙に違うちっぽけな種子から、いろいろな形の芽が出、生育して、独自の葉っぱ、花、実となる。そんな植物の造化の妙が子供心にふしぎでしようがなかったのじゃ。

 ロンペリが、どんな草花でもその姿をすぐに見分けるのは、それぞれの個性を美しいと感じ、気に入ったからだが、それにしても、彼の観察力はすばらしい。

 ロンペリも、他の少年たちと同様、昆虫や動物にも興味を持った。彼は、人並み以上に詳しい。

 そんな彼が、特に草花に夢中になったのは、ある時、初めて図書室の部厚い植物図鑑を見て、その精緻な描写に感動したからだ。彼は、真似て、草花のスケッチを始めた。

 そして、ロンペリは変わった種類の草花を探した。彼の好奇心が分類を意識させたのじゃ。

似通った草でも、葉っぱの付き方とか花の形とかの違いを指摘した。たくさんの草花の成長の過程を観察するうちに、種子、発芽、葉、茎、花、根、それぞれの特徴をつかんで、彼は独自の見分け方を身につけた。

 彼のスケッチはていねいで、よく特徴を捉えていると先生からほめられた。だんだん上手になって、手早く描けるようになった。

「そんなに花が好きなら、植物学者になりなさい」と、お母さんに言われ、ロンペリは植物学者に憧れた。そして、先生に、

「勉強して大学に行かないと、学者にはなれません」と言い聞かされ、その気になった。

 でも、国語の本を読むよりも、算数計算するよりも、草花を探してスケッチして学校の図書室の厚い植物図鑑で名前を調べることの方が楽しかった。

 名前が分からない物がたくさんあるし、お母さんや先生に教えてもらった名前と図鑑で調べた名前が違うことがよくあった。ともかく、草花のスケッチがどんどん溜まって、それがロンペリの宝物だった。

 ロンペリはどうしても植物学者になりたいと願った。

 彼のように集中力が身についている子は、その気になりさえすれば、勉強に励むことができる。嫌いだと思っている教科は、大声で教科書を読んだ。くりかえし読んでいると、いつの間にか空で言えるようになる。

 算数でも国語でも分かるようになれば面白い。

 でも、学習することがたくさんあるし、すぐには理解出来ないことが多いから、根気が要る。ロンペリは、あきらめずに日々努力すれば何とかなることを知っている。

 十一才のロンペリは、がむしゃらに勉強して日々を過ごし、勉強のストレスに押し潰されそうになった。

それで、お母さんの許しを得て、夏休みが始まってすぐに、チンベルの峰の肩の、羊飼いが暮らす山小屋に行ったのじゃ。

 チンベル山には前に三度、友だちと登ったことがあるが、今度は一人で自分の食料と毛布を担いで登った。


 朝、薄暗いうちに起き出して、日の出を見る。しばらくすると、下の谷間に霧が湧いて、いつのまにか雲の上に居ることになる。

 ロンペリは、じっとしていなかった。草原を歩き回って朝露で濡れたが、平気さ。中腹のお花畑できれいな花をスケッチした。珍しい草花を探しては描き写した。

 そして、喉が乾けば草の葉の露をなめていた。水筒など持たないから、露ばかりなめていたのじゃ。日が昇って露が消えてしまったら、水場までがまんした。

 そうやって二週間過ごしたロンペリは、すっかり元気をとりもどして、大切な二冊のスケッチブックを抱え、ゆうべ遅くに帰ってきた。



           二


 その朝、ロンペリは早く目を覚ました。

 気分は快適さ。

「公園の様子を見てこよう」と、家を抜け出した。

 半月前にヒースの茂みの陰に蒔いておいた、東洋の銀杏のタネが芽を出している筈だった。

 ふと、公園の入口の方を眺めると、

「あれっ! どうした?」

 道に緑の服の少女が倒れていて、そばに赤い服の幼い女の子がしゃがんでいる。

ロンペリは駆け寄った。

 その赤い服の小さな子が、寝起きの眠気を吹き飛ばした、大きな目を見開いて、

「お兄ちゃん! このお姉ちゃんはトラックにはねられたの。助けてあげて」

 その緑の服の少女はぐったりして、目を瞑っていたが、どこにもけがはなさそうだった。ロンペリは自分と同じぐらいのその少女を抱え起こした。

「ともかく、安全な場所に移そう」と、うん、と力を込めて少女を持ち上げたら、軽々と運べた。そして、公園の入口に近いベンチに横たえた。

 透き通るように色白の少女は、身じろぎもしなかった。

 しばらくして、

「お姉ちゃん、しっかりして!」

 その小さな子の呼びかけに、少女は薄く目を開けた。

「ありがとう……」

 それから、整った顔を上げ、小さな子に、

「お願い……、草の葉の露を採ってちょうだい……」

 消えてしまいそうな声だった。

 小さな子はうなずいて、周りを見回し、ベンチの脇の草むらのイタドリの葉に宿った露を見つけた。透き通った水玉が転がり落ちないよう葉っぱをくぼめ、静かにちぎった。

 やっと身体を起こした少女は、両手でその葉を受け取り、薬のように露を口に含んだ。

 目を閉じたまま、少女はうつむいている。

「お姉ちゃん、もっと飲む?」と、幼い子が顔を近づけると、

「ええ、お願い」

 だいぶ元気を取り戻した声だった。

 その様子を眺めていたロンペリ少年は思った。

(のどが渇いている……。そんな露じゃ、らちがあかないだろうに……)

 そして、

「そうだ!」と、うなずくと駆け出した。

 そして、それっきりロンペリは、その少女の姿を見失ったのじゃ。


ロンペリが、水飲み場から真鍮のコップの水をこぼさないように大股で戻ってきた時、そこには誰もいなかった。一瞬、

(あの人はあんなに弱っていたのに、どこに行ってしまったんだろう? ふしぎだ……)

 と、意識したが、その考えはすぐ消えてなくなった。

 また、さっきの赤い服の幼女が、お父さんなのだろう、軍服姿の人に肩車されて、通りの向こうに遠ざかるのを見て、

(あれっ?)

 いぶかしく感じた。

 そのうち、ロンペリは、自分がどうして水の入ったコップを持っているのか分からなくなって、それで、その水を銀杏の芽にかけてやった。

 ふしぎな、狐につままれたような体験さ。


 ふしぎと言えば、その晩と、その次の晩、屋根裏のロンペリの部屋の窓ガラスが、

 トントン、コットン。トントン、コットン。

 何者かが合図して叩くような音がした。何だろうと窓を開けて見たが、何も変わったことはなかった。

 もう、少年の記憶には緑の服の少女の姿はない。

 なんだか夢を見たようだけど、よく覚えてないという感じだった。



            三


 えっ? モニカ、なんじゃと? 

 なぜロンペリは急に緑の服の少女のことを忘れてしまったのか、どうして記憶にないのか、だと?

 そうか、気になるか……。

 幼い子には分かっても、大人には気づかないことがあるじゃろう。幼い時は見えていても、大人になると見えなくなるものがある。


悩みなど何も意識しないで天真爛漫に過ごしているうちが幼児じゃ。その反対に、何かしら悩みを抱えてくよくよし、あるいは、あれこれ金儲けを考えて暮らしているのが大人じゃ。

 なあ、大人はこどもたちのご飯を用意せねばならぬし、金を稼がねばならない。また、金持ちは泥棒が心配じゃ。病気に罹ってないかと不安な人もおる。

 少年というのは、な……、無邪気な幼児と、心配性の大人が入り交じった時期じゃ。


 少年はいろいろなことを経験して、希望と不安で揺れ動く気持ちの中で、少しずつ知識を広げ大人の知恵を身につける。英雄にあこがれるとか、好きな子が出来るなど、他の人を知ることから始まり、中傷に耐えるとか、恥を知るとか、仲間とつきあう苦悩を知り、そうやって人との付き合いの壁にぶつかるたびに世間のことを学んでいくのじゃ。

 まさに、ロンペリもそういう少年じゃ。今までは、野原の草花の美しさ、ふしぎさに心を奪われ、精緻な造化の神秘に惹かれて観察に夢中になっていたが、

(将来、大好きな植物を研究する学者になるには、学校の勉強をしなければならない……)

 と、意識し、希望に燃え、反面、不安に悩むようになったのじゃ。

 

 少年が成長するにつれ、失うものがある。

 純粋さじゃ。

 そして、ロンペリは、緑の服の少女の姿を見失ったのじゃ。

 誰だって童心に返るひと時があるが、次の瞬間、そんなことは覚えてない。そういう、時のはざまがロンペリに訪れたのじゃ。


 その時、私は、閃きました。

(ひょっとしたら、緑の服の少女は……?)

 でも、口に出すのは止め、お爺さんの顔を見つめ、お話の続きを待ちました。



           四 


 それから二十年の歳月が過ぎた。

 ロンペリは志を果たし、少壮の植物学者になっていた。

 ある夏、ロンペリ青年は、植物採取で故郷のチンベル山に入った。三日分の食料と簡易テントを担いでいた。

 ところが、予定の日が過ぎても彼は戻ってこない。

 麓に住む恋人のマヤラはロンペリの身を案じた。

 大勢の村人が捜索隊を編成し、手分けして山中を一日がかりで探したが、手がかりはなかった。

 ロンペリは珍しい草を求めて、道から離れた人の入らない険しい所まで行く。


 そうやって下山予定日から二日が過ぎた。

 その時、ロンペリは左足首をけがして、森にいたのじゃ。

 岩場の花を採取しようとして足を踏み外し、崖から落ちたが、やっと、大きな樅の樹の下まで這ってきて、そこで、もう彼の体力の限界さ。じっとしている。谷の道から離れており、捜索隊の呼び声は届かない。

樅の樹の根元で、大事な植物標本とスケッチブックが入ったリュックに骨太の長身をもたれて、うつらうつらしていた。傷の痛みは感じなくなっていたし、あんなにひどい空腹と喉の渇きだったが、草の葉の露をいくつも口に含んでしのぎ、気にならなくなっていた。


トントン

 何者かが肩を叩いた気配に、ロンペリは目を開けた。

「うん?」

 横向くと、ロンペリの左の肩に、手の平ぐらいの大きさの、緑の服の少女が立っていて、

「ロンペリさん、しばらくね」

 と、会釈した。

「おや! 君は?」

どこかで見たことのある面影だと、ロンペリは考えた。

 その小人の少女はロンペリの右膝に移り、見上げてほほえんだ。

「ロンペリさん、あの時は助けていただいて、ありがとうございました」

 そこで、ロンペリは、二十年前の朝の公園の出来事を思い出した。

「君は、あの時の? 

 そうだ! 君は、僕が水を汲みにいってるあいだに居なくなった」

まるで昨日のことのように目に浮かんできた。

「君は妖精だったのか……」

「私は妖精ニーナです。あの時、真鍮のコップに水を汲んで戻ってきたあなたには、私の姿が見えなくなっていました。でも、私はずっとあのベンチに居たのよ。

 あのあと何度か、風さんに頼んであなたの部屋の窓ガラスを、合図しましたが、あなたには私の姿は見えませんでした」


 それから、ニーナは、野兎に野いちごの実を集めてくるよう言った。リスに、しまってある椎の実を分けてくれるよう頼んだ。そして鹿に化膿止めの薬草を採ってくるようお願いした。

 そうしているうちに、ロンペリもいくらか元気を取り戻した。

「さあ、手紙を書きなさい。届けてあげます」

 ニーナに励まされたロンペリは、リュックからスケッチブックを取り出した。全部使っていたので、最後の画用紙の裏に書き出した、

「足をけがしています。助けて下さい。場所は……」

 ニーナが言った、

「ここは、ザッピ谷八の沢。大滝の岩の上から南の方角に三百歩先、森の中の一番大きな樅の樹の下」

あて名は、マヤラ。

 それから、ニーナが言うとおりに紙飛行機を折った。

 そして、

「さあ、今だよ!」

 ニーナの合図で、思いっきり、空へ飛ばした。

「風さーん、頼んだわよー。マヤラへの急行便だよー」


マヤラは谷間のわが家の庭にたたずみ、夕日に輝くチンベルの頂を眺めていた。

 そして、胸に両手をあわせ、恋人の無事を祈った時だった。

 山の方角から彼女めがけて飛んでくる白い点に気づき、青い瞳をこらした。

 そうやって、彼女の手に紙飛行機が届いた。

 次の日、下山予定日を三日過ぎてロンペリ青年は助け出され、病院に運ばれ、左足首を切断した。



            五


 ロンペリが救出される前の晩、樅の木の下で、ニーナが付き添ってくれた。

「あの時、君は自動車にはねられたのだろう?」

「私が前にあそこに来た時は、大きな林の外れの原っぱだったんですよ。あんな道路になっているなんて思いもしませんでした。

 うっかり地面に降り立ったとたん、車にはね飛ばされました」

「あの時の君は、やっと、露を採って下さい、と言えるぐらいだっただろう……。僕は心配だったよ。無事で良かったね」

「ありがとう。私たちの身体はどんなことでも平気ですが、あの時は、車に驚いたショックが強過ぎました。

 マヤラとあなたに介抱してもらって、助かりました」

「えっ、マヤラ? 

 あの赤い服の女の子は、マヤラだったのか……」

「そうですとも。あれから私は、ずっと、あなたとマヤラを見守ってきました」

 大きくなったロンペリが故郷に戻って、マヤラとはじめて出会った時に、とても懐かしく感じたのは、そういうことだったのだ。

「マヤラに飲ませてもらったイタドリの葉っぱの露で、私は元気になりました」

「そうか、露か……」

 ロンペリは、赤い服の幼女がイタドリの葉を差し出した光景を思い起した。


「ロンペリさん、ここで、あなたに私の姿が見えてよかったわ。私は、あの時のお礼が出来ましたもの……。

 あなたは、この森でずいぶん露を口に含んだでしょう。露とか霧は、あなたのような真摯な人の気持ちを浄化させます。あなたは童心に戻っています」

「ここじゃあ、露しかないものね」

「おやおや、冗談が出るほど元気が出ましたね。もう大丈夫ね」

「うん……。ニーナ、また姿を消さないでね」

 ニーナは微笑んだ。

「ねえ、ニーナ。あの時は、君は普通の少女の大きさだったが、それが今はずいぶん小さくなっているね。自在に身体の大きさを変えられるんだ」

「ええ、そうです。その場に応じて変えます。もともと、私たち妖精に姿は要りません。でも、森の動物や人間と付き合う時には、姿が見えないといけないでしょう。

 木の精や水の精、あなたに見えない精霊たちはこの森にいっぱい居ます」

 ロンペリはうなずいた。

「あの時、君と会ったのはずいぶん前のことで、僕は子供だったけど、君はちっとも変わってない。少女の姿のままだね」 

「私は、いつでもこの姿。身体が大きくなっても小さくなっても、ニーナの姿はこのとおりです。

でも、いつか、私はおばあさん妖精になるわ」

「うん?」

「こんなにもたくさんのことを、あなたとおしゃべりするなんて、私は、ずいぶんと世間を知ったんだもの、もうすぐおばあさんになってもいいわ。

 でも、私は少女の姿であなたとおつきあいするでしょう」

「えっ、どういうこと?」

「ほら、ロンペリさん。私の一族の妖精には、おじさん、おばさんの姿ってめったにいないでしょう。たいがいの妖精は、急に、少年からお爺さんに、あるいは少女からお婆さんになります。

 妖精は、未熟なうちは少年、少女のかっこうで一人で暮らしています」

「どうして?」

「ねぇ、ロンペリさん。

 かわいいとか、きれいだとか、やさしいとか、好きだとか、尊敬するとか、信頼するとか、そういう気持ちはいいですわね。

 でも、それだけじゃないでしょう。

 その反対側に、汚いとか、いじわるだとか、嫌いだとか、軽蔑するとか……、それから、騙すとか、威張るとか、憎むとか、怒るとか、いやな感情があるでしょう。また、我慢するとか、許すとか、あきらめるとか、寂しいとか、悲しいとか、ということもあります。

 未熟な妖精は、その個性によって違いますが、このような感情の中に、どうしても耐えられないものがあります。また、自分が他人に嫌な思いをさせて、気づかないこともあります。

 だから、若い妖精は、傷つかないように、あるいは他を傷つけないように一人で暮らします。

 そして、世の中のいろんなことを十分知ってしまって、どんな嫌な感情にも耐え、自分の気持ちを抑えられるようになると、老いた妖精に変わります。それが、大勢の中で暮らしていけるようになったという印です」

「ふーん。妖精の老人はそういう人なのか。でも、どうして、普通の大人にならないの?」

「未熟か、成熟しているか、どちらかです。

 でも、中には、未熟な期間が長すぎて、中年の大人になる妖精もいます。それは、完璧に成熟してない印です」

「じゃあ、君たち妖精にも死はあるの?」

「もちろんありますよ。

ある日突然いなくなってしまう老人の妖精がいます。きっと、十分に生きたと思うと、そうなるのでしょう。

 それから、私たちが、ある感情に堪えられない時はそうなります。例えば、私は、怒気にはとても弱くて、けんかの怒鳴り声を聞いたら、もう身が縮む思いをしましたわ。強い怒りの感情がそばに迫って気を失ったこともありました。

 そんな時は、霧に包まれるとか、あるいは露を口に含ませてもらうとか、誰かに手当てをしてもらわないと、そのまま消えてしまいます。それが私たちの死なのです」

「そうか、ニーナでも死ぬのか」

「この前、公園前の道路で、私は車にはね飛ばされたショックで気が遠くなっていました。ロンペリさんとマヤラさんに助けてもらいました。

あれから、私はいつも、恩人のあなた方を見守ってきましたが、ロンペリさん、男の子ってずいぶん乱暴なことでも平気なんですね。若い頃の私ならとっくに気を失っているようなことでも耐えるのね。はらはらしますよ」


そんなことを話しているうちに、ロンペリは、ぐっすり眠ってしまった。

 ロンペリは夢の中でマヤラのことを想っていた。

 朝日が差して、目覚めた時には、

「どんなにかマヤラが心配しているだろう」と、まっさきに考えた。


 救助隊に加わった村人たちは、樅の樹の周りの兎やリスや鹿の足跡と、散らばった野イチゴのヘタ、椎の実の殻、揉まれた薬草の葉を見て、ドンベリは彼らに助けられたのだと知った。

「ロンペリの純粋な品性は、野生動物をも感化する」と噂したが、妖精ニーナに助けられたとは気づかなかった。

 お日さんだけが、ロンペリにニーナがついていたことを知っていたのさ。


 マヤラは、

「あの紙飛行機が自分の所に届いたのは、神様が私たち二人を導いてくださったに違いありません。神様、ありがとうございました」と、感謝の祈りを捧げた。

 そして、やさしく、慎み深いマヤラは、己が受けた神の加護を分け与えようと、教会の神父さんを手伝い、困っている村人たちに手を差し伸べた。得意のクッキーをたくさん焼いて、恵まれない子たちに配った。


さて、ロンペリはといえば、助け出される時には、もう、ニーナのことは思い出さなかった。

 自分が手紙を書いた事実は、その紙飛行機を見れば明らかだった。今度の山行で最も良く描けた、初めて見つけた変種のアザミの花のスケッチが紙飛行機になっていた。

 余談だが、この珍しい真っ青な花は、後日、チンべルアザミと名付けられた。


 ロンペリは、そのことを考えると、

(確かに、自分がその紙飛行機を飛ばしたに違いないが、よくもそんなことを思いついたものだし、飛んでくれたものだ……)

 と、ふしぎだった。


片足に義足をつけたロンペリは、めげずに山野を歩き回り、いちずに植物の研究に励んだ。

 最初のうち、若いロンペリの植物分類の考えには飛躍があるとして、他の学者たちから批判の目で見られていたのさ。例えば、あるところでは草の形だが、別なところでは木の形をしたものが、花や葉の構造が同じだから、同じ種類の植物だとロンペリは断じた。逆に、姿や、大きさ、花の色、それに生育環境も似ていて同じように見える草でも、花の構造が違うから別な種類の植物だと言った。

 たくさんの植物が収集され、種類が複雑多様になるほどに、ロンペリの分類方法は矛盾がないと認められたのじゃ。

 

 ロンペリとマヤラは結婚した。

 ロンペリは植物の採取旅行などで家を留守しがちだった。長期間外国に出かけたこともあった。寂しい時でも、マヤラは、

「あのチンベルの山中から、私にメッセージを届けてくれました……」と、終生、自分に注ぐロンペリの愛情を信じた。

 ふだんのロンペリは思慮深い常識的な人だったが、ひとたび植物研究に熱中し出すと人が変わった。空腹を忘れて不自由な義足で野山を歩き、そして家に帰ると書斎に引きこもり、我を忘れてスケッチと執筆に取り組んだ。草花がしおれないうちに描写し、また、感動の興奮があるうちに記述をまとめるのだ。

 ロンペリは、仕事を終えると放心したような顔をしたが、やがて我に返り、「すまんな……」と、マヤラに詫びるのだった。

 

 やがてロンペリの業績の評価と名声が高まる時が来てマヤラは喜んだが、でも彼女は、夫がそんなことに執着してないことを知っていた。

 彼はただ事実を明らかにするために研究に熱中し、自分の知ったことを人々に伝えることに骨折ったのだ。

 ロンペリ博士は、終生、自分の植物分類は未完で、新しい品種が発見されたら書き改めねばならないと考えていたようだ。

 ほがらかで、それでいて慎み深いマヤラは、高名なロンペリ博士の令夫人として、人々に慕われた。


 それからも、ロンペリは、覚えてないだけで、何度もニーナと会っていたに違いない。

なぜなら、彼の業績の植物分類は神がかりだと称されるほど緻密だったからだ。詳しい観察と深い洞察に裏打ちされているのは、たくさんの植物を研究した成果だと皆は考えたが、でも、人間の思考だけでそのような自然界の真実を見つけだすのは無理じゃ。

 なあ、モニカ。

わしが思うには、な、ロンペリがそんなことをやり遂げたのは、森や野原の妖精たちの手助けがあったに違いないのじゃ。

誰だって、無我夢中で仕事をやり遂げた人は、「あの時、あんなすごいことを、自分の力だけでよく成し遂げたものだ……」とか、「あの時、あんなうまい考えをよく思いついたものだ……」とか言うように、後で振り返って、自分でも信じられないものなのじゃ。

 世の中の、名人といわれる人々の中には、「自分の仕事の成就には、何者かが力を貸してくれた」と、謙虚に語る人がおる。

このようなことがあるのは、な、その純な魂が、たぶん、どこかで、妖精に出会っていたのじゃ。でも、その事実を覚えてないだけなんじゃ。





           第二話 悲しみにうちひしがれる時


             一 


「夕べ、村のイレナの赤ん坊が亡くなった。かわいそうだが、イレナはこれから悲しみを負って生きていく。

 でも、あの夫婦のことじゃ、いたわりあって耐えるだろうよ。悲痛な出来事を乗り越えるには、いたわりの心を持つしかないのじゃ」

 と、ワッチル爺さんが呟くように話しました。

 年老いたお爺さんは、運命とはいえ、自分に先立って逝った幼い生命を悼み、つらい気持ちに耐えています。

お爺さんは欅の樹の下の安楽椅子に身を預け、チンベル山を眺めてます。


 私はモニカです。ワッチル爺さんの孫のヨウベルに嫁いだ、サラサの幼なじみです。私は夏休みのあいだ、子供たちとこの谷で過ごします。

 そして私はワッチル爺さんのお話しを聞くのが楽しみで、今朝もサラサの家に遊びに来ました。

 今日は、イレナの子供のことで落ち込んでいるワッチル爺さんの気が紛れるかと思って、この谷に伝わる悲しいお話しをねだりました。

 もちろん私が知りたいのです。

 そして、その話に、どんな妖精が出てくるのかしらと思いました。

 でも、お爺さんが言いました。

「身体が傷ついたり、病む人には、妖精が看病し、励ましてやることがある。

 でも、心が張り裂けて悲嘆に暮れる者には、妖精だって近づけない。だから、悲し過ぎる話に妖精は現れない。

 よし、わかった。モニカ。

 わしがお日さんに聞いた、この村の悲しい話をしよう。

 お日さんはなんでも見ている。月明かりで照らされたことも知っているし、真っ暗闇の出来事でも、風の話で見通すことが出来るのじゃ。

お日さんに聞けば、ベールに包まれたどんな悲しい話でも本当のことを教えてくれる」

その時、ワッチル爺さんが話してくれた、悲しみに耐えた人の真実を綴ります。



             二 


 まず、ミューレの真実。

 ビューエル谷の奥の滝壺の下に、嘆きの淵と呼ばれる岩棚がある。

 わしが生れるずっとずっと前のことだが、恋人をなくしたミューレがそこから身を投げたといういわれがある。今でもあの谷を通って峠を越える村人は、あの淵に花を手向けて行くじゃろう。

 ミューレは村一番の美しい娘だった。賢くて優しくて、皆がうらやむほど幸せに暮らしていた。

 そんな彼女に、突然、不幸が襲った。仕事で旅に出ていた婚約者のマーキムが急な病に罹り、あっけなく亡くなってしまったのだ。

 あの慎み深いミューレが取り乱した。

 知らせを受けた時、絶句し、そして部屋にこもって泣き伏していた。そして、葬儀の日、ミューレはあの淵に身を投げたのじゃ。


 でも、わしがお日さんから聞いた話しでは、事実は違う。

 確かに、いっとき、ミューレは死んだ恋人のもとに行きたいと願った。そして、ミューレの命もあの世に引きずり込まれそうなほど、気落ちしていた。

 でも、ミューレは事態を受け入れようと必死だった。

 それでも、口に出てくる言葉は、

「マーキム、どうして私を置いて、逝ったの……」だった。

何百回、呟いただろうか。

そして、あの時のミューレは、無意識のまま、かって二人でよく愛を語らった、あの静かな淵の岩棚に来たのじゃ。黙って葬儀を抜け出すなんて、ふだんのミューレの聡明な理性はどこかに行ってしまっていたが、あまりにも酷い痛手だから仕方がなかろう。

断じて言うが、ミューレは命を絶つためにあそこに来たのではない。本能のおもむくままに安らぎを求めて思い出の場所に来たのじゃ。

 ミューレはその淵の岩棚にたたずんだ。

 ミューレは、ここに一人で居るのは初めてのことだ、と気づいた。かたわらにマーキムが居ない自分の境遇を認めざるをえなかった。

そして一晩うずくまって過ごした。ミューレの痛んだ心は夜の恐怖を超越しており、寒さで硬直した身体は、闇に溶け込んだ。

 やがて朝焼けが東の空に広がり、小鳥のさえずりでミューレは我に返った。

 その時になって、ふと、ミューレは、恋人の母のマーレのことを思った。

 やっと、彼女はやさしを取り戻したのだ。

(マーレは、どうしている? きっと、悲しみにうちひしがれているに違いない……)

(私は、マーレの側に居なければならない。マーレをいたわってあげなければいけない!)

 ミューレは立ち上がった。

 しかしミューレの身体は寒さに衰弱していた。次の瞬間、彼女は立ちくらんでバランスを失い、淵に落下したのじゃ。

これが事実じゃ。

 まだ若くても、あの聡明なミューレだ。どんなに悲しくても彼女が耐えられないことはない。

 それが証拠に、ミューレは岩棚の上から落ちる時に、手を伸ばし、

「助けて!」と、悲鳴を上げたのをお日さんが聞いていた。

 でも、村の人々は、

「まだ十九才の世間知らずの娘にとって、恋人を失った悲しみは大き過ぎた……」と、噂した。

 人々は、ミューレを哀れんで、このことを言い伝えたのじゃ。



            三 


 もっとひどい悲しみに堪えたのは、オムネばあさんじゃ。

 オムネばあさんは、息子を三人ともなくした。

 恋人を失うのと、子供をなくすのとでは、どちらが悲しいかなんて、そんな無意味なことを言うつもりはない。愛する者を失った悲しみは、誰であっても耐えられない。

  

 オムネが最初に失ったのは長男のムラクだった。ムラクは若くして結婚し女の子を得た。その子が四歳の時、徴兵にとられ、戦いがあって戦死した。

 オムネは悲しみをこらえた。

 悲しみが増したのは、その三月後に、ムラクの妻が、後を追うように病で亡くなったことじゃった。そして、四歳の女の子が残された。オムネはその女の子を引き取って育てた。

 そして三年経って、今度は次男と三男を一度に失ってしまった。

次男のカラクは血気盛んな青年で都に出て働いていたが、折から台頭した革命軍に身を投じたという噂があって、もう二年以上も音信不通だった。その間に、三男のジャルクは徴兵で国軍に入隊した。

 不幸はレリファーの街で起きたのじゃ。

 革命軍ゲリラと国軍が衝突した。

 ゲリラの狙撃兵のカラクたちは、国軍のパトールの小隊を待ち伏せして襲い、五名の兵士を殺した。

 カラクの標的となった一人の若い兵士のことが、虫が知らせたというか気になって、うつ伏せに倒れたそのまだ温かい大柄な遺体を抱き起こした。

「ジャルク!」

 カラクはうめいた。

「ジャルクが徴兵されていたなんて……」

カラクは空に向かって絶叫した、

「俺は……、弟を殺した!」

 その場で自分のこめかめに銃口を当てた。

 二人の遺体が別々にオムネのもとに届けられた。

 オムネの涙は止まらなかった。

 そしてある夜、カラクの友人が人目をしのんで訪れ、ことの次第を告げた。オムネはかろうじて耐えたが、次の日から、オムネの目に宿る涙を見た者は誰もいなかった。

 打ちのめされたオムネだが、孫娘のために生きなければならなかった。

 その孫娘はやさしく聡明な子だった。キラキラ青い瞳が輝き、皆から愛された。あの伝説のミューレも、この子のようだったかも知れない。

 オムネの生きがいがその子だった。


「その子の名は?」

「ほら、マヤラだよ」

 のちにロンペリ夫人となるマヤラが、その孫娘だった。


 そのとき、紙飛行機が届いた時、

「おばあちゃん、ロンペリがチンベル山で無事よ!」 と、マヤラが息せき切って病室に駆け込んできた時、やせたオムネは身を起こしてマヤラを抱きしめた。

(マヤラの幸せを願う、老い先短い私の祈りに、神は加護を与えてくれました……)

 オムネばあさんの目に、涙が溢れたのじゃ。

 そして、彼女はその人生を、神に感謝したのじゃ。


 オムネの目に涙が戻ったのか、だと? そうじゃ。

 オムネの目の涙は、枯れ果てたのではない。二人の息子の闘いの不幸に打ちひしがれてからは、どんなつらいことも、涙を見せるほど悲しまなかったのじゃ。

 でも、そんな彼女のかたくなな心を解きほぐして、嬉し涙が出てきたのじゃ。





           第三話 いたずら妖精ニックル


              一 


 小学校の講堂から、子供たちの元気な歌声が響いてきます。学芸会を控えて、全校児童で歌の練習をしているのです。どの子も声を張り上げて歌っています。

 子供たちの歌が大好きなワッチル爺さんは、講堂の前の石段に腰掛け、耳を傾けていました。

「いつ聞いても、子供らの歌は元気でいい。無邪気に歌っている。まるで欅の梢が、にわか雨にざわめいているようじゃ」と、呟きました。


 野原のワッチル爺さんの家のそばに大きな欅の樹があります。

 ワッチル爺さんは、夏はその樹の下で、春、秋はその樹のそばで、そして冬は窓からその樹を眺めながら、うとうと昼寝をします。ワッチル爺さんは、いつも欅の樹といっしょです。

 そんなワッチル爺さんが話してくれました。


 欅の樹は、冬の間こそ誰もいなくて静かだが、春、枝がうっすらと黄色に色づくと芽吹きが始まり、あっという間に緑に化身し騒ぎ出す。

 夏、梢が伸びて風に揺れて葉が光り、誰も気づかない小さな薄茶の花を付け、いつのまにか振り落とす。

そして秋も深まって褐色の葉が散ってしまうまで、それは、それは、賑やかなのだ。

 どの枝の葉っぱも、めいめい自分勝手に、

「もっと水をちょうだい!」

「小鳥さん、僕のところにもおいでよ!」

「風さん、いい気持ちだよ。もっと吹いてよ!」

「乱暴に吹いたら痛いよ、つむじ風さん」と、騒いでいる。

 ふところ枝の葉っぱは、年中、仲間たちに、

「もっと、お日さんに当たりたい! 陰にしないでよ」と、訴え続けているのじゃ。

 ともかくも、どの枝の葉っぱも元気じゃ。

 一本の欅の樹といっても、そこに宿る精たちは、葉っぱ一枚一枚に居る……。

 あの枝の葉に宿る精たちは、元気に騒ぐだけでいいが、妖精のニックルはいたずら者で困る。



             二 


私はモニカです。

 今日は、二人の息子ジョン、ジャックといっしょに、おじいさんのお話しを聴きました。

 これから綴りますことは、ワッチル爺さんが話してくれた、妖精ニックルの好奇心に捕まった人たちです。


妖精ニックルは、活発な少年が好きだ。

 寒い朝、街角の新聞売りの少年のそばにニックルが居て、北のつむじ風が舞い襲うのを防いでいる。

 山の放牧場で、羊飼いの少年がはぐれた羊の子を助けに岩壁を下りる時、ニックルが足の踏み場を指示してやる。

 このように、妖精ニックルは、少年たちの健気な勇敢な行為に共感する。

 でも、ニックルの感性は、人の心の痛みに鈍いのじゃ。

 ニックルは、風の子をけしかけて悪さをする。


妖精のニックルは、 村の青年エッペルが、ふだんに似つかわず、そわそわしているのを見て、最初、

(何をしている?)

 と、眺めていたが、そのうち、その奇妙なしぐさが面白くなってしまったのじゃ。

 エッペルは、手紙を書いては、破り捨て、ため息をつき、両手を後ろに組んでウロウロ部屋の中を歩き回る。また書いて破ってため息をついて、両手を組んで歩き回り、そしてまた書いては破り……、を繰り返し、ここ何日かこの調子なのじゃ。

 エッペルはとうとう十枚の恋文を書き上げた。しかし、エッペルが表に出た隙に、窓から風の子が、ヒュー、ウッ、と飛び込んで、インクのついたペンを転がし、仕上げたばかりの手紙の最初の頁に青い小さなしみをつけてしまったのじゃ。

 エッペルは最初の一枚を書き直そうとして目を通したら、自分の告白が支離滅裂に思えた。それで、全部、破り捨てた。

 また、両手を後ろに組んでうろうろ部屋の中を歩き回り、翌朝になって、七枚を書き上げた。そして、背伸びして、立ち上がって、部屋に朝の新鮮な空気を入れようと窓を開けた拍子に、また風の子が、ヒュー、フウッ、と舞い込んで、手紙をパラパラ吹き飛ばし、最後の一枚を、部屋の隅の濡れモップの上に落としたのじゃ。

 エッペルは、「やれ、やれ……」と、間の悪さを思った。最後のページを書き直そうとしたら、気になるところがあって最初から読み直した。そして、自分の告白が一方的で勝手過ぎやしないかと悩んだ。

 また、両手を後ろに組んで、うろうろ部屋の中を歩いて、考えた。

 とうとう、短く、すっきり二枚にした。

 そして今度は机の引出しにしまった。


 朝早く忍んで行ったエッペルが、マーチャの部屋のガラス窓の隙間にそっと手紙を挟んだのを、ニックルが見ていた。

 すぐに風の子に合図して、ビューッ、ガタガタ、と、その手紙を吹き飛ばしてしまったのじゃ。

 でも、エッペルは振り返らなかったから、気づかない。

手紙がなくなっているとエッペルが知ったら、また、ため息をついて、両手を後ろに組んでウロウロ歩き回るだろうと思ってやった、いたずらだった。

エッペルが手紙の返事を待って死ぬほど気を揉んでいると知ったら、とてもあんなことはしないだろうよ。

でも、もし、ニックルと、このことを話したら、きっと、彼はこう言うだろう、

「そうかな。そんな愛の告白は、手紙よりも、会って告げた方がいいだろうに……。マーチャに会って、好きだと言えばいいんだよ。それよりも、瞳を見ればマーチャの気持ちが分かるだろう」


 エッペルは、マーチャに恋した自分に気づいた。そして、愛の告白をためらっている自分を認め、自分には勇気がないのかと、自問した。

 でも、冷静なエッペルは、自分の恋が片想いかも知れない、と心の隅で察知していたのじゃ。

 しかし、このままじゃ、つら過ぎる。けじめをつけたかった。

 エッペルの心の奥には、そのことで、やさしいマーチャの心をわずらわせて傷つけてはいけないと思い遣る気持ちもあり、手紙を書き直すたびに、これを出そうか出すまいか逡巡したのは事実だった。そして、二度の書き直しで、激情がほとぼしった思い込みの言葉がなくなり、穏やかな文になっていた。

「これまでずっとマーチャのことが好きだった、できれば結婚を前提に交際してくれないか。自分の気持ちを整理したいので、ぜひ、返事が欲しい」と、素直に気持ちを訴えた。そして、思い切って、手紙をマーチャの窓へ挟んできたのじゃ。

 苦悩に耐えているかわいそうなエッペルじゃ。

 その後なんどか顔を会わせたが、マーチャの態度がちっとも変わってないので、どういうわけか分からないが、彼女の手元に手紙が届かなかった、とエッペルは覚ったのじゃ。

 でも、なぜか、もう手紙を書く気持ちは起きなかった。

 やがてエッペルは、彼女が好意を寄せている青年がいることを知り、男らしくすっぱりと自分の気持ちを整理したのじゃ。

 そこでお爺さんは一休み。目を瞑りました。


「エッペルの想いを伝えずに、マーチャをそっとしておくには、結果的にニックルのいたずらが良かったのですね」と、私が呟きました。

 すると、ワッチル爺さんが目を開きました。

「そうじゃろうか?

 もし、マーチャがエッペルの気持ちを知ったら、きっと、

『ごめんなさい』と、詫びるじゃろう。

 それから、幼なじみの二人は、気詰まりを避けるため、互いに顔を会わさないよう気を配る。そして、二人とも、相手を傷つけてしまったと苦しむに違いない。

 でも、これが本当に良かったのじゃろか?

 このようなことは、誰にしても、若い時に乗り越えなければならないことの一つじゃ……。

 いずれ、時が来れば心の傷は癒され、青春の日のほろ苦い思い出となる。その時は苦しんでみても、後になってみれば、ちっとも酷いことじゃない。

 マーチャだって、世間の荒波に揉まれて生きていくからには、これくらいの試練に耐えねばならない。

マーチャを知らないままにしておくのが、一番良いことだったのかどうかは、分からない。

 エッペルは、男らしく、苦しみに耐えたのじゃ。

 あの後、ニックルは風の子と組んで二度ほどいたずらをしかけたが、エッペルは動じなかった。

 一度は、朝、かってエッペルが毎朝の習慣のように語りかけていた机の上のマーチャの写真を、窓の外へ吹き飛ばしたのじゃ。エッペルは、後を追いかけて表へ出てみたが見失い、その後は気にとめなかった。それでエッペルは彼女への想いを吹っ切ることができたのじゃ。

 もう一度は、同じように、エッペルが仕事で使っていた会計のノートを吹き飛ばし、タンスの後ろに落とした。

 次の日、エッペルは会計ノートが見当たらなくて困ったが、

「最近、俺はたるんでいるから、こうなるんだ。この部屋からノートが自分で外へ出ていく筈がない。徹底的に探してやる」

 と、部屋の家具を片っ端から動かして、見つけた。ついでに、エッペルは部屋の模様替えをしてしまった。

 ニックルはもう興味を失って、エッペルから離れたのじゃ。



             三


さて、今日も、欅の樹の下の木漏れ日を浴びた安楽椅子のワッチル爺さんが、お日さんとお話をしています。

「やあ、お日さん。 この谷の下の家具屋のエッペルの姿をしばらく見ないが、元気かね」

「元気でテーブルを作っているよ。見事なテーブルだ。腕は衰えてない。今も彫刻刀でぶどうの飾りを刻んでいる」

「そうかい、そりやよかった。エッペルはわしの幼なじみだ」


 そうか、モニカ。妖精ニックルの話の続きだったな。

 ジョンもジャックも聞きたいのか?

 妖精ニックルは、自分のやってることがどういうことなのか、ちっとも分かっていないから、エッペルにいたずらが出来たのじゃ。エッペルが、こんなに苦しんでいることが分かっておれば、いたずらなんかしないさ。いくらニックルでも、恋人に死なれたミューレや、息子たちをなくしたオムネのような、深い悲しみにうち沈んだ者には手出しはしなかった。

 妖精のニックルだけじゃない、時として子供たちも自分のやっていることの意味が分からずに、残酷なことをする。トンボを捕まえて羽をむしったり、バッタの足をもいだりする。トンボが痛いと言わないから、バッタが何も叫ばないから、それで、そんなことが出来るのじゃ。

 その延長が、子供たちの仲間外れじゃ。


 あの講堂の舞台の最前列で、きれいな声で歌っていたトーニャは、小さいころ病気勝ちで、大事に育てられたおばあさんっ子じゃ。

 この間まで、あの子はいつも仲間外れにされていた。トーニャが勇気を奮って皆の話の輪に加わろうとする。トーニャが早口でしゃべって、はしゃぐ。そんな時、ピントの外れた変わったことを言ったりすると、皆はいっせいに、

「トンチキ、トーニャ。トンマなトーニャ」と、はやし立て、泣き出すまで攻撃の手を緩めなかった。

 でも、トーニャは甲高い声を張り上げて泣きだすから、いじめる方もたじろいで退散する。

 小さい子供の社会でも、相手の反応がじれったくなって、なんとなくいじめてしまっているという光景が見られる。このような陰湿なサディスチックないじめをする時は、もう純粋な子供ではない。

 子供がいじめをやる時は、強者の立場にあり、あなどるとか、けいべつするとかの優越感に満ちた、大人の感情の領域に踏み込んでいる。

 しかし、妖精のニックルのやることは、無知なだけなのじゃ。

 ニックルは、いたずらの相手があたふた狼狽するのが愉快だったのじゃ。それは、男の子が、草原でバッタを見れば夢中で追いかけたり、クワガタをひっくり返して、あわてふためいて起き上がろうともがく様子を眺めたりするようなものなのじゃ。

ニックルでも子供でも、その相手がどんな気持ちでいるのか、相手の痛みが分かっておれば、そんなことはしまい。

 ニーナの言うように、未熟な若い妖精が一人暮らしするわけは、こういういたずら者を避けることもあるのだろうよ。

 そう言って、お爺さんは一休み。


 私は、いつになく神妙な顔をしているジャックに気づきました。

 その顔を見つめていると、ジャックが言いました。

「僕は、バッタは、足をもがれても痛くないと思っていた」

「そんなことをしたら、バッタは歩けなくなって、生きていけないじゃないか」と、ジョンが咎めました。ジャックが、うつむいて目に涙を溜めてます。

 すると、お爺さんが目を開けました。

「誰にでも、大きくなってから、子供の頃にやったことで、密かに恥じることの一つや二つは、あるじゃろう。あるいは、少年時代の、無知でしでかしたことを後悔することがあるものじゃ。

 お前たちはやさしい」と、二人の子供の顔を見渡しました。

 それから、お爺さんが話し出した。

「気持ちのやさしい子供が、心して置かねばならないことがある」


 どんな人でも、突然、周りからいわれのない攻撃を、身に受けることがある。

無知なる者の攻撃に対しては、いずれ時期が来て納まるまで我慢しなければならない。深い苦悩を抱いたエッペルがニックルの攻撃に動じなかったように、気に留めないことが一つの手じゃ。いつかおさまる。

 トーニャだって大きな声で歌の練習に励んで、その歌が先生にほめられるようになると、いつの間にか仲間外れにされなくなった。

 しかし、堪えられないほどつらい時は黙っていないで、自分で状況を打開しなければならない。泣いてでも、怒ってでも自分で主張しなければならない。

 トーニャは大声で泣き出して反発したから、そこで攻撃の矛先を止めることができ、助かった。

 それはどんな苦しみに対しても言える。我慢できない時は言い張らねばならない。

 エッペルにしても、結果的に届かなかったとはいえ、何度も手紙を書いて自分の気持ちを整理し、最後に相手の窓に差し込んできたので、彼なりに泥沼の苦境から抜け出ることができたのじゃ。

 エッペルは、やるだけのことはやったのだ。


 妖精ニックルの好奇心の餌食になったのは、エッペルだけじゃない。



              四


 わがままな、ライラおばさんじゃった。

 子供のころから、自分本位で過ごした人じゃ。裕福な家だし、皆が振り返る美貌の人じゃった。若いうちは、それは、華やかな暮らし振りじゃった。でも、ある年になると、そうはいかなくなる。蓄えは減る一方だし、だんだん容姿も衰え、わがままだけが残って、いつも不平を言っている。

「あそこが痛い。ここも痛い」 

「あっちがいい。こっちがいい」 

「ああせい。こうせい」

 くるくる気が変わるので、周りの者はたまったものじゃない。子供たちも親戚もだんだん敬遠して、誰も側に近づかなくなる。

 そんなライラおばさんがニックルに捕まった。

 ニックルが面白がったのは、ライラが悪しざまに相手をののしる顔の表情の変化も見ものだが、その時の相手の反応が、皆おなじであることに気づいたのじゃ。

「ホラ、また始まったぞ。

 きっと、目を丸くするぞ。そして、プイッと横向くぞ」

 と、はやし立てて見ている。


 ライラおばさんの日課は、パンを焼くことである。

 以前は召使が焼いていたが、ライラのわがままに辛抱し切れず、どの召使も二年と経たずに辞めていった。そして今は、パン焼きが不慣れな若いチーマしかいないので、おいしいパンを食べるには自分で焼かねばならなくなったのじゃ。


 さて、ある夏の日のこと、いつものようにライラとチーマが、パン生地を練ろうとボウルに小麦粉を入れた、まさにその時、窓から風の子が、バーッ、と吹き込んできて、ブワーッ、と小麦粉を舞上げた。

 ボウルを抱えていたライラは、頭から肩からスカートまでまっ白になってしまった。

 我に返ったライラは、ガミガミガミ、ガミガミガミ、機関銃のように怒り狂った。

そしてついにこう言った、

「あなたが窓を閉めて置かないから、こうなったのよ。チーマ!」

 チーマは、目をまん丸にしてライラの顔を見つめ、そして、プイッと顔をそむけて、窓を閉めた。

 次の日から窓を締め切ってパンを練った。暑いのは我慢した。


 ある日、ニックルは作戦に出た。扉を、トントン、トントン、風の子に叩かせたのじゃ。

「どなたかしら。チーマ、ドアを開けてちょうだい」

 チーマが扉を開けたとたん、サー、そして、ワアッ、風の子が飛び込んできて、ボウルを転がし、白い粉を吹き飛ばした。

 また、この前のように全身まっ白になって、しばらくぼうぜんとしていたライラは、次の瞬間、怒りだした。

 ガミガミ、ガミガミ、

 ブツブツ、ブツブツ

 またもや、最後にこう言った、

「チーマがドアを急に開けたから、こうなったのよ」

 チーマは、一瞬、ライラを見つめたが、小さな口を強く結んで、プイッと横向いて、自分の部屋に引きこもってしまった。

 次の日から、ライラの家に召使は誰もいなくなった。

 ライラは、ブツブツ、ひとりごとで不平をこぼしたが、プイと横向く者はいなくなった。ニックルも姿を見せなくなった。ライラは誰にも相手にされずに、一人で暮らしたのじゃ。

 ある時、ライラは、このままぜいたくを続けていたら、やがて家屋敷を手放す羽目になる、と気づいたのは幸いだった。

 彼女なりに悩んだが、思い切って都へ出て、ダイヤの指輪、真珠の首飾りなどを手放してきた。

 ライラは、そんなことを村人に知られるのを恐れたので、もう村の集まりに姿を現さなかった。

 でもライラがそんなに不幸かというと、そうでもない。想い出に浸る時間はたっぷりとある。そして、老いを迎えると、懐かしい想い出だけが残る。

 窓辺に椅子を寄せ、放心したように宙を眺めている彼女の姿がよく見られた。

 

 ある春の日、台所でえんどう豆を煮ようとしたライラは、思いついて二十粒ほどを残した。それから畑の畝を耕し、豆を蒔いた。すぐに芽が出て、ぐんぐん伸びて、ゼンマイのようなひげを振りまわすので、あわてて支柱を立てた。

 白い花がかわいいと思った。

 ライラは、毎朝、サヤエンドウが次々に大きくなるのを摘む。そして、その隣に植えたジャガイモの芽がぐんぐん伸びるのを目を輝かせて眺めている。

 あれだけ嫌っていた畑仕事だが、ライラは苦にしなくなったのじゃ。





        第四話 妖精ニーナの育てた娘 


           一


 私はモニカです。

 この夏も、ふたりの子供を連れて、谷間の村に帰ってきました。

 私は九歳のときに引っ越して都に出ましたが、この故郷が恋しくてたまりませんでした。ずっと、チンベル山や谷間の風景、学校のことが夢に出てきましたが、帰る機会はありませんでした。

 大きくなって、都会育ちの主人と一緒になって、子供を二人授かりました。

 四年前に子供たちを連れてはじめて帰郷して、故郷は何も変わってないことに安心しました。

しかし小さい頃、あんなに大きいと思っていた野原の欅は、それは百五十年も経った大木ですが、今見るとどうしてあんなに大きく見えたのか、ふしぎに思います。私の背が大きく伸びたからなのでしょう。

 でも、チンベル山を仰ぐと、平らな山頂が頭の上にかぶさるように迫って、小さい頃に眺めたのと少しも変わってません。この山に見入っていると気持ちがすっきりします。息子たちを雄大なチンベル山になじませてやれて、よかったと思います。

 私は、青白い顔をした風邪をひきやすい息子たちを丈夫にさせようと、あれこれ悩みました。そして、ここの自然の空気に浸らせてやりたくて、夏休みを過ごすことにしたのです。

 休みの最後の頃、主人が迎えに来ます。この村とは縁のなかった彼ですが、今ではこの谷が気に入ってます。

 私はこの谷に親戚や幼なじみなど知り合いが大勢おりますが、その方々と、また新しいお付き合いが始まりました。

 私の一番の喜びは、サラサと会えることです。私たちは仲のよい友だちでした。しかし私がこの谷を離れてから、彼女はとても不幸な目に遭いました。そのことは、あとで話しましょう。

 今は、サラサは幸せに暮らしています。私は毎日サラサの家を訪ねています。サラサは、ワッチルじいさんの家に嫁いだのです。

 私がこの村に暮らしていた頃は、ワッチル爺さんのことは知りませんでした。私が子供だったこともありましょうが、お爺さんは夏の間は山に居ましたし、冬は町に出て、村におりませんでした。

 サラサはワッチル爺さんの孫のヨウベルと結婚しました。私は四年前にはじめてヨウベルと会いました。がっちりした大男です。ワッチル爺さんによく似た赤ら顔で、やさしく微笑みます。

 ヨウベルはお爺さんの羊飼いを継ぎ、夏の間、犬のトーリーといっしょに山小屋で暮らして、五十匹の羊の番をしています。それでときどきサラサは食料などを抱えて出かけます。


 今朝早く、サラサは私の二人の息子を連れて山に向かいました。

 上の九歳のジョンはもう二度も、山小屋に行ってますが、下の七歳のジャックは今日が初めてです。へばらずに小屋まで辿り着けるでしょうか……。

 一昨年、ジョンをサラサに託した時も、私は心配で、一日中、山を仰いでは、うろうろしていましたが、ワッチル爺さんに、「大丈夫じゃ」と、言われました。

 そうです、ジャックはサラサといっしょなら大丈夫です。それに兄のジョンがいますし、サラサのお供の犬のポリィもいますから……。

「山の放牧場はきれいだよ。お母さんも行こう」と、ジョンが言いましたが、私は、無理です。長い距離を歩けません。皆の足手まといになりたくありません。

 子供の頃から一度もチンベル山に登ったことがないので、行きたいのですが、私の代わりに子供たちが登ってくれて嬉しいのです。

 私は、留守番を引き受けました。

 今日、私はサラサに代ってお爺さんの食事の用意をします。それと老犬コリィが小屋にうずくまってますので、世話します。あの犬は去年まではジョンといっしょに山に登ったのですが、今年は元気がありません。代って、今年は若いポリィがついて行きました。


 もう一つ、私も子供たちも、この谷にくる楽しみがあります。それはワッチル爺さんにお話しを聞かせてもらうことです。お爺さんに、森に住む妖精とか、この谷の古いこととかをたずねると、ポツリポツリ話してくれます。それを私はノートに書き留めています。

 ワッチル爺さんは、すぐに、うとうと居眠りして、少しずつしかお話ししてくれません。次の日に続きを催促することもあります。そうやって、ロンペリ博士とマヤラのこと、嘆きの渕のミューレのこと、オムネばあさんのこと、それからマーチャ、エッぺルのことを話してもらいました。

 マーチャは隣の町に嫁いでいきましたが、六十才で亡くなりました。

 ワッチル爺さんの幼友だちのエッペルは、この谷で一番腕のよい家具職人です。

 トーニャは町の学校に行って聖歌隊に入ってました。

 ライラおばさんは私の遠い親戚ですが、とっくに亡くなった方です。

 子供たちは、風の子と友だちの、妖精ニックルのことをとても気に入っています。次にどんないたずらをするか楽しみにしています。

 私は、妖精ニーナのことが気になりました。ロンペリ博士とその妻のマヤラを見守っていたニーナです。ロンペリ博士もマヤラも、もう何十年も前に亡くなった方です。

 今もニーナは元気で暮らしているのでしょうか? 彼女はまだ少女の姿でしょうか?

 本当は私もニーナに会いたいのですが、私のような都会暮らしの者、それも大人になってしまった者には適わないことです。

 それで、これから、私は、ワッチル爺さんにニーナのお話しをねだります。今日は一日、お爺さんのそばに居ますので、たっぷりお話を聞かせてもらうつもりです。



             二 


 朝霧が晴れ、お日さんがチンベルの峰よりも高く昇り、青空が広がりました。

 すっかり緑が濃くなり、山は夏の季節を迎えております。

 麓の谷の、野っ原の欅の樹の陰に、安楽椅子の背に首まで預けたワッチル爺さんがいます。

 ワッチル爺さんは、ほとんど一日中、ああやってチンベル山を眺めています。


「お爺さん。サラサと子供たちは、もう小屋に着いたでしょうね……」

「ああ、着いたとも……」

「ねえ、お爺さん、子供たちは居ませんが、今日もお話しを聞かせてください。

 妖精のニーナは元気でいますか?」

「ニーナは元気じゃ」

「まあ、よかった。ニーナはこの谷に居ますの?」

「ああ」

「よかったわ。もう遠くへ行ってしまったのじゃないか、と心配していました。ニーナは、ずっと、この谷にいるのですか?」

「とうぶん彼女はこの谷を離れないだろうよ」

「会いたいわ。ニーナはどこで暮らしているのでしょうね」

「ニーナはしょっちゅうここに来ておる」

「えっ。本当ですか? 

 でも、どうしてです? 

 お爺さんがお会いになりますの?」

「わしじゃない」

「じゃあ、どうしてニーナがここに来るのです?」

「誰にも黙っていると約束するなら、教える」

「もちろん約束します。教えて下さい。ニーナがここに来るなんて……、うれしいわ。私は誰にも話しませんから教えてください」

「ニーナは、サラサが気に入っているのさ」

「えっ? サラサ」

「そうじゃ」

「まあ、サラサがニーナのお友だちなの!」

「そうじゃとも。サラサにはニーナがついておるのじゃ。わしは、ずっと前から、お日さんに聞いていた」

「そうなの……。びっくりしましたわ。だけど、分かります。サラサはそういう人ですもの。彼女ならニーナとお友だちになります」

「今は、ニーナはサラサを見守っているだけじゃ。いいな、サラサには、黙っているのだぞ」

「もちろんですとも。サラサにも、誰にも言いません。

 サラサは大人になったから、妖精のことは気づかないのでしょう。

 それで、ニーナは、おばあさんになりましたの?」

「サラサの生れる前からおばあさんじゃ」

「そうでしたの。ねえ、ニーナのお話しをして下さい。それと、私が知らないサラサのお話しをして下さい。私はサラサが大好きです」

「そうじゃった。お前さんは、サラサが火事に遭ったときは、もうこの谷に居なかった」

「ええ、私がこの谷を出てすぐに、彼女の家が火事になったのです。私は、ずーっと、そのことを知りませんでした。なんどもサラサに手紙を書きましたが、彼女の返事がないので、サラサは都会に出た私を妬んで、恨んでいるのかと思いました。そうして手紙を書くのを止めました。サラサのことをそんなふうに思うなんて、ばかな私でした。

 四年前に息子たちを連れて里帰りしてはじめて、サラサの不幸を知りました。でもその時は、サラサはヨウベルと親しくなって、幸せを取り戻していました。

 ヨウベルといっしょになれてよかったですね。二人のお父さんたちは親友だったそうで、二人はいいなずけでしたの?」

「いいや、そんなんじゃなかったが、仲のいい夫婦じゃ」

 そうやって、お爺さんがサラサのことを話してくれました。



              三 


 サラサの父のサイカルは村の靴屋の息子じゃった。わしの息子ワミルといつもいっしょに居た。ふたりはよく山小屋に来てわしを手伝ってくれたものじゃ。

 チンベルの頂に登ったし、峠の向こうの村に降りるなどの冒険旅行をしていた。

 サイカルはチーズ好きで、わしの羊のチーズをおいしいと好んだよ。チーズ造りがおもしろかったようじゃ。

 サイカルは山の羊飼いの生活を憧れたけれども、靴屋を継がなければならなかったのじゃ。

 わしの息子ワミルは都会に行きたがった。あいつは一人で町に出て、商会に勤めたのじゃ。最初は見習い給仕じゃったが、がんばって、やがて商売人として独立した。あいつは街で妻を得た。そしてヨウベルが生れた。

 サイカルは村に残った。親父に仕込まれ、腕のいい靴職人になった。そして夏になると、かならず一晩泊りでわしの小屋に遊びにきたよ。結婚してからは妻を連れてお花畑に来た。そう、サラサも毎年登ってきたものじゃ。かわいい子供じゃった。

 サラサは九歳の時、火事に遭った。そのとき母を失った。父は火の中から彼女独りを助け出せたのじゃ。

 あの子は男手一つで育てられたのじゃ。かわいそうに、顔の火傷がひどかったから、学校に行かなくなった。

 サイカルは火事の後は小さな家で靴屋を続けたのじゃ。


 そう言ってお爺さんは口をつぐんで、一休み。疲れたのか目をつむりました。

 私はじっとその顔を見つめていました。

 そうして私は、最初にサラサと出会った時のことを思い出していました。


 二十年ぶりに私はサラサを、その嫁ぎ先のワッチルじいさんのお宅を訪ねました。

 最初、私と息子たちは、サラサに会ってびっくりしました。

 サラサは夏なのに頭巾を被っていました。私たちに右側の顔を見せて話しました。

 サラサが横向いて話すのが不自然なので、私も子供たちもじっと、その顔を見ていました。

 そうしたら、大きくうなずいて、彼女が向き直りました。

 私たちは息を呑みました。

「どうしたの? あなた……」

「火事に遭ったの」

 彼女は頭巾を取りました。

 顔の左半分に大きく火傷の痕があって、色白の顔が無残でした。左の耳たぶにもケロイドが残ってました。左目の眉毛はありませんでしたが、目は大丈夫のようでした。左腕にもやけどがあります。

 私は思わず彼女に近づき、その体を抱きしめました。

「知らなかったわ。かわいそうに……」

 サラサは言いました。

「もう大丈夫なの」

 そして、サラサは私たちに、

「モニカが居なくなってすぐ、火事でお母さんをなくしたの」と、これまでのことを話してくれました。

 私は、彼女がかわいそうで、もういちど彼女を抱きしめました。

 ジャックが、

「おばちゃんの顔、痛くないの?」と、心配そうに聞きましたので、彼女は、

「もう大丈夫。もう痛くはないわ。あなたたちも火には気をつけてね」と、微笑みました。

 息子たちは、ふたりともサラサが好きです。


 今朝、下の息子のジャックは彼女の手にすがって、歩き出しました。

 今日の帰りは、サラサがチーズを運ぶので、ジョンが「手伝う」と言って、大きなリュックサックを背負い意気込んでいました。そんな兄をジャックはうらやましそうに眺めていましたが、自分の小さなリュックサックでもチーズが一つ入ると確かめていましたので、背負ってくるつもりです。

 羊のチーズは香りが独特です。ジョンもジャックも最初は羊のチーズが苦手でした。

「そのうち好きになるわ」と、サラサが言ったとおり、次の夏に来た時は、二人ともすっかり好物になっていました。


 サラサが言っていました。

「小さい頃、お爺さんにいつもチーズを頂きました。羊のチーズはあまりたくさん出来ない物だし、高価なものですが、お爺さんは、『どうだね。このチーズの感想は? いつもどおりかね?』と、私の家に届けてくれるのです。お父さんのサイカルが子供の頃、ワッチル爺さんの息子のワミルといっしょに、山小屋に遊びに行って、羊のチーズを美味しい美味しいと言って、それでお爺さんが、毎年チーズを届けてくれて、チーズの出来の感想を聞かれるのだそうです。私もこのチーズが大好きです。

 ワッチルお爺さんがチーズを持ってきてくれる日を楽しみにしていました。

 そのうちお爺さんに代って、ヨウベルがチーズを届けてくれるようになりました」

 サラサの前に、ヨウベルが現れたのです。

 そしてサラサは幸せになったのです。

「ヨウベルもチーズ作りが上手になりました。どうやら、お爺さんの跡を継ぐことができました。今年はヨウベルは羊を十匹増やしました」

 と、サラサが喜んでいました。 

 そんなことを思いながら、私はワッチル爺さんの顔を眺めていました。



四 


 しばらく目を閉じていたお爺さんが目を開けました。

 私の顔に気づき微笑みました。そして私の視線にうながされ、話を一休みしていることを思い出したのです。

「そうじゃった……。サラサのことじゃ」

 ワッチルお爺さんはサラサのことを話し出しました。

  

 サラサは学校に行かなかったから、いつも一人じゃった。

 サラサは、父を助けて家事をした。そして、空いた時間は森の中にいた。やさしい子じゃから、餌を持って行って小鳥やねずみに与えた。ウサギやリスが恐れずに彼女の周りに近づいた。動物たちが、遊び友だちじゃった。そんなサラサをニーナが気にかけていたのじゃ。

 サラサは、ニーナにいろいろなことを教えてもらったのじゃ。花のこと、小鳥のこと、人間の生き方、赤ん坊の育て方、村のしきたり、そして学校の勉強のことも、な……。そうやって彼女が生きていくための知恵を身につけたのじゃ。

 サラサは父のサイカル以外、ほとんど誰とも言葉を交さなかったが、世間のいろんなことを知っているのはニーナから学んだのじゃ。

 もともと聡明な子供じゃったから、勉強などは独りでやっていた。父のサイカルが教科書を取り揃え、物語の本を与えたよ。

 料理、裁縫は父のやる様子をみて、自己流で工夫して上手にやった。あの子は料理が上手じゃよ。

 人々は後になって言った、

「サラサは、母に教えられなくとも女性らしいたしなみを身に付けた。彼女の気品は生まれながらに備わったものだ」とな。

 誰も彼女にニーナがついているなんて知らないから、そう思ったのじゃ。

 ニーナにとっては、サラサは自分の娘なのじゃ。サラサが傷つかないよう、ずっと見守ってきたのじゃ。

サラサがヨウベルを好いていると知って、ニーナは喜んだ。それで内気なヨウベルを励まし、後押ししてやったのじゃ。


 ヨウベルは父母といっしょに都会で暮らしていた。少年のころは夏休みになるとこの谷に来て、わしの山小屋ですごした。

 そして青年になってヨウベルは大工になった。しかしある時から、この小屋に来たまま、わしを手伝うようになったのじゃ。あいつなりに、都をのがれた事情があったのじゃろう。武骨な男だから、都会暮らしよりも羊相手の山小屋が性に合っていたのじゃ。


 サラサはスカーフを顔にかぶって暮らしていた。人前に出るときは、目だけ出して顔を覆った。

 ヨウベルははじめて彼女を見たときから、気にかけ、いたわったようじゃ。下山するたびに、チーズを届けたり、靴の修繕をサイカルに頼んだり、屋根ふき修理や畑の力仕事を買って出たり、用事にかこつけてサラサの家をたずねたのじゃ。

 ある日、ヨウベルがサラサを山小屋に連れてきた。

 彼女が遠出した、初めてのことじゃった。

 小さい頃、父母に連れられ、毎年、訪れていたチンベル山のお花畑を、どうしても、もう一度見たい。その気持ちがサラサをヨウベルに、「連れてってちょうだい」とせがませたのじゃ。ヨウベルの気持ちが通じたのじゃ。


 そう言ってお爺さんは疲れたのか、一休みしました。

 私は、コップにお水を汲んできました。

 お爺さんは、おいしそうに飲み干しました。


 そして、二人は恋におちたのじゃ。

 ヨウベルは、生涯をこの純粋な乙女に尽くそうと決意したのじゃ。あのシャイな男が、がんばった。

 ヨウベルはサラサの幸せだけを考えている。

 ヨウベルはお日さんに語っていたよ。

「俺のような貧しいところに嫁にきてくれる人なんて居ないと思っていた。

 あの人は火事に遭わなければ、とても美しい娘さんだから、俺なんか側に近づいて拝むことも出来ない人だった。

 気立てのいい、賢い人だ。俺は彼女と一緒に居れてうれしい。俺は、彼女が幸せでおれるよう尽くすだけだ。

 俺は山の上で暮らしていて、いずれ、じいさんを失う日が来たら、独りになると思っていた。

 サラサが俺のことを愛してくれてると知って、とても幸せだと思う。

 でも、俺はこの幸せに浮ついていない。サラサを抱きしめる時、この天使のような人と一体だと思うけど、いずれ失う日があることを覚悟している。

 俺は大事な人といっしょに居られる、今の時を大切にしたい」


 そして、サラサもヨウベルの幸せだけを考えているのじゃ。

 サラサはお日さんに告げたよ。

「私のような者を愛してくれるなんて、やさしくて、誠実な夫です。私はお父さんに大事に育てられました。そしてお父さんが亡くなる時、私を引き継ぐように、ヨウベルが居ました。私は幸せ者です。

 でも、私は自分のことはわきまえています。

 私は、どんな大事な人でも、大切な物でも、失うことがあると知っています。火事で母をなくし、家も失いました。そして私は、人から、かわいい、きれいだと言われた容貌を失い、人に顔をそむけられるようになりました。そして一番自分をかわいがってくれた父も亡くしました。

 大事なヨウベルも、いつの日か失う時があるかも知れないと、覚悟しています。私はヨウベルの幸せを願って生きていきます」


 あの二人はとても仲のよい夫婦じゃ。二人とも相手のことばかり考えておる。

 サラサの心はどこにも行かない。

 ヨーベルの心も、どこにも行かない。

 二人とも、相手に愛してもらって幸せだと思っている、謙虚な者たちじゃ。

 そしてあの二人は相手の気持ちを支配しようとしない。相手の愛を確かめようとか、独占しようなんて考えないから、嫉妬で苦しまない。相手の心変わりを心配することなんかない。

 相手に甘えてすねるとか、依頼心はない。相手の気持ちをもてあそんだりはしない。

 愛を求めて、人は苦しむのじゃろ。

 あの者たちは一人で山や森に溶け込むことを知っているから、どんなことがあっても生きていける。

 でも、あの二人は、一人だけで生きることの寂しさ、つらさを知っているから、仲がいい。


 老犬コリイが、気分がいいのか、小屋からよたよた這い出してきて、お爺さんの傍らの日溜りに伏せた。

「この犬は、ヨウベルが町から連れてきた犬じゃ。サラサと結婚してからは彼女と留守番して、ずっと、この谷におる。この間までは、サラサが山に登る時はいっしょに行っていたが、すっかり弱ってしもうた。

 わしもこいつも、サラサの世話になっておる」

 そう言うと、白いひげだらけの顔は、疲れたように目を閉じました。



             五 


 私は、サラサと山へ登った息子たちのことが気になりますが、待つしかありません。日暮れまで戻ってこないでしょう。

 私は、三時のお茶を用意しました。

 ワッチル爺さんが好きな、ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶です。 

 お爺さんは、熱いカップをすすって、「うまい」と、うなずきました。

 ワッチル爺さんは、なんでも、「ありがとう」と言って受け入れてくれるので、お世話のしがいがあります。でも、お爺さんは、自分の身の回りのことは、ゆっくり、自分でやります。


 きのう、私は、ワッチル爺さんが、私のマイケル大叔父と小学校の同級生だったと知りました。もう一人、エッペルさんもそうです。

「お爺さん、私の父方の祖父の弟のマイケルと同級生だったでしょう?」

 お爺さんは、一瞬、遠くを見るような顔をしましたが、

「ああ、そうだ。あいつが亡くなって十年ぐらい経つか……。

 マイケルは秀才だった。奨学金をもらって都の学校に行って、苦学した。この谷に戻ってきて、教師になった」

 マイケル大叔父は、村の学校の校長をしていましたが、規律に厳しくて、生徒たちにとても怖がられたようです。小さな生徒にも、「勉強しなさい。わしの子供の頃は、もっと勉強したぞ」と、口癖のように話したと伝わってます。

 ついつい、私はワッチル爺さんとマイケル大叔父の生き方を比べていました。

「大叔父の晩年は不幸でした。努力家で自分に厳しい人でしたから、他の人にも厳しかったのでしょうか……。

 教え子たちと付き合いがなくて、寂しそうでした」と、私が言うと、

「そうかのう。

 未熟な子供たちを教育する教師には大きな使命がある。大変な仕事であるが、その反面、教師は絶大な権力者になる。

 子供は、教師に支配されたと思ったら、大きくなってから寄り付くまい。自分のことを親身になって考えてくれた人だ、と思う気持ちが敬愛するのだ」

「学校の先生はいつも大勢の生徒に囲まれていましたから、マイケル大叔父は一人で居るのが寂しかったのでしょうね」

「マイケルは教師になって、ひたむきさを失ったのだろうよ。知らず知らずに人に影響力を及ぼす立場にはまり込んだのじゃ」

「子供を支配していたのですか?」

「教師のマイケルは、子供たちにプレッシャーを与える側に居たのじゃ。でも、そんな自分に気づかない」

「大叔父はそうかも知れませんね」

「大勢の子供の中には孤独な者がいる。教師はそんな子に手を差し伸べねばならない。

 学校は、子供たちを教室に集めて知識を教え、競わせる場だが、内気な子供はつらい。鶏でも狭いゲージにたくさん押し込められると、皆からつつかれて血だらけになる鶏が出てくる」

「私は、上の息子のジョンが学校に上がった頃、友だちができなくて心配しましたが、大きくなった今は大丈夫です」

 お爺さんは大きくうなずきました。

「学校は、発育の早い子と遅い子が、ごちゃまぜになっていて、勉強が得意でない子が大勢居る。友だちが出来て楽しく学校に通えれば、それでいいのじゃ。どんな子も、皆、大きくなる。そして、いつのまにか社会で生きて行く知恵を身につける。

 勉強して知識を得ることは大事なことだが、学校の成績がすべてじゃない。

どんな境遇にあっても、ひたむきに生きる人はえらい。そして強いのじゃ」

 そう言って、おじいさんは目をつむりました。

 そこで私が思ったのは、ひたむきな人が妖精に好かれるのだということです。


 私は、思い出しました。

 幼い頃、私と姉が妖精のことを話していたら、マイケル大叔父が、「妖精なんか、いるものか」と吐き捨てるように言って、私たちは反発したことがありました。

 そんなことを思って、私はワッチル爺さんに尋ねました。

「エッペルさんは、妖精がいることを信じていますか? エッペルさんは、ニックルにいたずらされたと、気づいていますか?」

「どうじゃろうか? そんなことを考える暇はなかったろう、一生懸命仕事をしていた。息子に店を譲ってからは、気の向くまま一人で手の込んだ家具を作っている」と、目を閉じたまま返事が返ってきました。

 エッペルさんは晩婚でしたが、やさしい奥さんと出会い三人の子供に恵まれました。

 ワッチル爺さんは早くに奥さんを病で失い、男手で一人息子を育てたそうです。

 羊飼いは貧しい暮らしです。年に一度毛を刈り採って収入を得ます。他に、乳を搾ってチーズを作り、最後にとさつして食肉にします。だから、ワッチル爺さんは冬の都で大工仕事をして夏の食料を得たそうです。

 そんな貧しい羊飼いのヨウベルに嫁いだサラサは、父が残してくれた畑があってよかったと思います。


 さて、マイケル大叔父の生き方をワッチル爺さんと比べるとまったく正反対です。

 大叔母の畑仕事を、大叔父はいっさい手伝いませんでした。およそ草花には興味を持たなかった人でした。大叔父の知っている花はバラぐらいでしょう。マイケル大叔父がもっと自然に接しておれば、いま少し幸せだったでしょう。

 そして、今、私が知ったことは、ワッチル爺さんは、お日さんに聞いたことではない、自分自身の考えを言う時はシビアな批評家だということでした。

 さあ、私は晩御飯の用意にかかりましょう。





           第五話 ニックルの変貌


             一 


 日が沈む頃、チンベル山から、三人が戻って来ました。

 ジョンは、意気込みどおり、大きな丸いチーズを三個、リュックに入れていました。九才のジョンは力があります。

 七才のジャックも、チーズを一つリュックに入れていました。ジャックにとっては大変な荷物だったでしょう。サラサは背負子に六個積んでいましたが、ジャックが音を上げたらその荷物も背負うつもりのようでした。

 サラサが

「途中、ジャックが少し遅れて、心配しましたが、自分で靴の紐を締め直し、元気を取り戻しました。 

 チーズを持ってあげると言っても、首を振って渡しませんでした」と、笑みを浮かべました。

 二人は、サラサを手伝うことが出来て満足そうでした。頼もしい息子たちです。


 山から戻ってくるとすぐ、サラサが、

「このチーズを一つ、ポルタの家に届けて来ます」と、出かけようとすると、ジョンが、

「僕が、届ける」と、両腕でチーズを抱えて走って行きました。

 ジャックも行きたそうでしたが、くたびれて立ち上がれませんでした。

 ポルタの家は隣ですが、百メートルほど離れています。ポルタはジョンと同じ年の九才で、右足が不自由でした。

 ジョンが息せき切って帰ってきました。

「ポルタはね、僕とジャックがチンベルの肩の小屋へ行って来たと言ったら、すごくうらやましがった。だから、あとで山の様子を詳しく話してあげる約束をした」

 それから、私が用意した晩ご飯を皆で頂きました。


 宿泊先の親戚の家に帰ってシャワーを浴びてからも、二人は楽しそうに話しました。

「ヨウベルおじさんが、小屋を立派に直していたよ」と、ジョン。

「お母さんも来ればよかった。来年は僕が手を引いてあげるからいっしょに行こう」と、ジャックが誘ってくれました。

「ゆっくり歩けばだいじょうぶだよ」と、ジョンも励ましてくれます。

 私は、お花畑を見たい気持ちもありますが、息子たちの土産話で満足します。

 ジョンは、山頂に行きたかった様子で、

「いつか、泊りがけで行く」と、言いました。

 私は、ジャックに、少し遅れた時の様子を聞きましたら、

「僕が、足が痛くて、皆から遅れて歩いていた時に、おじさんといっしょだったよ」

「えっ? そんなおじさんと出会ったかい」と、ジョンがふしぎがりました。

 そうやっている内に、二人は寝てしまいました。

 あとでサラサに、ジョンが会ったというおじさんのことを聞いても、彼女も、

「途中で誰にも会わなかったわ」と、首を傾げました

 ふしぎに思って、もう一度、ジャックに聞くと、彼は、後ろから来たそのおじさんに、「靴の紐が解けている。危ないよ」と、注意され、「下り道は、しっかり紐を結びなさい。そうすれば、爪先が痛まない」と、教えられたそうです。

「リュックのバンドを短くして、荷物が肩から離れないようにしなさい」と、言われたとおりにすると、荷物が楽だったそうです。いつの間にかおじさんは居なくなった、とジャックが言いました。

 そのことがずっと、私の頭の中にひっかかっていました。



           二


 次の朝、子供たちが、「ポルタの家に遊びに行く」と、出かけました。

 ジョンもジャックも、すっかり、ポルタと仲良くなったようです。

「あいつは、一人でなんでもやるんだ。すごいやつだ」と、ジョンが感心すると、ジャックが、

「とても、やさしい人だよ」と、付け加えました。

 そのまた次の日、昼になっても二人が帰ってこないので、私は心配しました。

 ポルタの家に行きましたが、子供たちは居ません。

 それで、サラサの家に駆けつけて、ワッチル爺さんに相談しました。

「大丈夫じゃ。二人は、ポルタといっしょに森にいる。

 ポルタは、ジョンとジャックを自分の秘密の城に連れて行ったのじゃ。大きな倒木の洞だ。

 放っておきな」

 私は、ほっとしました。

「そうですね。ワッチル爺さんは、お日さんに聞けばなんでも分かりますね」と、うなずくと、微笑んだお爺さんが声を潜めました。

「妖精ニックルがついているから大丈夫じゃ」

「えっ? ニックルが、ですか? どうして? 

 ニックルは元気でしたか?」

「ニックルは、元気じゃ」

「よかったですね。まだ少年のままですか?」

「ニックルは、中年男に姿が変わった」

「えっ! エッペルさんにいたずらした時は、少年だったでしょう」

「そうだ、ニックルは人の心の痛みに鈍かったから、いたずらばかりしていた。

 そんなニックルはあまりにも長い間、少年の姿で居過ぎた。それで、中年の姿になったのじゃ」

「ニックルは、ポルタの隠れ家の森に居るのですか?」

「そうじゃ、ニックルはポルタのそばに居る」

 そこで、ワッチル爺さんが、私に語ってくれたニックルとポルタの話です。


 ポルタは、小さい頃に患った小児麻痺のせいで右足が不自由だった。松葉杖で歩いていた。

「君は右足を手術すれば、杖なしで歩けるようになる」と、お医者さんに言われ、手術を受けたのじゃ。

 最初は、長い杖に両手で縋って、右足をひきずるようにして、やっと歩いた。それから、杖を放して歩く練習を始めた。両手を広げバランスをとりながら足を踏み出すのじゃ。

 その様子を見て、最初は、「どうした?」と、いぶかったニックルだが、すぐに事態を飲み込んだ。そして、気丈なポルタのリハビリに声援を送ったのじゃ。

 脚の長さが違うから、足を踏み出すたびに、身体が、ゆーら、ゆーら、大きく揺れる。

 ポルタは懸命じゃった。痛みに、顔をゆがめた。

 しかし、村の意地悪な子供たちが見ていた。

 ポルタが杖を放して歩行練習を始めると、その後について、真似して身体を揺らしてからかった。ポルタは、気づくと、とても悲しそうじゃった。

 でも、ポルタはそんなことで挫けなかった。

 どうしても、歩けるようになりたかったのじゃ。


 ニックルは、風の子に頼んだ。

 次の日、ポルタの背後に並んで、にやけていた三人の子供の帽子が、突風で吹き飛ばされ、追いかけたが、皆、川の中に落ちたのじゃ。

 それから何日かして、再び、彼らがポルタの後について、真似しようとした時、つむじ風が襲って、ようしゃなく顔に砂ぼこりをぶっつけたから、悪童どもは泣き出した。


「それでは、いたずらニックルは、おとなしくなったのね」

「いや、大人の姿になっても、ニックルのいたずら好きはとまらない。こっそり、いたずらしては、あわてて、その後始末をしている。

 この間の嵐の後も、隣の、ポルタの家のおばあさんが、庭の落ち葉を半分ほども掃き集めた時に、ニックルが風の子と組んで落ち葉の山を吹き飛ばした。

『まあ、せっかく庭を半分きれいにしたのに!』と、悲鳴を上げ、それから両手を広げ、天を仰いだおばあさんだった。

 ニックルは、手を打って喜んだ。

 しかし、気を取り直したおばあさんが、大声で、

『まさか、ニックルのいたずらじゃないでしょうね。私は忙しいのよ』と、咎めると、あわてたニックルは風の子をせかし、一枚残らず落ち葉を森の中まで吹き飛ばしてしまったのじゃ」


 私は、ジャックが山道で出会ったのは、妖精のニックルおじさんだったと知りました。





           エピローグ


 私はモニカです。

 この夏休み、子供たちといっしょにこの谷で過ごし、主人が迎えに来て、都に帰りました。

 そして、つい先日、サラサから手紙をもらいました。

 犬のコリィが死んだことと、ワッチル爺さんがすっかり弱って、たぶん、この冬、もたないかも知れないと書いてありました。

 私はそんなことは考えずにお別れをしましたので、居ても立ってもおられず、今日、一人でお爺さんのお見舞いにきたのですが、葬儀が済んだばかりでした。ヒゲだらけの赤ら顔を思い浮かべながら、お墓に参りました。


 谷間の墓地の上は薄く灰色がかった青空です。

 気のせいか寂しそうなお日さんが、高く、輝いています。

 振り返ると、真っ白く光るチンベル山が覆いかぶさるように立っています。

 野の羊たちが薄茶色の草を食み、ひと群れの小鳥たちが収穫後の畑に散らばっています。こんな穏やかな光景は、まもなく雪に閉ざされる、つかの間のことです。


 サラサもヨウベルも大事な人を失いましたが、二人とも、いつか迎える運命が来たと受け止めていました。これから二人だけの暮らしが始まります。ヨウベルは、エッペルさんの末の息子の依頼で、この冬から大工の仕事を再開するそうです。そして羊飼いの仕事は村の少年に託すと言っていました。


 ワッチル爺さんの大きな欅の樹はすっかり葉を落としていました。葉っぱの一枚一枚に宿っていた精たちはどこへ姿を消したのでしょう。抜け殻のような茶色い落ち葉が足元に積み重なっています。

 でも、欅の梢をよく見ますと、ところどころに薄茶色の葉っぱが固ってくっついています。葉っぱが緑のうちに小枝が折れて、葉が枯れても離れる力がなくなっているのです。

 これから木枯らしが吹き荒れますので、春の芽吹きの時には、これらの枯れ枝はなくなっているでしょう。


 私はお爺さんが語ってくれた、妖精ニーナとニックルの話は、ノートに整理してます。しかし、その他の妖精たちのことを聞かずじまいだったのは、残念です。

 でも、私は、ひょっとしたら妖精たちの影に気づくかもしれないと考えると、胸が躍ります。

ニーナはサラサのお母さん役ですし、ニックルはポルタの保護者です。そして、ニックルは私の息子のジャックをも見守ってくれるでしょう。

 私も、来年、チンベル山のお花畑に挑戦してみようと考えてます。主人が行ってみたいと言いだしましたので、私だけ置いていかれるのは困ります。私は毎日少しずつ足慣らしをしています。

 また、チンベル山のことを綴れればと思っています。

                            (おわり)


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