76・殿下、恋愛対象が変わったのですか?
「チヨちゃん、鍵を出して、カイ様を部屋に案内してあげてくれる?」
「え? は、はい、只今!」
タキは殿下の言葉を掻き消すかのように、突然誰かの鍵を出すように指示を出し、チヨは慌ててフロントに回った。私はシンに背中をトンと押されて、視線の微妙な動きで二階に避難しろと指示を出された。
「お待たせしました。では、お部屋まで案内します」
「ああ、ありがとう」
私はチヨに対して、教会の時の様にハスキーな少年のような声を出して礼を言ってみた。多分、これで正解でしょう。
タキは架空の男性名を出して、それが私の名前であると殿下に思わせようとしている。つまり、殿下に対して、その人は女性ではないですよと暗に伝えようとしているのだ。
確かに今の殿下は、何故か私に対して一目惚れでもしたかのように、うっとりとした視線を向けている。
そう、これには見覚えがある。サンドラに向けていたのと同じ視線だ。
しかしこれはどういう事なのだろうか、今の私はサンドラのような豊かな黒髪でもなければ、普段の美女風メイクもしておらず、変装用の真っ白なショートボブのウィッグに、インパクトの強いゴシックメイクを施していて、前世のビジュアル系バンドにでも居そうな中性的な姿のはずなのに、これのどこが美女好きの殿下の琴線に触れたのだろうか?
確かにこの姿は少し幻想的で美しいかもしれないけれど、一応肩まであるとはいっても、この髪の短さならば少年だと思われてもおかしくない。
もしかして、サンドラに捨てられたショックで趣味が変わった?
スッピンの私には散々幽霊のようだと言って蔑んでいたくせに、ちょっと……ではないけど、化粧を施しただけで、こんなにも態度が変わってしまうものなのですか? あなたにとって、人の中身はさほど重要ではなく、あくまで見目の麗しさだけが好きか嫌いかの基準なのですね。
なんて薄っぺらい人。
もしもあなたと婚約している間に、私がおじい様の言いつけを破ってしっかり化粧を施していたとしたら、あなたはこうして、私にも賛辞の言葉を浴びせていたのでしょうか。
本当に、そちらから婚約を破棄してくださって、ありがとうございました。どうぞこれからも、私の事になど興味を持たず、そのまま捨て置いてくださいませ。
私は殿下の前を通り過ぎる時、一応礼儀としてペコリと頭を下げてから階段を上った。
「お前、名はカイと言うのか?」
殿下は階段を上る私に声をかけてきた。
私はまさかという思いで振り向いて返事をしたけれど、今考えていた事が影響してしまい、思った以上に冷ややかな声が出てしまっていた。
それに自覚はないけれど、殿下に向ける視線も、見られた相手が凍りつくほど冷たいものになっていたようだ。先ほどまでポーッとしていた殿下の表情が、目が合った瞬間に硬くなり、一瞬だけ怯えたような表情を見せた。
「それが何か?」
殿下は私に冷たく見下ろされて、次の言葉が出てこないようだった。なので軽く会釈して階段を上り始めたのだけど、殿下はまた声をかけてきた。
「待て、少しお前と話がしたい。そうだ、この宿の食堂は今日はもう休みなのだろう、私がレストランに連れていって夕食を食べさせてやるから、荷を置いたら一緒に行こうではないか」
は? 何を言っているの、この人? 本気で私を何だと思って声をかけているのかしら? 少年だと認識していながらこんな事を言っているなら、サンドラに振られた事で女性不信になり、恋愛対象が男性に変わったと思われても仕方が無いですよ。
明日になれば、私はすでに旅に出たという事にして、金輪際この姿で会う事はなくなるのだけど、その代わりその後は、宿屋の女将ラナとして会わなければならないのね。
ああ、もう! なんて面倒なの!
「……残念ながら、あなたの言うレストランというものには、この身形では入る事も出来ないでしょう。ですからどうぞ、他の方をお誘い下さい。申し訳ないのですが、とても疲れているので、食事よりも先に、今はすぐに休みたいのです」
「あ……ああ、そうか。それはすまなかった。では、しっかり休め」
私は会釈して、今度こそ二階の空き室に入る事が出来た。
チヨは一緒に部屋に入り、ガタガタと震えながら綺麗に整えられたベッドに腰掛けた。
「ラナさん、よく平気で話せますね。しかも、お食事のお誘いを断るなんて事して、大丈夫なんですか?」
「それはまったく問題ないわ」
殿下は自分の気に入った相手にはことさら甘いもの。それよりも、シンとタキの二人に任せてしまって大丈夫かしら? こうなってしまっては、殿下もすぐに帰るでしょうけど。
シンには貴族や王族への対応の仕方を教え込まなくては駄目ね。言葉遣いだって、タキはある程度出来るというのに、シンはわざとかと思うほど粗野な時がある。
あれを矯正してしまえば、どんなお客様が来てもヒヤヒヤする事も無くなるわ。
早速今夜からでも始めましょう。彼らが自分たちの身を守る為には、最低限必要な技能だもの。
コンコン、とドアをノックして、タキがドアを開けた。
「ラナさん、今度こそもう大丈夫だよ。部屋に戻って着替えたら?」
「ありがとう、タキ。チヨ、下へ行きましょう」
「タキ、もう王子様は帰ったんですか?」
「あれからすぐに帰ってくれたよ。本当に何をしに来たのかな?」
本当、自分は名乗りもしないで、用件も伝えずあの態度。その上偶然居合わせた宿の客に興味を持つって……。
ウィルフレッド殿下はとても忙しそうだけれど、フレドリック殿下は今まで時間を割いてきたサンドラを失い、暇な時間を潰すための「誰か」を欲しているのかしら?
しかもそれは貴族令嬢などではなく、また平民の中から。
あ……貴族令嬢はもう誰も相手をしてくれないのかもしれないわね。
私は一旦自分の部屋に戻り、顔を洗って衣装も着替え、いつものメイクを施してから食堂に顔を出した。
するとフロントには、先ほど私が通りで見かけて、誰なのか思い出せないまま見失ってしまった男性が居て、チヨから部屋の鍵を受け取っていた。
チヨの反応を見ると、かなり驚いている様子。
それもそのはず、いつもなら全てをフードとマントに覆い隠され、その姿を見た事が無かったの相手ですもの。
「リアム様、お帰りなさいませ」
「ああ、女将、ちょっと話をしたいのだが、今、時間はあるか?」
「ええ、私もお話ししたい事があります。どうぞ、この奥の私の部屋へいらしてください。そちらで話しましょう」
今日の姿を見ると、リアム様はフレッド様に伝えておいた私の提案通りに、後ろに撫で付けていた髪を下ろして、色付きガラスの眼鏡をかけて行動し始めたようだ。フレッド様はドSっぽくしたけれど、リアム様はあの真面目そうな姿からはかけ離れた、ちょっと軟派な雰囲気になっていた。
シンとタキには巫女様の事も報告したかったけれど、二人には夜に食事をしに来てもらうという事にして、一旦別れた。
私の部屋に初めて入ったリアム様は、フレッド様と同じ反応を示し、その植物の多さに驚いていた。そして本題に入ったリアム様は、私が相談したかった人の名を口にした。
「女将、いつからこの宿に、第二王子のフレドリック殿下が出入りしている?」