68・出会いの記憶、別れの記憶
気付けば自分の背丈ほどの生垣の壁に囲まれた狭い通路を、私は何も考えず颯爽と突き進んでいた。
えっと、ここは何なのかしら? 突然こんな所から始まるなんて、困ったわ。ちゃんと出口はあるんでしょうね?
「おい! お前ここで何をしている! ここは俺の迷路だぞ! 俺より先に入って楽しむとは、許せん! さっさと出て来い!」
え? ここって迷路? 私、自分が方向音痴だってこの間知ったばかりなのよ。どうしよう、どっちに向かって進めばよいの?
少し離れた場所から少年の声が聞こえて、私はその声のする方へ振り返った。振り返ったところで、今通ってきた緑の壁が続いているだけなのだけど。
どうやら、少年は私がこの迷路に勝手に入った事を怒っているようだ。
「誰? 私も出たいのだけど、方向が分からなくなってしまったの」
「お嬢様、そこをまっすぐ進んで、二つ目の角を右です!」
え? 今のは私の侍女の声だわ。
天の声のように高い位置から聞こえるけれど、上を見ても彼女の姿はどこにも見えなかった。
まっすぐ行って、二つ目を右? というか、どっちにまっすぐ? 体が向いている方? 顔が向いている方? こういう時は、体が向いている方かしら。
「ああ、反対です。そちらでは無く……」
反対? 顔が向いている方向に進めば良かったの? えっと、じゃあ、あっち?
私は侍女に指示されるまま、キョロキョロしながら方向転換を繰り返し、もう自分がどの辺りに居るのかまったく分からなくなってしまった。
一旦落ち着こうと思った私はその場に立ち止まり、とりあえず深呼吸して辺りを見た。
足元の芝は枯れていたり剥げていたりで、あまり手入れが行き届いていないようだ。その代わり両サイドの生垣の壁は完璧と言えるほど綺麗に刈られて、目印になりそうな所は見当たらなかった。
あら? ちょっと待って、さっきの男の子の声、あれってたまに夢に出てくるあの子の声じゃない? ってことは、これは夢の中? 私、またあの男の子の夢を見てるの?
「おーい、聞こえるか? 俺が今行くから、そこから動くなよ。そうだな……気が紛れるように、歌でも歌って待っていろ」
歌? 歌って急に……。
「歌? 歌……えーっと……ララララ、ラ、ラーララ~ラ~ラ~」
「フハッ、聞いた事の無い歌だな……メロディーは悪くないが、どこの言葉だ?」
笑われた。
ん? 言葉? やだ、うっかり日本語のまま歌っちゃってたわ。じゃあこの後からはハミングで。
この曲は、待ち合わせ場所にいつまで経っても現れない、時間にルーズな恋人への不満を歌ったもので、私が転生する直前に流行っていた歌だ。歌詞の中に、早く迎えに来てという内容が含まれていて、今の状況にあっている気がした。
その曲のBメロが終わって一番盛り上がるサビに入った時、タイミングよく私の視線の先にミルクティー色の髪の男の子が勢い良く現れた。私は歌うのを止め、嬉しくて、思わず飛びついてしまった。
しかし頭の中ではその曲は流れ続けていて、まるでドラマのワンシーンを見ているように感じた。でも現実はドラマのようにはいかなくて。
良く見れば彼の方が私よりも小さくて、勢い良く後ろに倒れてしまったけれど、その一帯は芝が青々と茂っていたおかげで、衝撃はあってもそんなに痛くはなかった。
少年は私を見て笑い、友達になろうと言ってくれた。
ああ、そうか、私とこの子はこれをきっかけに仲良くなったんだわ。
ん? でも、これってただの夢よね。
何を納得してるのかしら。前に見た夢と繋がってる気もするけど、今まで見た夢より男の子が小さい感じね。
場面は変わって、私はウキウキしながら迷路のある場所に向かって走っていた。
迷路の前には、先ほどより大分成長した男の子と、従者らしき青年、それに、何故か魔道師が立っている。
さっきまで迷路の中で男の子と話していたのに、なんの脈略も無く突然場面転換してしまったようだ。
こういうところが、夢の中という感じがする。
私が男の子の前に着くと、フードで口元しか見えない魔道師の男性が一歩前に出て、手の平を私に向け、何かを呟いた。それはきっと、私に話しかけたのではなく、何かの呪文のようだった。
なぜかしら? 場面転換してから、まるで無声映画のように無音になってしまったわ。口元が動いているのは見えるし、周囲は風が吹いているのも分かるのに、人の声も、草木の揺れる音も、何の音も聞こえない。
見ている景色もセピア色で、そこにいるはずの人達の顔は、自分の侍女の顔までぼやけてしまってよく見えなかった。
男の子は私に向かって、何かを言った。
その時私は、これはあまり楽しい雰囲気では無いと感じた。
何を言ったの?
聞きたいけれど、聞きたくない。
口元は見えていたから、読唇術で、彼が何を言ったのか思い出してみた。
ラナ、ツギニオレタチガアッタトキニハ、モウ
その言葉を読み取った瞬間、辺りは真っ白になり、少年の声だけが耳に届いた。
「ラナ、次に俺達が会った時には、もう___」
そこで目が覚めてしまった。
「……なぜ? 彼は私をラナと呼んだ。私、子供の頃に出会った大切な誰かを忘れている……の?」
気がつくと、私はボロボロと大粒の涙をこぼし、これまでで一番感情が高ぶっていた。
目覚める前から泣き過ぎて、しゃくりあげてしまいそうになるのを両手で口を押さえて我慢した。
こんなに悲しい気持ちが残っているのに、やっぱり夢で見たものはすぐに薄れていってしまう。
それでも今回は忘れたくなくて、夢の記憶を呼び起こそうとするけれど、無情にも、実際に聞こえている小鳥の鳴き声や時計の針の音などが、私を現実に引き戻してしまった。
(ラナ様、また悲しい夢を見たのですか?)
「おはよう、ヴァイス。ええ、とても楽しくて、悲しい夢だったわ。私、大切な人を忘れてしまっているみたいなの……」
「プギー、プギップギッ」
(その夢に出てくる少年が、記憶の蓋の正体ではないのかと言っています)
レヴィは、度々私の夢に出てくる少年との間に起きた辛い経験が、記憶の奥に押し込められて蓋になっているのではないかと推測した。
「でも、名前も分からないし、どこの誰なのかも分からない。いつも出てくる場所は同じだと思うけど、それがどこにあるものなのかも分からない。覚えているのは、その男の子がミルクティー色の髪だったという事だけよ」
私は顔を洗いにバスルームへ向い、自分の顔を鏡で見た。
「酷い顔。そんなに泣くほど、あなたはあの子の事が好きだったの? 夢に見るほど好きという思いは残っているのに、その存在を忘れてしまうなんて……余程辛い思いをしたのね」
でも今回は、最後の言葉だけが耳にしっかり残っている。
『ラナ、次に俺達が会った時には、もう___』
この続きは、赤の他人だ、なのかしら? 私が一方的にあの子に嫌われた? あの男の子の表情までは見えないから、どんな感情で言った言葉なのか、予想しにくいわ。
感情を押し殺していたようにも感じるし、寂しそうな感じもした。
「あの夢は、ただの夢じゃなくて、私の失った記憶なのかしら? じゃあ、あの子は誰? エヴァンじゃないし、従兄弟でもない。せめて名前を思い出せたら……。一緒にいた侍女に連絡を取って聞いてみる? 今日にでも手紙を書いて、子供の頃の事を教えてもらおうかしら」
私は身支度を済ませ、少し早いけれど、厨房に向かい、いつも通り朝食の準備を始めた。
ご飯が炊けるのを待つ間に、裏の花壇の水やりをして、家庭菜園に実った野菜をいくつか収穫した。小さな声で歌を歌いながら、私室の植物達にも水やりを済ませた。
シンに貰ったブルーデイジーは、今は寝室の窓辺に移動してある。どうやらそこがレヴィの寝床になっているらしいのだ。
「ふふ、可愛い。もっとたくさん増やしたいから、親方さんに相談してみようかしら。増えたら、シンの所におすそ分けしたいわ。彼らの所も殺風景だったものね」
軽く掃除まで済ませて厨房に戻ると、ご飯が炊けたところだった。収穫した野菜をお味噌汁の具として使い、お客様の人数分のおにぎりと、玉子焼きなども作って準備は完了した。今日は休日なので、ちょっと手抜きでチヨと自分の朝ごはんも同じ物にした。
「おはよう、女将。今朝は早いな」
「あ、おはようございます、フレッド様。もうお出かけですか?」
「いや、いい匂いに釣られて降りてきた。どうやら、タイミングが良かったみたいだな」
「ふふ、出来立てですよ。どうぞ、座ってください。今お出しします」
フレッド様は深くフードを被った状態で、カウンター席の中央に座った。ウィルフレッド殿下が王太子になれば、きっとこの方達は今以上に忙しくなってしまうだろう。今どんな状況なのか、聞いてみたい気もするけれど、この方達に殿下に関係する話題を出すことは出来ない。
どこまで聞いても大丈夫なのかしら? 最近忙しそうですね、は駄目?
「どうぞ、お味噌汁の具は、うちの畑で採れた野菜なんですよ」
「へえ、畑なんかあったんだな。もしかして、この建物の裏側も、宿の敷地なのか?」
「ええ、その扉の向こうはプライベートスペースで、裏口に繋がっています。一応、小さい庭があるんですよ。この間、綺麗な花壇も作ったので、機会があれば、是非覗いてみてください」
リアム様に提案したイメチェンの件は、結局どうする事にしたのかしら?
このフード姿のままでは怪しくて、悪目立ちしているわ。
私は厨房の後片付けをしながら、リアム様はまだ起きてこないのか聞いてみた。
「あの、リアム様はまだお休みになっているのですか?」
「リアム? あいつは昨夜から、別の場所にいる。何か用事でも?」
「あ、いえ。リアム様から、私の事で何か聞いてませんか?」
「いや……? 何も聞いていないが。ん? その耳の……まさか、それの事か?」
私がコクンと頷くと、フレッド様は箸を置き、私に近くに来るよう手招きした。私はそれに応えて、厨房を出てカウンター席に座るフレッド様の隣に立った。
「すまない、俺の居ない間に何かあったようだな。決して女将を信用していない訳ではないのだ。ん……これでは、ちょっと……ほんの少し屈んでくれるか?」
私が言われるままに屈むと、フレッド様は立ち上がり、私の耳に着けられたイヤーカフをあっさり外してしまった。
「え? 良いんですか? だってそれは……」
私が振り返った時、角度的に意図せずフードの中を見てしまう形になり、バッチリ彼と目が合った。
フードの中に隠れていた顔は、リアム様以上にそっくりで、これで髪さえ黒ければ、ウィルフレッド殿下と瓜二つだった。




