47・妖精さんとお話し
豚の妖精が現れた日の夜、ベッドでぐっすり眠っていた私は、夢うつつに甘い花の香りに包まれていた。これは夢なのか、現実なのか。どんな夢を見ていたか忘れてしまったけれど、花畑にでもいる夢だっただろうか。たぶん私は今、寝ぼけているのだろう。
そう思いながら薄らと目を開けると、目の前にはぼんやり白い何かが見えた。しかもかなりの至近距離。
「豚の妖精さん……?」
それは私の声に反応してピクッと動いた。
違う、妖精さんじゃない。大きさからして、これは人間?
静かに体を離し、目をカッと開いて良く見ると、カーテンの隙間から差し込む月明かりの下、白い人間と思しきシルエットが視界に入った。
私は自分が寝てる間に誰かが部屋に忍び込んだのかと慌てて飛び起き、バランスを崩してベッドから転げ落ちそうになった。
するとその人はパシッと私の手を掴んで自分の方に引き寄せ、私はその勢いでその人の胸にのしかかる形になってしまった。
甘い花の香りの正体は、この人だ。
嗅ぎなれたツンとキツイ香水とは違う、やわらかな本物の花の香りがその体から香った。
私はバッと体を起こし、すぐに離れようとした。しかし手が掴まれたままで、思うように行かなかった。
「手を離して!」
「待て待て、落ち着け。ああ、この姿が駄目なのだな。チッ、いつの間に元の姿に戻っていたのだ。これでは不審者と思われても仕方がない……」
聞こえたのは低く響く、魅力的な男性の声。
どうやらこの人の体勢を見る限り、自分の腕を枕にして、私のベッドに添い寝するように横になっていたようだ。目が覚めて最初に見えた物は、この人の真っ白な髪の毛だったのだろう。横向きに寝ている間に長い髪で顔が隠れてしまったのか、目を開けた時の私からは近過ぎて、ほとんど白い塊にしか見えなかった。
男性はのそりと体を起こし、顔に掛かった長い髪を鬱陶しそうにかき上げながら、私に視線を向けた。
彼は抜けるほど肌が白く、顔立ちはまるで作り物の様に整っていて、人間とは思えない、ゾッとするほどの美しさだった。その目は赤く、縁が黒くて、つい最近、どこかでこの目を見た事があるような気がしてならない。
私がスウッと息を吸い込んで大声をあげようとしたその時、その人は一瞬だけ全身が淡く輝き、今朝見た白い豚の妖精に姿を変えた。
「……ウソ、今の、妖精さんだったの?」
「プギッ」
私のベッドにちょこんと鎮座するのは、今朝見た白い豚の妖精で間違いなかった。
「どうして……」
私の質問に答えるために、豚の妖精はもう一度人の型に姿を変えた。
「驚かせたな、ライナテミスの末裔よ。寝ているそなたに夢の中で話しかけるつもりだったのだが、その前にそなたが目覚めて失敗に終わってしまった。わが名はレヴィエント。この宿の初代店主はわたしの友であった」
「レヴィエント、あの……」
彼が何を言っているのか理解できない。
何の末裔ですって? ライナテミスは水と豊穣の女神の名前よ。その末裔だなんて、何て恐れ多い事を言うの? それだけでは無い。彼の言った事にはツッコミどころが多過ぎて、何から聞けば良いのか分からない。
「ごめんなさい、私は女神ライナテミスの末裔などではありません。なぜそのような事を?」
「あの本」
レヴィエントは一度居間の方に視線を向け、視線の先にある、一冊だけ棚に置かれた古い神話の本の話を始めた。
「そなた、あれを読めるか?」
「ええ、勿論です」
「内容は?」
本を読めるか、だなんて、一体何が言いたいのかしら?
「内容……ですか? 女神の神話です。悪戯者の女神が神の罰を受け、人として地上に降ろされ、人と共に生き、人との間に授かった子供を産み落とし、天に帰ったお話です」
「うむ。今そなたの言ったその話が書かれた文字は、普通の人間には、読むどころか見る事も出来ない。普通は、初めの数ページは何も書かれていない白紙だと思うだろう。その後のページから書かれた誰もが知る水と豊穣の女神ライナテミスの神話部分しか読めないのが普通なのだ」
「え……?」
「そなたがそれを読めると言う事は、女神の産んだ娘の魂を持って生まれた事に他ならない。長い年月を経て何人も増えた子孫の中で、あの文字が読めた者は、女神の産んだ娘と、そなただけであろうな。その魂は、女神の体の一部から出来ている。見たところ、微力ながら女神の力も引き継いでいるようだ」
私の魂が女神の体の一部から出来てる? 私は間違ってこの世界に迷い込み、偶然この体に転生してしまった訳ではなかったという事?
昼間はただ可愛い妖精さんだと思ったけれど、こんな事を知っているだなんて、一体何者なのかしら?
「レヴィエントは、私にその事を伝える為に来たの?」
「いいや。久しぶりに友人の顔を見に来たのだが、人間と妖精では時間の感覚が異なる事を失念していた。もう彼は百年以上も前にこの世を去っていたのだな。ところで、何故この部屋には植物があれしか無いのだ? わたしの友人が居た頃は、この部屋には様々な植物が置かれていたものだ。これでは、いつまで経っても私の力が回復しない。もっと花を飾る気はないのか。それを夢の中に入り込んで伝えようとしたのだが」
レヴィエントは花の妖精なのかしら? 植物から何かしらの方法で栄養補給しているのね。申し訳ないけれど、この部屋にはシンのくれた鉢植えが一つあるだけ。
明日は半日お休みだし、前から欲しいと思っていた花や観葉植物を買いに行こうかしら。
「レヴィエントは、お友達に会う事はできなかったけれど、もうお家に帰ってしまうの?」
「思いがけず、そなたという面白い存在に出会えた事だし、しばらくここに滞在させてもらう。初代店主が居た頃に、泊まり客を癒す手伝いをしていた妖精達は、皆どこへ行ってしまったのだろうな。町に緑が少なくなったせいで、居場所が無くなった妖精達は町の外へ移ってしまったか。そのせいか、この町には黒いものを纏う人間が増えたな」
タキの言う黒いモヤの事ね。それが妖精にも見えているのか。昔は妖精がどこにでも居て、町を浄化していたのかしら。
「もう一つ質問して良い?」
「何だ」
「いつからこの宿に居たの?」
「あのブルーデイジーと一緒に来た。疲れて上で休憩していたら、運よく目的の場所にたどり着いたのだ。あの花を買った男は、わたしの事が見えていたようだな。だが、来てみれば友は居ないし、植物は一つだけ。仕方なく体力が回復するまであの花の中で眠っていた」
「そうだったの……明日、お花を買いに行くわね。それまでは、あれだけで我慢してくれる?」
幸せを呼ぶ妖精のお話を信じていたみたいだし、シンは私に内緒で幸せを運んでくれようとしたのかしら。私はシンにしてもらうばかりで、何も返せていないのよね。彼は何をしたら喜んでくれるのかしら。




