35・チヨの失恋
私はエヴァンを拒む理由を話す前に、フロントから動かずに、固唾を呑んでこの様子を見ているチヨに目をやった。彼女は握った両手を胸に当てて、ハラハラした様子で私とエヴァンを交互に見ていた。
ごめんね、チヨ。あなたの理想とする、夢のように素敵な騎士のイメージを壊してしまうけど、13歳ならば、もう現実を知るべきかもしれないわ。
シンとタキも、私が何を話すのか、心配そうな顔をして黙って私を見つめている。私はいったん深く息を吸い込み、あまり感情的にならないよう気をつけて、ゆっくりと息を吐いてから話し始めた。
「何の罪も無い、無抵抗の女性の頭を掴み、力ずくで床に這い蹲らせた騎士見習いというのは、あなたの事ではありませんか?」
エヴァンは思い掛けない私の言葉に分かりやすく狼狽し、サッと顔色を変えた。そしてゴクリと唾を飲み込むと、怪訝そうな表情を浮かべて、小さな声で問いかけてきた。
「何故、あなたがその事を……?」
「貴族の令嬢に知り合いが居るのです。その方の話だと、十分な事実確認もせずに、誰かの一方的な訴えを鵜呑みにして、ある女性を突き飛ばして怪我まで負わせ、公衆の面前で、ありもしない罪を並べて吊るし上げたそうですね。立ち去る時に足を引きずっていたと聞きましたが、あなたは怪我を負った女性に対し、先に話したように力で押さえつけ、さらに追い討ちをかける様な言動をなさったのですよね?」
「それは……突き飛ばしたのは俺ではないが、怪我をしていたなんて知らないし、第一あの程度の事で怪我などするはずがない。足を引きずる演技をして、同情を引くつもりかと周囲の者達は囁いていたが……一体誰がそんな……?」
エヴァンは私が立ち去るところをちゃんと見ていなかったの? ドアが閉まる時、サンドラの向こうにエヴァンが見えたけれど、あなたもこっちを見ていたじゃない。
私の期待に反して、心配して追いかけて来たのは、あなたではなくヒューバート様だったわね。
周囲の人達と同じ様に、あなたまで同情を引くための演技だと思っていただなんて。
確かにあの時のあなたは、私の事を人を雇ってまでサンドラを襲わせる悪女だと信じていたのだから、そう思っても仕方がないかもしれないけれど、騎士としては、怪我をしたかもしれない女性を見て見ぬ振りは、どうかと思うわ。
「誰から得た情報かは、相手に迷惑をかけてしまいますから、言う事はできません。その女性が足を引きずるほどのお怪我をされたのなら、きっと医務室で治療を受けたのではありませんか? 医師も覚えているかもしれませんよ。もしかしたら記録が残っているかもしれませんし、気になるのでしたら、ご自分で確認してみればよろしいかと」
エヴァンは心の動揺を隠そうともせず、顔面蒼白でフラフラとよろめき、カウンターに両手を突いた。
「ヒューバートが追いかけて行ったのはそのせいか。ではきっと、治癒魔法で治してもらったのだろうが……記録など、残っているのか?」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、エヴァンはふらりと出口に向かい、食堂を出て行こうとした。
「あの……買った商品をお忘れですよ」
チヨは哀れみと戸惑いを含んだ表情で包みを差し出し、エヴァンに声をかけた。
「ああ、すまない。気が動転して……。ラナさん、貴重な情報をありがとう。彼女に会って、誠心誠意、心を尽くして謝ろうと思う。長々と邪魔をして悪かったな。では、これで失礼する」
エヴァンは一度振り返って私にそう告げると、包みを大事そうに抱えて、フラフラと覚束ない足取りで出て行った。
カウンターには白いブーケが置き去りになり、ジャスミンの甘い香りがほのかに香った。
私はそのブーケを手にとって、彼がこれを持って来た意味を考えてみた。
エヴァンはこのピンクのジャスミンの花言葉を知っていたのかしら?
「あなたは私のもの」「官能的な愛」「誘惑」どれも意味深なメッセージだわ。他にも、エヴァンの好みそうな「優雅」「清純」「喜び」なんていうのもあるけれど……。
ついでに、白薔薇の花言葉は、「私はあなたに相応しい」「恋の吐息」「尊敬」だけれど、どちらも意味を分かっていたなら、逆に感心してしまうわ。
まあ、この花を選んだのはあなたではないでしょうから、意味なんて考えず、素直に伝えられた通り渡す相手のイメージを元に綺麗なブーケを作っただけ、というのが正しいのでしょうけど。
「オーナー、その花束、捨ててくるから俺に寄越せ」
シンは不機嫌そうに私に向って手を差し出していた。タキはそれを見て、何故か噴出しそうになるのを必死に堪えている。
「捨てなくて良いわ。花に罪は無いでしょう? 折角綺麗に咲いたのに、こんな一瞬で捨てるのは可哀想よ。彼の気持ちは受け取らないけど、この子達は数本ずつに分けて、客室に飾らせてもらうわ。第一こんな上等な薔薇、花屋でだって滅多にお目にかかれないのよ? 丹精込めて世話をしたのは別の人なのだし、ね?」
「フッ何だよ、さっきまであんなに怯えてたくせに、ちゃっかりしてるな。それはそうと、今日は色々と話し合いが必要そうだな。夜にでも時間を作れるか?」
「私もそうしたいと思っていたの。夕食を私の部屋で一緒に取りましょう。チヨ、それで良い?」
チヨはこくりと頷いて、口をキュッとへの字に曲げた。
チヨもあの緊迫した物々しい雰囲気を感じ取り、目の前で喧嘩が始まってしまうのではと怖かった事だろう。
私はチヨの元へと行き、彼女を優しく抱きしめた。そして頭を軽く撫でてやり、こわばった体をほぐすように、背中をさすって落ち着かせた。
「怖かったわね、もう大丈夫よ」
「怖かったのは、私よりラナさんの方ですよ。エヴァン様が、ラナさんに対してあんな無体な事をするだなんて……」
「ガッカリした?」
「何がです?」
チヨは体を離し、とぼけた表情で私の顔を見上げた。
「何がって、フィンドレイ様をお慕いしていたのでしょ?」
「ああ〜、えっ……と、確かに最初は憧れていましたけど、エヴァン様がラナさんの事を見ているって気付いてからは、その恋を陰ながら応援しようと思ってました。私とじゃ、何もかもがつり合いませんよ。エヘヘ……」
チヨは少し自虐的に答え、まだ心に燻っている恋心を隠すように、目を伏せ、俯いてしまった。やり方は間違ってしまったけれど、彼女なりに少しでもエヴァンの目に映ろうともがいていたのは知っている。
これがチヨの初恋だとすれば、ちょっと苦い思い出になりそうだ。




