167・罪悪感
「特別な相手は居るのか、とお聞きになりたいのですかな?」
気配もなく突然後方から声を掛けられ、私とウィルフレッド殿下は驚いて後ろを振り返る。すると先ほど下りてきた階段の踊り場に、怖い顔をしたおじい様が私達を見下ろすようにして立っていた。
「おじい様! いつからそこに?」
「ラナ、お前はこっちへ来なさい」
有無を言わさぬ厳しい口調。以前の私なら何か失敗をして叱られたと思い、きっと委縮していた事だろう。
しかし今はおじい様の気持ちが理解出来る。おじい様の口調は厳しいけれど、決して怒っているのではなく、私を危険から遠ざけようとしているのだと。
おじい様は殿下が何をお考えなのか知っているに違いない。
そういえば、おじい様は私の記憶が戻ったと知るや否や、もう一度殿下の側へ行きたいかとお尋ねになった。あの時は気にならなかったけれど、今考えるとこちらが希望したところで相手に求められなければ意味のない質問である。
つまりはそういう事だ。
王家は他の令嬢達を吟味しながら、ノリス公爵家との縁談をまだ諦めていないのかもしれない。今回の騒ぎが収まったらすぐにここを離れよう。身動きが取れなくなる前に。
とりあえず今は、私は何も知らないというていでやり過ごした方がいいだろう。
「おじい様、きちんとお見送りしなくては殿下に失礼ですわ」
おじい様とウィルフレッド殿下は、まるでテレパシーで言い合いでもしているかのような雰囲気で静かに睨み合っている。私が声を掛けてもおじい様はピクリとも反応をしなかった。
「あの……殿下、お話をするのは次の機会に。今は殿下をお待ちになっている方が大勢いらっしゃるのではありませんか?」
「……ああ、わかっている。だがしばらく時間が取れそうにないから、今起きている誘拐事件が解決したらまた会いに来る」
多分その頃にはもう、私はここには居ないだろう。
私達は一日も早く宿に帰りたいと思っているのだから。
私は返事をせず曖昧に笑って誤魔化し、一緒に外へ出て殿下が馬車に乗り敷地を出ていくまで見送り続けた。
そして、馬車が見えなくなったところで思わず溜息が漏れた。彼を騙している罪悪感で胸がモヤモヤする。
私の中で殿下は八歳のままで時が止まっているけれど、きっと殿下の方は違う。
学園のパーティーで再会した時、殿下は私を「ラナ」と呼び、一緒に遊んでいた頃と同じ優しい目で私を見ていた。
殿下の中の私はきちんと時が進んでいて、七歳だった頃の私と今が違和感なく繋がっているのだ。
しかし私は違う。約十年の間、ウィルフレッド殿下の名を聞く事も、彼の事を考える事もほとんど無いまま過ごしてきた。
だから殿下と私とでは相手への思い入れが全然違うのではないかと感じる。
記憶を取り戻したばかりの時はあの頃の想いが鮮明に蘇り、かなり気持ちが乱されたけれど、時間が経過した今は幼い頃の美しい思い出としてちゃんと心の整理が出来たと思う。
どうかウィルフレッド殿下も、思い通りにならなかった子どもの頃の想いを消化出来ますように。
「行っちゃいましたね」
「ええ、そうね……。って、チヨ! 何してるのよ! 殿下に見られていたらどうするつもり?」
「大丈夫です、ちゃーんと隠れてましたから」
「大丈夫って……ハァ、まったくもう、しょうがないわね」
場所が変わってもチヨは相変わらずだ。多分私と殿下の会話が気になり、隠れて聞いていたのだろう。とっくに馬車は見えないけれど、チヨは門の方をジッと見て切なげな表情を浮かべていた。
「それにしても、本当にフレッド様は王子様だったんですね……。宿に来る時とはちょっと雰囲気が違って、やっぱり遠い人なんだなーって感じてしまいました」
「それでも宿で顔を合わせたら今まで通りにしなくちゃダメよ」
「わかってますよ~。ほらほら、話が中断したままですから、早く中に戻りましょう。シン達が待ってますよ」
私はチヨに腕を引かれて屋敷の中へと戻った。すると玄関ホールでは、シンとタキが不安げな顔をして私が戻るのを待っていてくれたのだった。




