136・初めて見る大神殿
うっすらと見えていた黒い霧は、心の中で浄化を念じるとあっけないほど簡単に消えた。
私はイリナ様に続いて階段を上り、両脇に天使の像が立つ大きな門をくぐる。
「あら? 私達の到着が早かったのでしょうか」
神殿の人達はイリナ様が戻る事を知っているはずなのに、入り口には彼女を出迎える者も無く、そこに居たのは門兵だけ。やや緊張気味だった私は、少し肩透かしを食らった気分だった。
「誰も居なくて拍子抜けしましたか?」
「あ、いえ……すみません。私今、そんな顔をしていましたか?」
「少し。わたくしはひっそりと出て行ったのですから、戻る時も同じで良いと伝えておいたのです。わたくしが戻る事があの方の耳に入れば、気分を害されるかもしれませんし」
「なるほど……」
「しかし、そうは言っても一人くらい出迎えが居ると思っておりました。皆忙しいのでしょうね」
「えーっと……単純に、言いつけを守っただけかもしれませんよ?」
「ふふ……」
そう言えば、イリナ様が町の教会に来たのは病気療養が目的だったのではなく、サンドラが彼女を追い出したからであった。
追い出したはずのイリナ様が元気になって戻ってきたと知れば、また何をされるかわかったものではない。浄化が済むまでの間は、サンドラを刺激しない方が良いだろう。
「では、先にわたくしの部屋へ行きましょう。狭いですけれど、侍女用の部屋が空いていますので、そこをお使いください」
「はい、お世話になります」
「それから、神官長には昨晩のうちに事情を説明してありますので、何も心配する事はありませんよ」
「あ……っ! ありがとうございました。本来ならば、自分で話すべきだったのですけれど……」
「あの時のあなたを少年だと勘違いされていたようで、すっかり騙されたと驚いていましたよ。これからは神官長もあなたの味方をしてくださるそうです」
「それは心強いですね」
私はこの先も、不作にあえぐ農村があると知ればそこへ向かい、何度でも自分の持つ力を使うつもりだ。そんな時、神殿サイドに二人も味方をしてくれる人が居るというのはとても心強い。
彼らの祈りが神に通じたという事にしておけば、私達が何者なのか、詮索される危険も回避出来るだろう。
入り口の建物を抜けてすぐ目に飛び込んできたものは、たくさんの緑に囲まれたパルテノン神殿そのものといった造りの真っ白な建物だった。
イリナ様は何も言わないけれど、屋根の形状や建っている位置からして、多分あれが大神殿なのだと思われる。
実際に見てみると、他と比べてかなり古そうな建物だった。きっとこの歴史的価値の高い建造物を守る為に、この高い塀が造られたのだろう。
入り口の建物と大神殿の間にはとても大きな池があり、水底に敷き詰められた石が透けて見えるほど水が綺麗で、まるで空の色を映したかのような水の青さがなんとも神秘的である。
外から見ただけではわからなかったけれど、敷地内は意外なほど緑が多く、大神殿や池の周りには様々な樹木が植えられていた。
でも不思議な事に、これだけ緑が豊かだというのに妖精の姿はまったく見えない。イリナ様の言っていた通り、ここには妖精が居ないようだ。
そして私達は、中央に建つ大神殿を横目に見ながら、敷地を取り囲む塀に沿って造られた長い回廊をまっすぐ進む。
「何でしょう……? 何だか向こうが騒がしいですね」
何人かの人がバタバタと走り回り、何やら大きな声で話しているのが聞こえる。イリナ様は耳を澄ませて会話の内容を確かめようとするけれど、はっきりと聞き取る事は出来なかった。
「あの向こう側にあるのは何の建物ですか?」
「聖女様の住居です」
木々に隠れて全貌は確認出来ないけれど、私達が今歩いているのと反対の壁側に、明らかに出来たばかりに見える四角い建築物がある。
回廊部分を改造して、限られたスペースに無理やり新たな建物を追加したという感じだ。
「あそこへはどうやって行くのですか? 回廊の先は行き止まりに見えますけど?」
「この回廊を反対から回れば良いように見えますが、今はそちらも行き止まりです。あの建物を隔離する為に、周りを全て壁で仕切ってしまったらしいのです。出入り出来るのはわたくし達の住む建物と繋がっている部分のみです」
「それはもしかして……私が指示しなくても最初から軟禁状態だったという事ですか?」
「いいえ。初めは壁など無く、自由に出入り出来るようになっていたのですよ。あれは本人の希望だと聞いています。一時期閉じこもって誰とも面会しない日が続いたのだそうで、その時に……」
イリナ様は指をさしながら説明をしてくれた。どうやら私が住居だと思っていたのはそれを隠す為の壁だったらしい。これから向かう巫女達の住居からは行けるというのだから、後で詳しく聞く事にした。
回廊の突き当りを左に曲がると、正面にサンドラが作らせた壁があり、右手には大きな両開きの扉がある。
イリナ様はその扉を開け、ピタリと動きを止めた。
私はどうしたのかと前を覗き込む。扉の奥は薄暗くて良く見えないけれど、そこには誰かが立っていた。




