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118・私の苦労は何だったの

 週末になり、今晩か明日にはウィルが宿に来て泊まっていく予定だけれど、私の心はまだ整理しきれずにいる。

 現在の彼と、幼い頃の彼。その二人が重なる出来事がいくつかあったと、時間が経つごとに思い出された。

 例えば、ウィルと十年ぶりに再会したあのパーティーの日、私の足に治癒魔法をかけてくれた彼は、この国の常識では考えられない事を言った。治療のためとは言え突然スカートに手を突っ込まれて、驚いてその事に抗議した私に、腹が立つなら頬を打てと。

 この国のどこに王子の頬を打てる者がいようか。

 たとえどこを触られて不快に感じようとも、王族が相手であれば特に、私たち女性はそれに耐えるしかない。だからどうしてそんな事を言うのかと思ったけれど、彼は幼い頃に同じ事をして、私に頬を叩かれたのを覚えていたからあのような事を言ったのだ。

 子供のくせに無理をして、私に治癒魔法をかけた彼はそのまま意識を失い、それを見た私は、ウィルが死んでしまうのではないかと怖くて泣いて帰った記憶がある。

 私は本で読んだから子供が治癒魔法を使う事が危険だと知ったのではない。ウィルを見てその危険性を知ったのだ。それは軽くトラウマとなり、治癒魔法を使われると不安な気持ちにされてしまうのはそれが原因だ。

 会いたくても、もう会えないと諦めていた人が、思いがけず自分の側にいた。それは思った以上に私の心をかき乱した。


「あ、そうだ。オーナー、聞いたか? 聖女が雨乞いの儀式をしにどこかの村に出かけたんだってな」

「え? いつ?」


 ランチの仕込みの為に、シンとタキと三人で足の短い丸椅子に座り、考え事をしながら黙々と野菜の皮むきをしていると、シンが思い出したように突然話し始めた。

 雨乞いの儀式の事は噂にもなっておらず、一般の民には知らせずに、密かに出発させたようだ。もしもの事を考えてそうしたのだろう。

 予定を知らせれば、聖女を奪おうとする輩が現れるかもしれないし、万が一儀式が失敗に終わった時、彼女を聖女と認定した王家や権力者達の立場がなくなってしまう恐れもある。

 サンドラに何の力も無いとわかったら、国王陛下はどうなさるおつもりなのだろうか。


「あー……、タキ、お前がイリナ様から聞いてきたんだろ。オーナーに話してやれよ」

「うん、あのね、五日くらい前に王都を出て、国の端っこに近い場所にある西の農村に向けて出発したらしいんだけど、どうなったのか結果はまだわからないって」

「でしょうね。国境近くという事は、行きだけで四、五日かかると思うわ。じゃあ、今頃儀式を行っているかもしれないのね」

「うん。でもイリナ様はそれが無駄な事だとわかっているから、それよりも同行した巫女達が聖女の側にいる事が不安だって。儀式が上手く行かなくて、聖女が苛立つ事は目に見えているからね。その矛先が巫女達に向けられるんじゃないかって心配してる」

「ああ……そうね、それは私も心配だわ」


 実際に見た事は無いけれど、雨乞いの儀式に巫女は必要不可欠で、彼女達の歌と優雅な舞で神に祈りを捧げるのだと聞いたことがある。神様が願いを聞き届けてくれるまでやり続ける過酷な儀式だ。

 しかし女神様は言っていた。神は人間の願いなど叶えたりせず、ただ見ているだけだと。

 だとすれば、偶然天候が変わらない限り、儀式は失敗に終わる。

 その事に苛立って、サンドラが巫女を攻撃しなければ良いのだけど。 

 神殿の方は、神官長にお願いした通り、サンドラの身の回りの世話をしていた少年神官達は、その日のうちに解放されたと聞いている。昨日、イリナ様が食堂へ食事をしにきて、彼らの事はもう心配ないと教えてくれた。


「どうした? 何か、冷蔵庫が来てから様子が変じゃねーか? オーナー、何かあったのか?」

「……え? ううん、何も無いわよ?」

「あ、今、嘘をついたね。心配事があるなら、僕達に話して。最近よくボーっとしてるし、顔に出さなくても、君の色の変化でわかってるんだ。何があったの? 僕達に話せない事?」


 タキには、私の喜怒哀楽がオーラを通してバレてしまう。フレッド様がウィル本人だとわかってから、思い出の中のウィルと、フレッドとして交流のあった彼との共通点を探して、つい物思いにふけってしまうのだ。

 今はその事を考えていたわけではないけれど、考える事が多すぎて、ボーっとしている事が増えたのは事実だった。


「……ええ、話せないわ。ごめんなさい、秘密なんて持ちたくなかったのだけど、私の事ではないから……」

「フレッド様か。追い付けなかったなんて言って、本当はあの人と何かあったんだろ。俺が悪いな。あの時行かせるんじゃなかった」

「あー……そうか、もしかして、知っちゃったのかな?」

「知ったって、何を?」


 フレッドと名乗る彼が何者なのか、シンとタキの二人が気づいているかもしれないと思った私は、動揺してジャガイモの皮を剥く手が止まってしまった。


「タキ! こいつはまだ知らないかもしれないのに、余計な事言うな!」

「……いや、知ってると思うよ」

「だから、何を……?」


 私がシンとタキを交互に見て問いかけると、フロントにいたチヨが、厨房とフロントとの間仕切りの吊り棚の下からヒョコッと顔を出した。


「王子様って事じゃないんですか?」


 この一言に、私たち三人は一斉にチヨを見た。チヨの方は、何故かまったく動じた様子も無く、小首をかしげて私を見ていた。


「お前……何でそれ……?」


 シンは困惑気味にチヨに尋ねた。


「えへ、もう大分前の話ですけど、聞いちゃったんです。リアム様がフレッド様を殿下って呼んでるところを。殿下っていうのは、王子様の事ですよね?」

「チヨ、あなた……客室の会話を盗み聞きしたの?」


 何度もその場面を見てきた私達は、この子はとうとう客室の盗聴まで始めたのかと青くなった。


「ち、違いますよー。さすがにそれはしません。偶然ですよ、偶然。裏で洗濯物を干していたら、窓が開いていて会話が聞こえたんです。お二人の声はとても似てますけど、あれは聞きなれたリアム様の声でした。ということは、殿下と呼ばれたのはフレッド様ですよね」


 私は先日知ってしまった事実を隠さなければと一人悩んでいたのに、この宿の主要な従業員達は全員、彼が王子であると知っていた事になる。それを、みんなしれっと隠していたのだ。


「私の苦労はなんだったの……。チヨ、あなた、それを知っていてよく普通に話していたわね。フレドリック殿下がいらした時は、随分緊張していたのに」

「ですよねー。フレッド様のお人柄のせいでしょうか。見た目はちょっと怖いですけど、まったく緊張はしません」


 あっけらかんとそう言ってのけるチヨを見て、私は何故かどっと疲れが押し寄せてきた。


「じゃあ、シンとタキは? どうやってそれを知ったの?」

「俺達は……この前魔法を教えてくれって話をした時だよ。こっちの事情を話したら、向こうもそれに応えてくれた。それで、魔法の使い方から、剣の扱い方まで教えてくれるって話になった」

「フレッド様はあの時とりあえずは了承してくれたけど、向こうだって、もしかしたら敵かもしれない相手にそこまで親切にはしないよ。僕らの事を包み隠さず話したから、信用してくれたんだ」


 二人は何もかもをウィルに話したの? アルテミの巫女姫の孫である事まで?

 だったら、私だけがかたくなに素性を隠しているという事なのね。これって卑怯かしら。


「あのー、私はシンとタキの事をよく知りませんけど、教えてくれないんですか?」


 チヨが二人にそう言うと、シンとタキは口を揃えてそれを拒否した。


「お前は知らなくて良い!」「チヨちゃんは知らなくて良いよ」


 それを聞いて、私は少しホッとした。

 そう、知らなくても良い事もある。でも、チヨには私の家の事を話しても良いかもしれない。

 フレッド様が王子だと知っても動じないくらいだから、私が公爵家の娘だと知っても、黙っていられるでしょう。私は彼女を侮っていた。嘘をつけない性格だからといって、秘密を守れないわけではなかったのだ。

 

 その日の夕方、ウィルは一人で宿に来た。

 二人一緒に宿泊する時もあるけれど、こうして一人で泊まる事が多いのは、きっとリアム様がウィルの代りに王宮に残っているからだと理解した。

 そして彼が週末しか現れない理由は、私が家を出る前の状況と同じで、平日は学校へ通っているせいだったのだ。



「おかえりなさいませ、フレッド様」

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