116・片付けられた鏡
サンドラのお話です。
「イーヴォ! どこに行ったの、私が呼んだらすぐに来なさい!」
神殿の敷地に増設された聖女の住居には、世話係を呼ぶサンドラのヒステリックな金切り声が響いていた。
神官のイーヴォは勿論神官としての務めも果たさねばならず、この我がまま放題な聖女の世話係との両立は、いかに我慢強い彼をもってしても、体力的にも精神的にも耐え難く、すでに限界を迎えていた。
昼夜を問わず呼びつけるサンドラの傍若無人ぶりは日増しに酷くなる一方で、上からの指示で言いなりになるしかない神官達のストレスは、円形脱毛症という形で体に現れているのだった。
この新居に来たばかりの頃は、多少は恐縮しながら身の回りの世話をされていたサンドラも、貴族という身分を持つ神官見習い達がまったく偉ぶらずに甲斐甲斐しく世話を焼くお陰で、すっかり増長してしまった。
今では自分が平民である事も忘れ、神官のイーヴォや神官見習いの少年達を、自分の召使いか何かと勘違いして使役している。
特にイーヴォは物腰が柔らかく、まだ未熟な神官見習いとは違い、ここではサンドラを不快にさせる事が殆ど無い、貴重な人物だった。故に何かあれば真っ先に彼の名が呼ばれる。
しかし、この日は朝の沐浴以降、イーヴォはサンドラの住居に顔を出していなかった。
「聖女様、イーヴォは只今大神殿で神に祈りを捧げております。ですので私が彼に代わって御用をお伺いします。いかがなさいましたか?」
イーヴォの代わりにやって来たのは、イリナより年上の、中年の巫女だった。その容姿はと言えば、昔はかなり美しかっただろう事が窺える整った顔立ちではあるものの、今は年齢に見合ったシワがいくつも刻まれている。
「何? あなたなんか呼んでないわよ。イーヴォがいないなら見習いの子達はどうしたの? あの子達のどれでも良いわ。今すぐ呼んできて」
神官見習いを物のように言うサンドラに軽蔑の眼差しを向け、中年のベテラン巫女は事務的に説明をして部屋を出て行こうとした。
「残念ながら、神官見習い達は本日をもって役目を解かれましたので、もうこちらには参りません。用が無いのでしたら、私も下がらせていただきます」
「ちょっと、待ちなさい! どうしてなのか説明は無いの?」
「説明が必要ですか? あなたは、聖職者である少年達を誘惑し、子供相手に淫らな行いをしたと聞いていますが」
「はあ? 何の事? 誰よ、そんな嘘をついて私に嫌がらせするのは! 私が誰なのか分かってて言ってるの? 聖女様よ! 聖・女・様! 王様だって私に頭が上がらないんだから! あ、わかった、あの子ね。私を見て吐いた失礼な子! あの後私を見下した罰が当たったらしいじゃない。ざまあ見ろ。ちょっと可愛い顔だからっていい気になって……そのまま死ねばいい」
自分が利用される側の立場である事を理解していないサンドラは、自身を神にも等しい存在だと思い込み、「国王すらも私の前に跪く」という妄想を憚る事無く口にするようになっていた。
「な……っ」
ベテラン巫女はサンドラのこの発言に呆れ果て、思わず絶句した。聖女の口から、罪も無い少年に対して死ねばいいなどという言葉が出た事に、信じられない思いだった。
「……平民ゆえに教養は無いだろうと覚悟していましたが……まさかここまでとは。彼らはよく我慢しましたね……」
「何? ボソボソ喋らないでよ。聞こえないわ」
「コホン……いえ、何でもありません」
つい心の声が漏れてしまった巫女は、ハッとして咳払いでそれを誤魔化した。
ここでは世話係に任命された者以外、サンドラには会った事も無く、どんな人物であるかさえ知らされていなかった。
サンドラがどんな人となりであるかなど、外に知られてはならないのだ。
約一年在籍した学園生活の中で、少しは礼儀作法も身に付いたかと思えば、そうはならず、事もあろうに当時の王太子を誘惑してその婚約者を排除し、王子を堕落させ廃太子にまで追い込んだ事は周知の事実である。それだけに、これ以上聖女の評判を落とせなかった。
聖女の名に相応しく、サンドラが慈悲深く品行方正な少女であれば、このように軟禁されるような扱いは受けなかっただろう。
国王の期待する聖女の役割は、干ばつによる飢饉を無くし、毎年のように数百人単位で飢えて命を落とす民を助け、暮らしを豊かにさせる事。これから各地で行われる雨乞いの儀式で雨雲を呼ばせるために、些細な事は大目に見ているだけなのだ。
聖女の力が必要になった時の為にも、機嫌を損ねないよう細心の注意を払えと神殿側は言われている。
そこを踏まえて、ベテラン巫女はサンドラの態度にイラつきながらも、我慢して丁寧に対応した。
「じゃあ私の身の回りの事は、これからは誰がしてくれるのよ? あなたとか言わないでよね。おばさんは嫌よ」
「聖女の世話係は、外の人間に委託する事になるそうです。メイド経験のある者に任せるとの事ですので、これまで以上に快適にお過ごしいただけるのではないでしょうか。他に何かお聞きになりたい事はございますか? そういえば、イーヴォになにか御用だったのでは?」
巫女の話を聞き、サンドラはイーヴォに言いつけるつもりだった用事を思い出した。
「そうよ鏡は? 全身を映す大きな鏡が欲しいって昨日イーヴォに言っておいたのに、まだ持ってこないじゃない。いつになったら持ってきてくれるの? それだけじゃなくて、私が怪我をしてから、この部屋にあった鏡が全部無くなったのよ。この前来た巫女の魔法で、傷は綺麗に治ったんでしょ? それを確認したいのに、手鏡すら無くて不便だわ」
「鏡……ですか? まだ引継ぎが済んでおりませんので、後で聞いてみましょう」
「早くしてね。なんだかお昼寝した後から、体のラインが変わった気がするの。気のせいなら良いけど、少し顔も浮腫んでない?」
「さあ? お顔を拝見したのは今日が初めてですので、違いが良くわかりませんが……」
サンドラはキャバ嬢を彷彿とさせる大胆でタイトなドレスを身にまとい、自分のウエストやお尻などをしきりに手で触りながらその変化を確認していた。
ドレスのお腹部分は窮屈そうに引きつれてシワが寄り、こぼれんばかりだった自慢の胸は萎んでしまったように見える。
「やっぱりイーヴォを呼んでよ! あなたじゃ話にならないわ」
「……では、お祈りが済みましたらこちらへ来るよう伝えします。もう下がってもよろしいですか?」
「辛気臭いおばさんの顔なんかこれ以上見たくないから、さっさと下がって!」
「……左様ですか。最後に確認だけさせてください。明日、雨乞いの儀式の為に王都を離れる事を聞いていますか?」
「馬鹿にしてるの? 知ってるわ。またそのダサい巫女用の服を着なくちゃならないんでしょ? もう大分前に雨乞いの踊りだって覚えさせられたし、皆に私の力を思う存分見せ付けてあげるわ。この私を見下した奴らを、今度こそ見返してやるんだから!」
この翌日、サンドラはたくさんの護衛と、結局少年達と一緒にその役を外してもらえなかった世話係の神官イーヴォ、それに、雨乞いの儀式を取り仕切る巫女数名を従えて、雨を待つ西の農村に向け旅立った。




