100・寄りかかれる相手
「おい、もっとゆっくり食えって。お腹が空いてるだけ、とは言ってたけどよ……さっきのはフレッド様の手前、気を使わせない為にそういう事にしといたのかと思えば、マジで腹減ってたんだな……」
シンが用意してくれていた料理は、ビーフシチューだった。それは私が教えたレシピではなく、彼が元々知っていたものだった。
そして私は、恥ずかしながら本当にお腹が空いていたらしい。
実感は無かったけれど、空腹かどうかもわからないくらい緊張していたようだ。
今こうして日常に戻ってみて、ホッとした途端急激に空腹感に襲われた私は、彼の作ったビーフシチューを一口味わうなり、そのあまりの美味しさに夢中でスプーンを口に運んでいた。
シンはそんな私を呆れたように眺めていたけれど、その目はとても優しかった。
「本当に美味しいわ……ねえ、シン。これは前のお店で作っていたもの?」
「ん? いいや、これはうちのお袋の味だ。タキが久しぶりに食いたいって言い出してな。そっか、美味いか。……オーナーの口に合って良かった」
シンはお母様のレシピを褒められて、とても嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、作り方を教えてほしいくらいよ。シンとタキのお母様は、とてもお料理上手だったのね。シンが料理上手なのは、お母様の影響かしら?」
「そうかもな。オーナー、おかわりは?」
「もちろん頂くわ」
私がどこで何をしてきたのか、シンはずっと気になっているだろうに、彼は何も聞き出そうとはせず、他愛も無い話題で私を和ませてくれた。
今の私にとって、彼のこの気遣いはとてもありがたいものだった。
思い出した記憶の中には辛いものも多く含まれていて、特におじい様に大怪我を負わせてしまった時の事を思い出すと胸が苦しくなる。
「そうだ、食後のデザートもあるから、ほどほどにしとけよ」
「え?」
「チーズタルト。また差し入れでもらったんだ」
チーズタルトは小さい頃からの私の大好物。
食堂に来る常連のお客様の中には、「いつも美味しい料理をありがとう」と言ってお菓子などを差し入れしてくれる方は大勢居るのだけど、そのチーズタルトは庶民が差し入れとして持ってくるには少し高価なものだった。
とは言っても、裕福なお客様だって来ているのだから、たまに高級なお菓子が差し入れされる事もある。だから別に不思議ではないのだけど、なんだか私はこの時、誰が持ってきたのか無性に気になってしまった。
「……ねえ、それを差し入れしてくれている方は、どんな人なの? いつも私の見てないタイミングでチヨが受け取っているでしょ?」
「あ……そういえばそうか? 何人か引き連れて月に一、二回来てる爺さんだよ、いつもグレーのハンチング被ってて、白髪の……あ、それに眼鏡をかけていたな」
「おじいさん?」
おじいさんと聞いて、私はピンと来た。
夜会でおじい様に会わなければ、ずっと気付かないままだったかもしれないけれど、おじい様はまた食事をしにくると言っていた。また、という事は、食事をしに来た事があるという事。
私の大好物を持って、こっそり様子を見に来ていたのね。
おじい様は普段眼鏡をかけていないけれど、一緒に居る誰かのを借りたのかもしれないわ。
「ふふっ」
「何笑ってんだ?」
「もしかしたら、私のおじい様かもしれないわ。次にいらっしゃったら、私に教えてくれる?」
「オーナーの爺さんって、ノリス公爵の方か? まさか、アルフォード国王じゃないよな?」
シンはギョッとして質問してきた。
もちろん、アルフォードのおじい様には毎月ここへ来る事なんて出来ないでしょうね。
お手紙には一度どんなところか見に行きたいと書かれていたけれど、それはどう考えても現実的な話ではないもの。
「アルフォードのおじい様がいらしたら、流石にすぐわかるわよ。ふふふ……」
私達は食事を済ませた後、まったりとお茶を飲みながら差し入れのチーズタルトを頂いた。その間、どこのタルトが一番美味しいか等、甘い物についての話をしていたけれど、そこでふと会話が途切れた時、やっとシンは今日の事に関する話題を切り出した。
「もう、顔色も大分良くなったな。……オーナー。俺に言った事、忘れたのか? しっかり自己管理すると言ったのはつい最近の事だぞ」
シンは少し怒っていた。
怒って当然だ。
彼は過労死寸前だった私をその目で見ていたのだから。
そのすぐ後にまた無理をした私をとても心配しているのだという事が、彼の表情からひしひしと伝わってきた。今回無理をしたのは肉体的にというよりも、精神的なものが大きかったけれど、打撃はかなり大きかった。
「ごめんなさい……またシンに心配をかけてしまったわね」
私が謝ると、シンは軽く首を横に振った。
「そうじゃなくて……謝ってほしい訳じゃない。お前にはもっと自分を大事にしてくれって事が言いたかったんだ。あの二人が只者じゃない事くらいわかってる。無茶な事だろうと頼まれたら断れない相手なんだろうし、俺が口を挟む問題じゃないってのもわかってる。わかっていても放っておけないんだよ」
シンの目に熱がこもる。私は叱られているのに嬉しいと感じていた。
「お前はここに来るまでに、貴族社会で散々嫌な思いをしてきた。そしてまた、そんな相手と関わって何か嫌な思いでもしてきたんじゃないのかって……」
シンはどこまで質問していいのかわからずに言葉を止めた。関わった相手が悪く、詳しく聞きたくても聞けない事に苛立ちを感じているようだった。
私が口止めされているのはウィルの影武者である二人の事なのだから、それ以外の事を話せる範囲で話す事にした。
「あのね、シン。フレッド様達が何者であるかは話せないし、今夜どこに行ったのかも詳しくは教えられないけれど、私はある場所で行われた夜会のお手伝いをしてきたの」
「夜会?」
「私の役割は、急に出席出来なくなった令嬢の身代わり。その方は髪の色や雰囲気が私に似ているから、今回依頼が回って来たの。それにね、聞けばその方は私の親戚だったのよ。だから代わりを引き受けたの」
「ああ、出かける時と化粧が違っていたから、変装して何かしたんだろうとは思ってた」
シンは頷いて、話を先へと促した。私は一呼吸置いて続きを話し始めた。
「それで……これは本当に偶然だったのだけど、今夜行った場所は私が昔行った事のある場所で、その風景を目にした途端、私の記憶の蓋が外れてしまったの。ほら、前にレヴィエントが言っていた、記憶の蓋よ」
「じゃあ、女神の力を取り戻したのか?」
「ええ。そこで私の中に封印されていた記憶が一気に思い出されて、女神の力も取り戻す事に成功したわ。多分顔色が悪かったのは、思い出した記憶の中に、辛い出来事が含まれていたからだと思うわ」
「そうか……それは、良かったのか? それとも、思い出さない方が良い記憶だったのか?」
シンはそれを喜ぶべきかどうか迷い、複雑な表情で私を見た。
「とりあえずこれで、闇落ちした妖精の浄化は出来るわ。封印していた辛い過去は、本当ならあの頃乗り越えるべきだったのに、幼い私にはそれを心の奥に仕舞い込む事でしか対処出来なかったのね。十年も経ってから当時の気持ちが蘇ってきて、戸惑っているわ。それに、思い通りに行かないからと癇癪を起こしておじい様に怪我を負わせた事も忘れてしまっていて。私、自分を許せないの」
私は唇を噛み、泣きそうになるのを我慢した。まだ精神的に不安定で、ちょっとした事で泣いてしまいそうになる。
シンはそんな私を見て、向かいの席から隣の席に移動してきた。そして小さな子をあやすように、私の背中をポン、ポン、と軽く叩き、静かに話し始めた。
「だったら、爺さんに謝ればいいだろ。向こうは怒ったりしてないからこそ、お前の好物を持って様子を見に来てるんだ。次来た時にでも謝ってスッキリすれば良い。そんなに落ち込むなって。好きな人を傷つけてしまった事を後悔する気持ちはわからないでもないが、爺さんにしてみれば、お前のそんな様子を見るのは逆に辛いんじゃないか?」
私は穏やかに話すシンの声を聞きながら、気持ちが徐々に落ち着いていくのがわかった。
「そうね……おじい様に会ったら、子供の頃の事をたくさん話したい。そして謝るわ。ありがとう、シン。あなたが待っていてくれて良かった。そうじゃなければ、私は一晩中考え込んでいたわ」
「少しは落ち着いたようだな。じゃあ、今日はもう休め。眠るまで側に居てほしいか?」
シンは暗く沈んだ私を笑わせるつもりで冗談交じりにそう言ったのだろうけれど、私は本当にそうしてほしいと思っていた。
「あの……」
「フフ、冗談だよ。じゃあ、俺はもう帰るな。昔何があったのか……それを誰かに話す事で気が楽になるなら、いつでも俺が聞いてやる。いや、話す相手はタキでもチヨでも良い。だから、一人で抱え込まないでくれ。辛い時に寄りかかれる相手が居るって事、忘れるなよ」
シンは私の頭にポン、と手を置き、にこりと笑って席を立った。そしてそのまま帰ってしまおうとするシンの手を、私は無意識に掴んでいた。
「ん? どうしたんだ?」
「あ……ごめんなさい。何でもないわ。おやすみなさい、また明日ね」
「ああ、おやすみ」
シンは穏やかにそう言うと、使い終わった食器を持って私の部屋を出ていった。
翌朝、朝食を作りに厨房へ向かうと、お味噌汁の良い香りがして、シンとタキがそこに居た。
「あ、おはよう、ラナさん。良く眠れた?」
「おはよ、オーナー。勝手に朝食の用意をしちまったけど、構わないよな?」
私は思い掛けない二人の行動に驚いてしまったけれど、その優しさに心がほっこりした。
「おはよう、シン、タキ。ありがとう。じゃあ、私も何かもう一品作るわ」
そう言って厨房に入ると、棚の陰になって見えなかった場所で、フレッド様とリアム様が、ちょっと慣れた手つきで野菜の皮むきをしていた。
「な……何をしてるんですか、お二人とも!?」




