97・忘れていた記憶
夜会の会場となった建物の中から見える前庭は、両サイドに背の高い針葉樹がズラリと立ち並び、この空間を縦に長く仕切っていた。中央にはライトアップされた噴水がドンと構え、その周りは綺麗に石畳が敷かれている。
そして石畳の敷かれていない部分には芝生が青々と茂り、発光石の外灯と、木を円錐や三角錐の幾何学的な形に刈り込んだトピアリーが左右対称に設置されていて、昼間に見たとしても、この庭が素晴らしいものであることは間違いなかった。
噴水にたどり着くと、その周辺はとても明るくて、フレッド様の顔が良く見えた。それは勿論、噴水を見に来ていた他の人達から見ても同じで、私達が来た事に気付いたカップル達は、お辞儀をして夜会の会場に戻ってしまった。
王子の邪魔をしてはいけないという配慮だろうが、明らかに良い雰囲気だった方達を、強制的にこの場から追い出してしまったようで、なんだか申し訳ないと感じた。
「どうだ? 近くで見た感想は?」
「とても綺麗です。でも、他の方たちに気を使わせてしまいましたね。申し訳ない事をしました……」
「フフ……気にするな」
フレッド様はそう言って微笑んだあと、私の手を取ってぐるりと大きな噴水の周りを歩き始めた。ライトアップされた噴水の光が、下に溜まった水に映ってキラキラと輝き、とても幻想的な雰囲気をかもし出している。
カップル達がイルミネーションを見に行く気持ちが良く分かった。確かにこれは、ロマンティックな気分に浸れる。あとは誰とこの感動を共有するかで、随分違ってくるだろう。
私はふと、今ここに居ない人たちを思い浮かべた。
チヨとシンとタキにも、この光景を見せてあげたいわ。皆もきっと感動するわよね。
私は改めて夜会の会場となった建物を見てみた。
私は多分、子供の頃にここへ来ている。
来たのは夜ではなく昼間だから、印象は全然違うけれど。
学校に上がる少し前までは、お茶会に出席するお母様にお願いして、何度か王宮に連れて来てもらった事があるのは間違いないのだ。
小さい頃の事だからなのか、記憶が曖昧で、なぜか無理に思い出そうとすると霞がかったように不鮮明になってしまい、それ以上は思い出せない。
なのに会場となっているあの建物を目にした今の私には、なんだか無性に気になっている場所がある。
フレッド様とダンスをしている時に見た、白昼夢。
あの時に一瞬だけ見えたのは、王宮と、夜会の会場であるあの建物かもしれない。
すでに公爵家を出た私には、こうして王宮の敷地内に入れる機会など、もうこの先巡ってくる時は来ないだろう。今を逃せば、確認する術は無くなってしまう。
そう思った私は、無理を承知で、そこに行ってみたいとフレッド様に頼んでみようかと考えていた。
警備の関係上、勝手に他の場所に入れない事くらいは分かっているけれど。
夜会の会場であるあの建物は、王宮とは別に、今回のような夜会やパーティーなどを行う為に敷地内に建てられたもので、そのうしろには大きくて立派な王宮が見えている。
白昼夢の中で見た建物が夜会の会場となったあの建物だとしても、見ている場所が違うせいで、視界に入る王宮の位置が違っている。
たぶん、夢で見たのはあの針葉樹の林の向こう側の景色なのだと思う。
「何をそんなに真剣に見ているんだ?」
私が黙ったまま噴水越しに夜会会場を見つめていると、それを遮るようにフレッド様に顔を覗きこまれてしまった。私が驚いてビクッとなると、彼に思い切り笑われた。
「ふはははっ、女将のそんな反応、初めて見たな」
「女将ではなく、ダリアとお呼びください。まだトピアリーの陰に数組のカップルが隠れています。聞こえていたらどうなさるおつもりですか」
「ふふ、誰も聞いてなどいないさ。もうお互いの事しか見えていないだろう。それに、これだけ離れていれば、声など聞こえない」
トピアリーに隠れて数組のカップルが愛を語り合っている事は、ここへたどり着くまでに分かっていた。姿は見えずとも、クスクスと笑う女性の笑い声と、ボソボソと低い男性の声が聞こえていたし、ドレスの裾が物陰からはみ出ていたのだ。
彼らには、林の周辺を警備に当たる兵士の存在など気にもならないようだ。
「あの……フレッド様」
「どうした?」
「その、右側の林の向こうには、何があるのですか?」
フレッド様は、意外な質問をする私に少し驚いたようで、一瞬キョトンとした。
「ああ、向こうは王宮から眺められる庭や、プライベートな場所がある。気になるのか?」
「はい……暗くて見えないのでしょうけど、花の咲き乱れる庭を拝見してみたいです。でもそれは無理……ですよね?」
無理だと断られる事を承知で、思い切ってお願いしてみると、フレッド様はしばらく考えたあと、仕方ないなと言う顔で頷いてくれた。
「よし、わかった。女将には無理を言ってこんな事をさせた上に、弟が迷惑をかけたからな。特別に連れて行ってやろう。向こうでも外灯の明かりはついているから、花は見る事ができるぞ。太陽の下で見たほうが綺麗だが、この機会を逃せば、もう見せてやることは出来ないだろうしな」
このような勝手なことをさせては、あとでフレッド様が殿下から叱られてしまうかもしれないと言うのに、彼は私の願いを快く聞き入れてくれた。
私はそれを聞き、思わず満面の笑みでお礼を言っていた。
「本当ですか? ありがとうございます!」
「フフ……そんなに喜んでくれるとは思わなかった。では、行こうか。こっちだ」
私はフレッド様に手を引かれ、外灯の光の届かない場所からどんどん林の中に入っていった。林の前で警備に就いていた兵士は私達を見ていたけれど、フレッド様が軽く頷くと、兵士も頷き返し、そのまま通してくれた。
暗くて分からなかったけれど、実際入ってみれば林というほど奥行きは無く、すぐに抜ける事ができた私達は、反対側で見回り中の兵士に早速見付かってしまった。
「殿下、どうなさったのですか。こちらは警備が手薄ですから、お戻りください。私共がお送りします。あっ……これは、失礼を」
フレッド様の後ろに私が居る事に気付いた兵士は、ハッとして頭を下げ、すぐにその場を離れた。
どうやら、何か勘違いされてしまったようだ。彼らはきっと、ウィルフレッド殿下が今夜のパートナーと二人きりになれる場所を探して、夜会を抜け出してきたのだと思っているのだろう。
「勘違いされてしまったかしら? 私達が夜会を抜け出してきたと……」
「フッ、実際そうだが? 別に構わないさ。途中で抜け出すことはダリアにも了承を貰っている。彼女は誰と噂になろうが、自分が他人からどう見られていようが気にしない人なんだ」
「格好いい……ですね……人の目を気にしないで生きるというのは、難しい事ですのに。私もそうありたいです」
フレッド様はフッと笑って私の手を引いて歩き出した。
目の前に広がるのは綺麗に整備された広大な庭だった。外灯が適度に設置されていて、闇に隠れられるような場所は無いように見える。
しかし私が行きたい場所はもっと奥で、さらに夜会会場の側面が見える場所だった。
「あの、もっと向こうも見てみたいのですが……」
「うん? 好きに見ていいぞ。外灯があると言っても暗いから、足元には気をつけるんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
フレッド様は私から手を離し、自由に歩いて良いと許可をくれた。私は少し離れてから、小声でヴァイスを呼んだ。
「ヴァイス、居る?」
(はい、ここに)
「もしかしたら、あの夢に出てきた場所が見付かるかもしれないわ」
(それで封印が解けるといいですね。周囲に危険な者はおりませんでしたので、じっくり確認してください)
「ありがとう」
私は花を見ている振りをしながら、少しずつ目的の場所に向って移動を始めた。本当は、走ってあの場所を探したいけれど、それでは不審に思われてしまうだろう。
段々と緊張感が増し、あの場所を見つけたとき、自分はどうなってしまうのかという不安を感じ始めていた。
「あ! その先、気をつけろよ! 段差がある!」
「え? あっ」
フレッド様の声を聞き、暗くて良く見えなかった段差で転ぶ事はなかったけれど、私の頭の中には、あの少年の声が聞こえていた。そしてこの場所で実際にあったかもしれない一場面が、走馬灯のように流れていった。
目に映る景色は外灯が照らす暗い夜の庭だというのに、私の目には、蝶が舞い飛ぶ昼間の庭の景色がダブって見えていた。
目の前には、あの男の子が居る。
「馬鹿、はしゃぎ過ぎなんだよ。気をつけろって言ったのに」
「言うのが遅いのよ! ぐすっ……」
「はぁ……膝、擦り剥いたのか? すぐ治してやるから、泣くなって」
「私、侍女に言って、手当てしてもらってくるわ……」
「駄目だ! 俺が治すって言ってるだろ! 今来たばかりなのに、そのまま屋敷に帰りたいのか?」
男の子は私の足元に跪いて、なんの躊躇いも無くスカートに手を入れた。
「いや! エッチ! 何するのよ!」
パシッ
私は小さな手で、男の子の頬を叩いていた。
「……っ! 黙って待っていろ! ほら、もう痛くないだろ?」
そう言って力が抜けたように地面に座り込んだ男の子は、走ってきた従者に抱えられて、どこかへ連れていかれてしまった。
そこで映像は途切れ、ハッと気付いた私は、周囲を見回した。そこは元の暗い庭で、男の子は勿論居ない。
なんだったの? 今の……? ここで、子供の頃の私は、あの男の子に治癒魔法をかけてもらった?
「どうした、女将? 立ち止まって? まだ散策を続けるか?」
何をするでもなく立ち止まってボーっとしていた私を気遣って、フレッド様が追いかけて来てくれた。
「いえ……何でもありません。もう少し向こうも見たいのですけど」
「あっちは今は何も無い。ただの芝生が広がるだけの広場だ」
「広場……。せっかくなので、見てもいいでしょうか」
「フッ、変わった人だ。では、ここからはエスコートしよう」
フレッド様は腕を差し出し、私が手を添えるのを待って歩き出した。
並んで隣を歩くフレッド様は、私と目が合うたびに微笑んでくれるけれど、きっと心の中では、私が何を目的として何も無いと分かっている場所に行きたがっているのかと、私の反応を見ながら考えているのでしょうね。
こちらからフレッド様を見ているせいもあるけれど、フレッド様の方も、何度も私の方を確認しているのは分かっている。
それでも私達は、お互いに考えている事を口にはしなかった。そして芝生の広場まで来た所で、フレッド様が声をかけてきた。
「ほら、何も無いだろう? 昔は庭師が色々と頑張っていたんだが、何年も前に周囲にあった木は全て伐採して、ここは何かあった時の為に空けてあるのだ。気が済んだか?」
私の鼓動はこれ以上無いほどに早まっていた。
ここには確かに何も無かった。サッカーが楽しめそうなほど広い空間が広がっているだけ。
でも、私の目にはそこに生垣で作った迷路が見えている。先ほどと同じく、昼間の景色がダブって見えていたのだ。
そこから視線を移し、背後の景色を確認した。
「あ……」
間違いなかった。ダブって見えている昼間の景色は、そこにある夜の背景にピッタリと重なった。
お母様と一緒に来た時に会っていたとしたら、私と同じように、お茶会に参加する母親に付いてきた男の子だった可能性も無くはない。
しかし、そうでは無い事はすぐに理解した。なぜなら、物凄い勢いで記憶が蘇ってきたから。
ここでの出会いは、夢で見た通り。それからお茶会にお母様が招かれるたびに、ここであの子と遊んでいた。そして婚約が決まり、久しぶりに会えると喜んでここに来たあの日……彼は私の記憶を、何の断りも無く消してしまった。




