96・助けてくれたのは
「ハァ、ハァ……すまなかった、嫌な思いをさせたな。もう大丈夫だ」
私の頭の上から、低く響くフレッド様の声が聞こえて来た。
彼はマリアとダンスを楽しんでいるはずなのに、なぜ今ここにいるの?
目の前にあるのは広い胸と見覚えのあるジャケットの金ボタン。
状況が良く分からずに視線を彷徨わせていると、会場からテラスに出る扉の前で立ち尽くす、マリアの姿が視界に入った。
「フレ……ウィルフレッド殿下、なぜ……?」
見上げると、フレッド様は軽く息を切らし、額には薄らと汗が滲んでいた。
「お前が会場を出ていくのが見えた。何か嫌な予感がしたんだ」
そう言って心配そうに私を見た後、フレドリック殿下を睨み付け、静かに、そして低く、怒りを抑えるような口調で叱責した。
今、感情のままに怒鳴り声をあげて、夜会を楽しむ人達にこれが気付かれでもしたら、どんな尾ひれが付いて王子二人のスキャンダルにされてしまうか分からない。
しかも、間に挟まれたのはこの国でも変人として知られるダリアなのだ。
その風変わりな他国の令嬢を取り合って、夜会の最中に喧嘩していたなどと、面白おかしく噂されるに決まっている。しかしそれよりも、これがダリアの醜聞に繋がる事の方が大問題だ。
「フレドリック、お前は何を考えている! 彼女が誰であるか、分かっていてやっているのだろうな。お前が人生を台無しにした、エレイン・ノリス公爵令嬢ゆかりの方なのだぞ……! 彼女もアルフォード国王の血縁者だ、お前の愚行で友好国との関係に亀裂を入れる気か!」
フレドリック殿下は知らなかったとでも言いたげに驚いた表情を見せた。そして唇を噛み、恨めしそうにアーロン様を見た。
「殿下……まさか、私の話を聞いていらっしゃらなかったのですか? 私は夜会が始まる前に、殿下に今夜の参加者について一通り説明いたしました。その最後にお伝えしたはずです、ダリア・アンバー・ケンジット侯爵令嬢はエレイン様の又従姉妹に当たる御方だと。第一、その方をご覧になれば一目瞭然ではありませんか。ご存知だったからこそ謝罪し直したいと仰ったのだと思っていましたが……」
「知らぬ! 私はそんなこと聞いていない!」
フレドリック殿下はプイと顔を背け、自分は悪くないとでも言いたげに、悔しそうな顔をした。
そんな事聞いていない……確かに聞いていなかったのでしょうね。
フレドリック殿下は貴族の家系などを覚える事が苦手で、パーティーなどで声をかけてきた方の事は私がその都度そっと耳打ちしていた。何度も会う方の事はさすがに覚えるけれど、年に一度会うか会わないかの方の事はすぐに忘れてしまうから。
当時殿下が間違えておかしな事を口走った時には、すかさず私がフォローしていた。
前もって知らせていても、この方にはそもそも覚える気が無いのだから、意味は無い。
私が側を離れてからはどうしていたのやら……先ほどは私の知らない一面を見たと思ったけれど、殿下は相変わらずなのだと呆れてしまう。
アーロン様がどう説明なさったのかは知りませんが、殿下は以前から噂に聞いていたダリアの事しか頭に残っていなかったようです。
相手が変人と名高いダリアだと知り、王太子の座を奪ったウィルフレッド殿下のことを見下したかったのですね。
……やはりあなたは王となる器ではありません。私諸共、表舞台から消える事ができて良かったと心底思います。
「言っておくが、ダリア嬢は私を王子と知っていて侮辱したのだ! それをほんの少し懲らしめてやろうとしただけだというのに、大げさな……」
フレッド様はヒューバート様にそっと私の身を託し、フレドリック殿下の胸ぐらを掴んでグッと持ち上げた。フレドリック殿下は自分を持ち上げる手を外そうともがき、苦しそうに目を細めた。
「ぐう……くるし……離せ……この……馬鹿力……!」
「ウィルフレッド殿下……! お止めください、ここは人目に付きます。主を止める事が出来なかった私達にも非がございます、この罰は後日お受けしますので、どうか今はお気を鎮めてください」
アーロン様の訴えを聞き、ウィルフレッド殿下は舌打ちしてフレドリック殿下をエヴァンに向けて放り投げた。
エヴァンは殿下を無事キャッチし、殿下はヒューバート様の時のように大怪我を負うような事にはならず、ズボンの裾が多少汚れる程度で済んだ。
「ダリアがお前を侮辱しただと? お前がそうさせたのだろうが! どうせ嫌がる彼女に付き纏ったのだろう。それを追い払う為に仕方なく何か言ったのではないのか?」
「……まるで見ていたかのようだな……」
フレドリック殿下はズバリ言い当てられ、私に何か言いたそうな視線を送ってきた。
「殿下、あなたが何の非も無いエレインに何をしたか、私は全て存じております。そんな方の相手が出来るほど、私は出来た人間ではございませんわ」
「むう……エレインの事を言われると……。ダリア嬢、すまなかった。行くぞ、二人共」
何も言い返せなくなったフレドリック殿下は、つっけんどんな態度で一言謝って、この場を去った。
私の名を出しただけで、こうもあっさり引き下がるとは思わず、私とヒューバート様は呆気に取られていた。
去り際に、アーロン様は私の顔を見てどこかホッとしたような笑顔を見せた。そしてすれ違いざま、彼はボソリと呟いた。
「耳というものは変装しても変わらないので、隠した方がよろしいですよ」
「えっ?」
私は咄嗟に耳を手で隠し、アーロン様を見た。
「ふふ、冗談です。お元気で」
「あ……」
アーロン様は私がエレインであると気が付いていたのだろう。確かに耳は意外と個性があるので、もしもその特徴を覚えられていれば、バレるかもしれない。
とは言っても、私の耳はそれほど特徴のある形ではないから、アーロン様にカマをかけられたのだとすぐに分かった。
「今、アーロンに何を言われた?」
「いいえ、何も。ところで、殿下は今、ダンスを踊っていらしたのではなかったのですか?」
「それどころでは無かっただろう。壁際でこちらを見ていたはずのお前が、テラスに出ていくところを見ていたのだ。先ほどからフレドリック達の姿も見えなかったし、嫌な予感がして、ダンスの相手を放って急いでテラスに出た。するとテラスにも姿は見えず、階段の下であいつの腕に抱かれたお前を見た時は、怒りで我を忘れてしまった」
私とフレッド様の会話が始まると、ヒューバート様は気を利かせてその場を離れていった。
「一緒に踊っていた方は、その場に一人残されてしまったのですか?」
「義理は通した。娘と一曲踊ってくれという彼女の父親の頼みは聞いたのだ。彼女からは次もとねだられて、断りたかったのだが、あの場で泣かれるのは困るしな……」
本当にマリアがねだったの? あのマリアが? しかも、泣き落としで二曲踊ろうとしていただなんて……。彼女、そんな性格ではなかったように思うけれど。殿下の事をお慕いしているというあの噂話は、あながち嘘でもなかったという事なのかしら?
「約束通り、噴水を見に行くか。もうあそこに戻る気にはなれない」
「はい、ですが、先ほどのご令嬢に、一言断ってきては如何ですか? 何も言わず突然居なくなってしまったのでは、困惑されているかと思いますが……」
「……あれはちょっと面倒なのだ。放っておけば良い。行こう」
先ほどマリアが立っていた扉を見ると、彼女はまだそこに立ち尽くしていた。
残念ながらここからではその表情は見えない。
本物の殿下は、不特定多数の令嬢ではなく、マリアを避けたくてダリアをパートナーに選んだのかもしれない。
そういえば、下手な令嬢に頼めば変に期待を持たせてしまうと、リアム様はその事を苦慮していた。今まで女性の同伴が必要な時は、マリアがその役を担っていたと言っていたけれど、本当にそうなら、期待してしまうのも無理の無い事だわ。
「フレドリックの事、すまなかったな」
「いいえ、殿下が謝る事ではございません。あれは避けようの無い事故でした。いつの間にか、先回りされていたのですもの」
夜風に当たりすぎてしまったせいか、少し寒いと感じたその時、フレッド様はまた私にジャケットをかけてくれた。冷えた素肌には、彼の温もりの残るジャケットはとても温かく感じた。
「温かいです。ありがとうございます」
「ああ、先ほど触れた時、肌がやけに冷たかったから……本当なら、会場に戻るべきなのだろうが……」
「いえ、大丈夫です。歩きましょう、そうすれば体が温まりますもの」
もうかなり噴水に近付いたところで、私は何となく振り返り、会場となった建物の全貌を眺めた。
……あれって、夢の中の建物と同じ? ううん、子供の頃、お母様と一緒に王妃様のお茶会に来た事があったけれど、その時に見た建物だったかもしれない。




