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アクアパッツァの海 3


 レイプものだとか、そういう類のエロビデオは大嫌いだ。

 女の子が泣いてたりしたら可哀想だし、無理矢理っていうのがどうにも気分が悪い。気に入らない。そういうものに興奮を覚える人間がいること自体が胸糞悪い。

 だって、セックスって楽しくやるもんだろ。

 そうじゃないと意味が無い気がする。

 そうじゃないならやらなければいいのだ。

 二人、楽しかったり、幸せだったりして初めて意味を成すものだと俺は思う。

 だから正直、俺にとってそれからのケーコさんとのセックスは辛かった。

 ミキのこと、ケーコさんのこと、ケンヤ君のこと、全てがはっきりとしなくて不完全だった。 

 それでも関係を断ち切ることもできず、季節だけが段々と夏に向かって進んでいた。

 一歩一歩、月の満ち欠けのように。



 ミキの外出がやたらと気になった。

 生活リズムの違いなんてずっと昔からのことなのに。ケーコさんの言葉が原因なことは明らかだった。

 注意してみると不思議なもので、なかなか顔を合わせない。

 不在ばかりが目立ってミキの存在をぐっと薄くした。

 その日も、家に帰るとミキはいなかった。

 冷蔵庫を開けると一応、俺の夕飯が用意してあった。器に入った肉じゃがとサラダ。おそらく昨日の夜にでも作ったのだろう。

 取り出して肉じゃがをレンジにかける。

 ラップをかけた肉じゃがは徐々にぐつぐつ鳴り出して、俺はそれを見て、あぁ、こんな簡単に何もかも温められたらいいのになぁ、なんて思った。我ながらバカバカしかった。

 夫婦生活にも波があると言う。

 良い時もあれば悪い時もあると言うのだ。それは確かにそうだろう。

 でも、もう三年だ。不安にもなる。

 正直、俺は自分から進んで離婚しようという考えはなかった。三年間一度もそんなことは考えなかった。

 ミキはどう思っているのだろう?

 もし同じようなことを考えていてくれているなら。俺達はまだ、どうにかなりそうな気もする。

 ケンヤ君という具体的な存在が現れてから、ミキを失うかもしれない、という思いは日に日に大きくなっていた。

 まったく情けない話だ。何をどう間違えたらこんな悪い状況になるというのだ。

 ちょうど夕飯を食べ終わった時、携帯が鳴った。

 ミキからだった。

「もしもし」

「あ、もしもし」

 そう言ったミキの後ろは、何やらざわついていた。

「どうしたの?」

「仕事のトラブルで今日はちょっと帰れないわ」

「そうか」

「一応、夕飯に肉じゃがが冷蔵庫にある」

「知ってるよ」

「もう家なの?」

「うん」

「珍しいじゃない」

「ま、そうだね」

「そっか。じゃ、そろそろ仕事に戻るわ」

「うん。頑張って」

 そう言うと電話はあっさり切れた。

 ミキは出版社で編集の仕事をしている。普段は帰りはあまり遅くないが、土日に出勤したり今日みたいなトラブルに対応をしたりということは以前からたまにあった。

 だから別に不自然なことではない。

 でも今日はそれを自然と受け入れられなかった。電話口の後ろのざわつきが耳にこびり付いて離れなかった。

 俺はテレビをつける。

 一人で生きるにはこの家は広過ぎるように思えた。



 上着を脱いで営業をしていた。

 俺も。マリも。

「暑いなぁ」

 駅のベンチ。環状線の到着を待っている。

 隣に座るマリは俺の問いかけには応えずに何やら携帯とにらめっこしていた。

 指の動きからしておそらくメールでも打っているのだろう。微かな鼻歌も聞こえる。

「なぁ、暑いなぁ、マリ」

「え、あぁ。そうですね」

「聞いてた?」

「あぁ、はい。ちゃんと聞いてましたよ。もちろん」

「なんか最近よくメールしてるなぁ」

「えっ、そうですかぁ?」

 そうですかぁ、なんて言いながらその表情はよくぞ聞いてくれた、という感じだった。

「そうだよ。もしかしてあれから上手くいってるの? 例の紹介の彼と」

「ふふふっ。よく分かりましたね」

「そんな顔してたら分かるよ。誰だって」

「顔に出てました?」

「出てる。出てる。今もだよ」

「これは失礼」

「で、どんな感じなの? てかもう付き合ってるの?」

「ふふふっ、まだですよ。でもね、毎日連絡とってるんですよ。電話したりメールしたり」

「いい感じじゃない」

「でしょ。だからね、私最近毎日調子が良いんですよ。何と言っても朝がねぇ、しっかり起きられるんです」

「なんで朝? なんか関係ある?」

「え? 朝起きれないですか? そういう時期って」

「いや、分かんない。なんでなの?」

「だって楽しいじゃないですか。朝起きて、あぁ、今日もまたあの人とメールができる、電話ができる。なんて考えられるんですよ。それってすごく幸せなことでしょ?」

「あぁ、なるほど、そういうことね。それで朝がすっきりなのか。うん。まぁ、それは確かに幸せだな。うん」

「でしょ。あ、だからスグルさん。今、私のことあんまり残業とかさせたらダメですよ! いつデートが入るか分からないですし」

「うるせー」

「私の恋路を邪魔しないでくださいね」

 本気で言うから笑ってしまった。

 電車が遅れているみたいだった。アナウンスがさっきから何度もそう告げている。

 どうも人身事故らしい。

 何となく俺のイメージだが、この鉄道会社は人身事故が多い。

 急いでいる人達はホームから改札へ向かい、別の鉄道会社の振り替え輸送を利用するみたいだった。

 俺達は得意先からの帰りで、特別急がなければならない理由もなかったのでそのままベンチに座って電車を待った。

「奥さん、やっぱり綺麗でしたね」

「え?」

「いや、この前ですよ。偶然会ったじゃないですか。綺麗でした」

「あ、あぁ。うーん、そうかなー」

「綺麗ですよ。なんだか気品のある感じだし。私とは全然違うなぁって思っちゃいましたよ」

「気品かぁ。そんな感じなのかなぁ」

「ダメですよ。いないとこでこそ褒めないと」

「そういうもんか」

「そうですよ」

「うーん。まぁ、ありがとう」

「スグルさんも何だかんだ背高いし、悪い顔してないから、お似合いの二人って感じでしたよ」

「それ褒めてんの?」

「もちろん褒めてますよ」

「お似合いかぁ」

「うん。でも」

「でも?」

「でも、上手くいってないんでしょ?」

 驚いた。そんなことをマリに言い当てられるとは思わなかった。

「なんで分かったの?」

「そんなの二人の顔見れば分かりますよ。私をナメないでください」

「顔、かぁ」

「もうそうなってから長いんでしょ?」

「すごいなぁ。そんなことも分かるのか」

 俺は素直に感心した。

「辛いですか?」

「うん、辛いよ。正直」

 そう言って俺は小さく溜息を吐いた。

「あ、ダメですよ、スグルさん。溜息吐いたら幸せが逃げちゃう。溜息吐いたらすぐ吸わないと」

 分からなくもない理論だったので、俺はマリに言われた通り素直に息を吸った。

「ま、いろいろあるんだよ」

「じゃ、私がこれから幸せな話、いっぱい聞かせてあげますよ」

「何それ? 何の解決にもなってない」

「少しでも幸せになってほしいんですよ。スグルさんには。幸せのおすそ分けってヤツです」

「その気持ちはありがたいけど」

「少しずつでも何かを変えていかないと」

 それもそうだなぁ、と思った。マリの言うことも一理ある。

 その時、ちょうどアナウンスが電車が動き出したことを告げた。

 次この駅に来る電車は現在四つ前の駅を出発して、約十五分ほどで到着するとのこと。ご迷惑をお掛けして大変申し訳ない、と頻りに謝っていた。

「動き出したみたいですね」

「そうみたいだね」

 長時間電車が止まっていた割に駅には人は少なかった。

 疎らに何人かがホームに立ち、不機嫌そうな顔でアナウンスを聞いていた。

 その向こうに見える空は、人身事故にはおよそ似つかないほどの快晴だった。

 薄い色の青。水色と言ってもいいくらいの。

 眩しさに少し目を細める。

 ベンチに腰掛けているのは俺達だけだった。

 ふと横を見るとちょうどマリと目があった。

 マリは、なんだか希望そのもののようだった。

 水色の空のようだった。

 そう思った。

 目が合ったまましばらく見つめ合った後、俺はそのぷくっとした桃のような唇にキスをした。

 マリは不思議そうな顔をしていた。

 俺だって不思議だった。

 言葉では上手く現せないその感情は、誰にも見られず夏の気配にさらっと溶けていった。

 何か魔法みたいだなぁ。なんて思った時、アナウンスが電車の到着を告げた。



 次の水曜日。珍しく早上がりに成功し、十九時の集合時間に間に合った。

 シティホテルのロビー。

 四人でチェックインの手続きをした。

 いつも俺は遅刻魔なので、チェックインに立ち会うのは本当に久しぶりだった。

 これはこれで変な感覚だった。

 終わった後の男女と始まる前の男女ってやはりどこか違う。

 部屋のキーを受け取るケンヤ君と、その隣に立つミキをセットで見ると、今更ながら俺はケンヤ君にミキを「差し出している」という感覚に苛まれた。

 胸がきりりと痛んだ。こんなことは初めてだった。多分、いつもは顔を合わせるのは終わった後だったから、俺もどこか真面じゃなかったのだろう。

 今からケンヤ君に抱かれるミキの顔。

 それは抱かれた後の顔よりずっと見たくなかった。関係を初めて一年、そんなことを今更ながら思った。

「三階か。なぁ、307ってさぁ。俺達、前もここだったことない?」

 ケンヤ君がミキに言う。ミキは「どうかなぁ」なんて曖昧な返事をして笑っている。

「スグルはどこ?」

「四階、402です」

「多分、初めての部屋よね」

 と、ケーコさん。

「替えるか? 307と」

「構わないですよ。別に」

「いいわよ。307のままで」

 そう言ったのは意外にもミキだった。

「あ、そう」

「行きましょうよ」

 ミキがケンヤ君の手を引いてエレベーターの方へ歩き出す。その刹那、一瞬だけミキと目が合った。

「あぁ」

 ケンヤ君が間の抜けた声でエレベーターへ向け歩き出した時、ケーコさんはぐっと俺の手を引いた。

「ちょっと歩きましょうよ」

「別にいいけど」

 そんなことを言っている間にケンヤ君とミキはエレベーターの中へ消えてしまった。

 俺はケーコさんに導かれるまま外へ出る。外には閉じきった闇が横たわり、俺達を迎えた。

 シティホテルには簡易な庭園があって、まばらに植木が立っていたりして、そこを真っ直ぐ抜けると大通りに出る。車の音が聞こえた。何を考えているのか分からないがせかせかした音。こんなに急いで皆、どこへ向かうのか。

 ケーコさんはずっと俺の手を握っていた。

「どこまで行くの?」

「知らない」

「ねぇ、ケーコさん」

「うるさい」

 そう言うケーコさんの声に俺は小さな違和感を感じた。

「泣いてるの?」

 きっと、よくできた男なら、ジェントルマンと呼ばれる類の男ならば、そんな下手なことは言わないだろう。愚かな俺だから、そんな真っ直ぐな言葉を容易に発してしまった。

 急に街から音が消えた感じだった。

 車の音も消えてしまって、ケーコさんの鼓動が聞こえてしまいそうで、反対に自分の鼓動も聞かれてしまいそうで、落ち着かなかった。

 不意にケーコさんが立ち止まる。

 気がついたら大通りに面する公園の中にまで来ていた。

 ケーコさんは黙っていた。

 その短い髪が絶妙な感じで表情を隠す。雫のようなものがすっと落ちていったようにも思えたが、考え過ぎなだけだったのかもしれない。

「ケーコさん」

「分かんないものよねぇ」

 ゆっくり手を離す。俺は何も言えなかった。

「ほんの遊びのつもりだったのに」

「うん」

「こんなつもりじゃなかった」

「分かるよ。大事なんだろ? ケンヤ君のこと」

「そうね」

「ミキとケンヤ君が会ってるなんて嘘だろ?」

「分からない。でも見たってのは嘘。考えれば考えるほど悪い想像だけがどんどん膨らんじゃったのよ。自分の中で。だからあんなこと言っちゃった」

「そうか」

「人の心では遊べない。よく分かったわ」

「うん」

「あなただってそうじゃないの?」

「俺は、俺は別に遊びだとかそんなふうには思ってなかった。とにかく何かを変えたかったんだ。それだけだよ」

「そう」

「ただそれを誰かに頼ってしまっただけだよ」

「後悔してる?」

「分からない」

「そっか。あーぁ、なんかかっこ悪いなぁ。私」

 そこで初めてケーコさんが顔を上げた。

 街灯に照らされた表情は予想外に晴れやかだった。

「だめだめだよ。幻滅した?」

「しないよ。そんなん。ケーコさんは正しい。いたって真面だよ」

「真面かぁ」

「うん」

「あんまり好きな言葉じゃないんだよなぁ。良い子みたいで。なんかダサいじゃない」

「ダサくても素晴らしいことだよ」

 俺がそう言うとケーコさんは少し笑ってくれた。

「もう行きなよ。あなたが始めたんだからあなたが終わらせないと」

「うん」

「あ、スグル君。でもね。あなたとの恋愛はやっぱり楽しかったわ。これは本当」

「俺もだよ。ケーコさんのこと好きだった」

「よく言うわ」

 ケーコさんが笑う。

「そっちこそ」

「さよなら。ね、生まれ変わったらまた私と恋愛してくれる?」

「今度はできれば高校生くらいで出会いたいよ。まだ難しいこととかややこしいこととか考えなくてもいいくらいの歳に」

 そう言って俺も笑う。

「違う世界では或いはそうなってるのかも」

「あんなに抱き合ったんだからね。その情熱はどこかでちゃんと報われているはずだよ」

「行きなさい。急がないと」

「ありがとう。ケーコさん」

 街路樹の向こうにそびえ立つシティホテルへ向かって走り出す。

 気持ちはまるで、ゲームのラスボスへ挑むような感覚だった。

 HPもMPもほとんど残ってない。アイテムだって持っていない。それでも向かっていく感覚。気持ち一つで向かっていく感覚。

 逃げられないと分かってやっと立ち向かえるのは情けないが、後悔しても仕方がない。取り戻したい。大事なものを。自分にとって大事なものを。

 愛は。愛は確かにそこにあるはずだ。

 怖くはなかった。まっすぐ走っていく。

 庭園を駆け抜けてロビーに入る。

 恥知らずな全力疾走の俺を受付の女の子は怪訝な顔で見ていたが、そんなこと気にしていられなかった。

 307。

 エレベーターが億劫で、焦ったくて、階段を駆け上がる。息が切れていた。こんなに走ったのはいつぶりだろう? 汗だくで、カッターシャツが身体にへばりついた。

 三階にたどり着き部屋番号に307の番号を探すと、ありがたいことにそれはすぐに見つかった。

 俺は沈黙しているドアを拳で思い切り叩いた。ドアベルなんかじゃなくて、しっかりと、何度も叩いた。

 害のない館内放送のメロディーをかき消して、廊下に俺がドアを叩く音が響く。

「ミキ! 帰ろう!」

 力の限り怒鳴る。運命に抗いたかった。この呪われた運命に。難破船に。

「ミキ!」

 もう一度大きく叫んだ。

 ドアを開けてくれ。

 そう強く思った時、部屋の中から聞き慣れた軽い足音がカーペット調の床を蹴り、こちらに走ってくるのが聞こえた。



 二階席の窓からは河が見えた。

 何度も上を通ったことのある河。でも名前も知らない河。

 静かだった。

 水面は夜に染まって揺れていた。

「美味しいですね。ここ」

「うん」

 そう言って俺はアクアパッツァのムール貝を一つ口に入れた。マリは開け放した窓の外に手を出して指で何かを書いていた。

 町外れの洋食屋。

 机の上にはクリームベースのパスタ、マルゲリータピザ、海老のアヒージョにバケット、アクアパッツァ、そして赤ワインのボトルとそれを注いだグラスが二つ。清潔なテーブルクロスの上に綺麗に並んでいる。

「仕事、やっとちょっと落ち着きましたねぇ」

 マリがアヒージョにバケットを浸しながら言う。熱そうな器だった。

「そうだね。やっとちょっと閑散期に入ったなぁ。まぁ、でもまた来月からは新しい仕事が始まるよ。また多分忙しくなる」

「そうですねぇ。束の間の休息かぁ。あー、なんか旅行とか行きたいですねぇ。ぐっと田舎なとこにでも」

「旅行か、いいね。行ってきなよ。あっ、例の彼とでも行けばいいじゃない」

「ふん。あんな奴、もう関係ないですよ」

 そう言ったマリの顔はものすごく不機嫌、という感じだった。

「なんだ、ダメだったの?」

「違いますよ! ダメだったんじゃなくてこっちからフってやったんです。だってスグルさん、聞いてくださいよ。あいつね、他に四人も彼女がいたんですよ。ふざけてるでしょ? 信じられない女好き。あり得ないですよ。馬鹿にしてる。だからね、まぁけっこう良い感じではあったんですけどね、思いっきりフってやったんですよ。はははっ、いい気味よ。馬鹿め。ふん」

 そう言ってマリは赤ワインをぐびっと飲み干した。

「あらら、そんな奴だったんだ」

「くそ野郎ですよ。女の子を、麗しの乙女達を馬鹿にしてる。本当に」

 怒ってる。どうも本当に頭にきているみたいだった。

「でも良かったじゃない」

「何が?」

 マリが俺をギロっと睨む。

「いや、付き合う前に気づいて良かったなって。付き合ってからだとまたいろいろと面倒でしょ?」

「まぁ、そりゃそうですけどー」

 どうも思っていた回答ではなかったようだった。マリは納得いかないような顔で残りのパスタを皿に取り分けた。

「スグルさんはどうやら最近、奥さんとの関係は良くなってきてるみたいですね」

「どうだろ?」

「そんなん顔見たら分かりますよ」

「またそれか」

 ケンヤ君夫妻との関係を解消して以来、少しずつではあるけど何かが良くなってきているような気もする。

 それはほんの少しの、多分普通の人が見たら何も変わらないと思うくらいの変化だけど、それでも確かに何かが変わっていた。

「幸せな話、いっぱい聞かせてくださいね」

「そういうのは苦手だなぁ」

「だめです。スグルさんには私を幸せにする義務があります。それも仕事の一環です」

「だったら早く幸せになってよ」

「うるさいなぁ。あー、やっぱり田舎にでも行きたいなぁ。ホーホケキョなんて鳥が鳴いてるようなとこに。マイナスイオンをたっぷり浴びてリフレッシュしたい」

「あぁ、いいね」

 俺はマルゲリータピザにたっぷりタバスコをかけて食べた。

「ね、スグルさん。あのホーホケキョってなんて鳥でしたっけ? ホトトギス?」

「いや、ウグイスだよ。多分」

「あ、ウグイスか。ホトトギスはあれか、鳴かぬなら……ってやつ」

「そうそう」

「あれってなんでホトトギスなんですかね? みんな飼ってたんですかね? ホトトギス。当時流行ってたとか」

「飼ってないだろ。武将がホトトギスなんて。てかそもそもあの鳴かぬなら……ってやつも自分で言ったわけではないと思うよ」

「あぁ、そうなんですか。そかそか、ずっと本人が言ったんだと思ってましたよ」

「だってじゃ誰がそのお題を出したんだよ。それ、どんなポジションの人間だよ」

「まぁそう言われると確かに。大喜利じゃあるまいしねぇ」

「うん」

「ね、スグルさん」

「うん?」

「なんでキスなんてしたんですか?」

「……ごめん」

「許しません。セクハラで訴えます。お金たくさん用意しておいてくださいね」

「ごめんって。勘弁してくれ」

「嘘ですよ」

 そう言ってマリは笑った。

「まぁこうしてちょっと良い感じのディナーで埋め合わせもしてくれたんだし、もう何も言いませんよ」

「すいません」

「でも二度目はありませんからね。私の唇、そんなに安くないんですから」

「分かってます」

 そう言って俺はマリのグラスにまた赤ワインを注いだ。ボトルを受け取り、マリも同じように俺のグラスに赤ワインを注いでくれた。

 二人、それを黙って飲む。

「幸せになりたいですねぇ。ただひたすら」

 しばらくしてマリが独り言のように呟いた。

「うん。間違いない」

 赤ワインのボトルはもうすぐ空になる。

 良い感じで酔いも回ってきた。

 マリも同様のようだった。

「ちょっとお手洗い」

 そう言ってマリはハンカチだけ持って席を立った。

「アイアイサー」

 俺は聞こえない程度に小さくつぶやき、一人ワインの続きを飲む。

 もう一切れマルゲリータピザを食べようと手を伸ばしたが、やっぱり思い直してアクアパッツァから白身魚を摘んで食べた。

 じっくり煮込まれたアクアパッツァのスープには脂が浮いていて、煌びやかだった。美しかった。

 窓の外を見下ろす。

 名前も知らない河は相変わらず夜に染まって揺れていた。

 真っ暗な河。

 でも俺は思う。

 流れ着くその先には必ず希望があると、今はまだ見えなくても、きっと朝があると。

 アクアパッツァの海があると。

 そんなことを考えながらグラスの中、赤ワインの最後の一口を飲み干したら、不意打ちみたいに涙が流れた。

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