アクアパッツァの海 2
週に二回はマリと飲んでいた。
これは別に深い意味はない。
「行きましょうよぉ」なんて向こうが誘ってくるのだ。だから何となく付き合っているだけ。
「だいたいにして、どうなんですか。今の営業部は」
「どうって言われても」
「なんかおかしくないですか?」
「何が?」
「部長も課長も、管理職が管理職としてもはや機能してないじゃないですか。あれじゃ下の人間に示しがつかないですよ。上の人達にももっと汗をかいてもらわないと」
マリはもう二杯目のビールを飲み干すところだった。いい感じで熱弁していた。
いつもそうなのだ。マリは酔っ払うとやたらと熱弁する癖があった。これはちょっとめんどくさい。俺は二杯目の中腹くらいだった。
「知らないよ。そんなん別にどうだっていいだろ」
「スグルさんはいつもそうやって線を引く」
「だって体制とかそんな大きなとこに文句言ってもどうにもならないだろ。俺らみたいな一般社員は目の前にある仕事をやってくだけだよ。計画数字足りてないんだから、どうしよう、とかさ」
「違う。スグルさん、憤らないとダメですよ。常に何かに憤らないと。そうしないと現状は何も良くならないんですよ」
「ま、言いたいことは何となく分かるよ」
「もっと発信してかないと。スグルさんは。仕事できるのに、いつも本質には関わろうとしない。それがスグルさんの悪いとこです」
そう言ってマリは店員さんを呼んでビールのお代わりを頼んだ。何も言ってないのに俺の分も勝手に。
「で、夏に向けて彼氏はできたの?」
「それ、聞きます? 分かってるくせに」
マリは少し不機嫌そうな感じで胡瓜の一本漬けに七味をまぶした醤油をつけて食べた。
マリの言う通り、彼氏ができていないことは何となく分かっていた。
マリはいつも彼氏ができたら浮き足立って、営業中もやたらと携帯を確認したり、直行直帰が目に見えて増えたりするのだ。だからすぐに分かる。
「結婚してるスグルさんには彼氏ができない私の苦しみなんて分からないですよ」
「結婚してたって幸せとは限らないよ」
「嘘だ」
「本当だって」
自分で言っておいて胸が痛んだ。
今の破綻した夫婦関係のことを俺はマリには一切話していなかった。ましてやケンヤ君夫妻との奇妙な関係なんて言えるわけがなかった。
「それはね。スグルさん、幸せの平均値が上がってるんですよ。知らないうちに」
「そんなことないって」
俺がそう言うと、マリは深く溜息をついた。
「あのね、例えばですよ? 私なんて片田舎から出てきてこの都会で一人で暮らしてるわけで、それでいて、毎日社会の荒波に揉まれて残業したりして、帰りも遅いわけですよ。で、よろよろと最終電車に揺られて家に帰って、たまにあぁ今日はもう疲れたからこのまま寝たいなぁ、なんて思ってベッドに倒れ込むじゃないですか? でもね、一人なんですよ。だからベッドも冷たくてすごく寂しいんですよ。泣きそうになるんですよ。そこにきてスグルさんみたいな既婚者はね、そんな時もベッドはちゃんと暖かいんですよ。なぜならちゃんとパートナーがいるから。だから寂しくない。私みたいに泣きそうになったりしない。分かります? ねぇ、スグルさん? 分かります?」
マリは勢いよくジョッキをテーブルに置いて言った。
「言いたいことは何となく分かるよ」
「ちょっと、さっきからそればっかりじゃないですか」
「うーん。でも一つ言うとうちはベッドは別々だよ」
「え? なんでなんですか?」
「なんでって、その方が楽だから。てかそもそも部屋自体が別だよ」
「は? 何それ? 終わってるじゃないですか」
「普通は一緒に寝るものなの?」
「そりゃそうでしょ」
「お前さ、夢見過ぎだよ。それは」
「スグルさんが夢見なさ過ぎなんです」
ほんと信じられない、と呟いてマリはまたビールの続きを飲み始めた。
夢見なさ過ぎ。
確かにそれはそうかもしれない。恋愛に対する淡い夢。昔は俺も見てたのかな?
もはやそれすらちゃんと思い出せない。
ケンヤ君夫妻との関係には二つだけルールがあった。
一つは必ず避妊すること。もう一つは四人でしか会わないこと。
要するに「本気にはならないこと」ということだ。
お互い適度な距離を取り、責任のない範囲の中だけで好きに遊ぶ。誰もそこに対して異論はなかった。
最近、街はすっかり暖かくなって、むしろ暑いくらいで、行き交う人はジャケットを脱いで半袖を着ている人すらいた。
営業中、環状線のホームで電車を待っていると、ケンヤ君からメールが入る。
『お疲れ様。次は来週の水曜はどう?』
日程を決めるのはいつもケンヤ君の役目だった。いつしか自然とそうなっていた。
ケンヤ君から連絡が来る度に、また次があるのか、といつも思ってしまう。
別に良いとか悪いじゃなくて、ただ単に終わりが見えないことを意識してしまうのだ。それは少し辛かった。できれば見たくない現実だった。
『お疲れ様です。多分大丈夫だと思います。帰ってから念のため妻にも聞いて返事します』
当たり障りのない返信をする。
でも言う通りおそらく日程的にミキも問題はないだろう。ミキは平日、滅多に予定を入れない。だからまた来週、ケンヤ君夫妻に、ケーコさんに会うことになる。
『了解。また連絡待ってる』
そうケンヤ君からメールが入った時、線路の向こう側から列車が駅に向かって入ってくるのが見えた。
六月の陽光を切り裂いて、ゆっくりとカーブを曲がってくる。
がらがらの環状線のシートに座ると妙に眠かった。
身体がぼろぼろに疲れているみたいだった。抗うことなく目を閉じて、淡い眠りに身を投じると、気がついた時には事務所の最寄り駅まで帰ってきていた。三十分くらい寝ていたことになる。電車を降りてふらふらと歩いてみたが、眠気は身体から全然抜けていなかった。
事務所に入るとちょうど外出前のマリとすれ違った。
「疲れてる。はははっ」
マリはそう言って俺の顔を見て笑った。人の気も知らないで。アホ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
そう言って敬礼のポーズをして出ていった。
自分の妻を別の男に差し出してるなんて、そして代わりにその男の妻を抱いているなんて、マリが知ったらどう思うだろうか。
それはもはや完全にマリの理解を越えた行動だろう。
軽蔑するだろうか? おそらくするだろう。底のない谷のような軽蔑。
マンションの下で外出するミキと鉢合わせた。
顔を合わせるのは数日ぶりだった。もう時間は二十二時を越えていたが今から何処かへ出掛けるみたいだった。
「おかえり」
「ただいま」
「今から出掛けるの?」
「うん、ちょっとね」
薄手のシャツにふわっとしたスカート。こんな時間からいったい何処へ行くのだろう。
「ケンヤ君から連絡があって、来週の水曜はどうかって聞かれてるんだけど」
「来週の水曜。うん、別に大丈夫よ」
「じゃ返事しとく」
「うん」
「じゃあね」
そう言ってミキは俺の横をすり抜けていった。
いつもそうだ。いつもこうやってすり抜けていく。
「ミキ」
小さな背中に声をかけると、ミキはゆっくり振り向いて俺を見た。
「何?」
「あ、いや。気をつけて」
声をかけたが、特に話すことなんて無かったのだ。
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
そう言うとミキは薄暗い街灯が照らす夜の闇へ消えていった。一度も振り向かずに。
俺は一人溜息を吐いた。
その夜は珍しく家で一人でビールを飲んで晩酌をした。
瓶ビールで四本。俺としてはかなり飲んだ方だ。
でも不思議なことに全く酔わなかったし、眠くもならなかった。昼間はあんなに眠かったのに。仕方がないので録画していた古い映画を二本も見た。
止めたはずの煙草が無性に吸いたかった。でも家には煙草なんて一本もない。ライターもない。
映画の内容は全然頭に入ってこなかった。
水曜日は全社的な早帰り日だ。
ちょうど一年くらい前、残業代削減のために上の独断で決定した施策。
実施が始まった頃は急な決定へみんな不平不満を口にしていたのだが、しばらくすると週に一度のこの取り決めが習慣になり、いつしか毎週水曜日は自然と定時に帰る人がほとんどになった。だからこれは、会社の施策としては一応成功だったのだろう。
しかしもちろん一方で毎週毎週定時に帰れていない社員もいる。
例えば俺。営業先の編成のせいか、俺は周りに比べて外出先からの帰社時間が遅かった。そのため戻ってから社内業務を行うとなると、どうしても定時には帰れない。
「スグルさん。私、今日は定時で帰ってもいいですか?」
水曜日。外出先から戻ってきた時、マリがそう言ってきた。
時計を見ると時刻はもう十七時半だった。
ケンヤ君夫妻との約束は十九時。いつものシティホテルのロビー。
「別にいいけど、どうしたの? なんか用事?」
「まぁ、ちょっと」
そう言ったマリの目には微かな笑みがあった。
「分かった。合コンだ」
「違いますよ。私、合コンは苦手なんです」
「じゃなんなの?」
「あのねぇ。と言うか、なんで最初に合コンが出てくるんですか? 普通、こういう時はデートか? でしょ。まったく」
「じゃデートか?」
「いや、デートではないですけど」
「違うんかよ」
「彼氏いないの知ってるくせに」
マリはちょっとふくれた。
「で、結局今日は何なの?」
「飲み会なんですけど、友達に良さそうな人を紹介してもらうんですよ。前情報によると相手は二十八歳、大卒会社員、独身、そして長身」
「あ、いわゆるショーカイってやつね」
「そうそう」
「二十八歳会社員、独身で長身。なかなかいい条件じゃない」
「でしょ。でしょ」
「まぁ頑張りなよ」
「アイアイサー」
それでマリは十八時きっかりに帰っていった。
浮かれ足で「お疲れ様でぇす」という声はいつもの二割り増しくらいで大きかった。
俺はやはり今日も早帰りできず、残った社内業務を進める。
周りを見渡すとだいたいの社員は帰っており、毎度決まったメンバーだけが今日も残業していた。
缶コーヒーを買いに立った時、一応、と思いケンヤ君の部署を覗いてみた。ケンヤ君の席は綺麗に整理されたうえにパソコンも閉じられていて、もう既に帰っているようだった。
ここからシティホテルまではどんなに急いでも二十分はかかる。
どう考えても十九時の約束には間に合いそうになかった。ケーコさんにその旨をメールして再び仕事に戻り、今日中に提出しなければならない見積を作成していたら課長から声をかけられた。
「お前、まだ帰れないのか?」
「すいません。十九時半には帰ります」
「見積か?」
「そうです。今日中に必要で。これだけやったら帰ります」
「分かった。ん、今日は、マリの奴は?」
そう言って課長は人差し指ですっかり白くなった髪の生え際を掻いた。課長ももう今年で五十を越えた。昔に比べると白髪が増えたようだった。
「定時で帰りました。なんか飲み会みたいで」
「そうか。お前もなぁ、たまには早く帰れよ。あんまり家に帰らないと奥さんに愛想尽かされるぞ。たまには早く帰ってやれ。そういうのがな、意外と効くんだよ」
「分かりました。ありがとうございます」
それだけ言うと課長は自分の席に戻って行った。
愛想なんてとっくに尽かされてるよ。
心の中で一人溜息をついて言った。
マリといい、周りから見ると俺はそんなに夫婦円満な男に見えるのだろうか? 誰もうちの夫婦関係がとっくに破綻していることに気が付かない。
十九時半に会社を出て別の女を抱きに行くなんて気が付かない。不思議なものだ。
予定通り仕事を終わらせて会社を出ると、外はもうすっかり暗く、夜だった。
通りに出てタクシーを拾う。少し高くつくが、ここからだと電車に乗るよりタクシーに乗る方がずっと早いのだ。
行き道のタクシーの中、運転手が一言二言話しかけてきたが、あまり話をしたくなかったので適当に空返事をしていたら向こうもそのうち何も言わなくなった。
窓の外を街が流れていた。
さぁーっと、右から左へ。
行き交うネオンが、歩調を合わせた愛欲が、喧騒が、夢が、絶望が、心が、物質が、流れていた。俺はそれらを見ていた。じっと見ていた。
「今日はお酒を飲みましょうよ」
一戦交えたベッドの上、ケーコさんが言った。二人とも裸のままだった。
「いいよ。別に」
「ビールでいい?」
「うん」
そう言うとケーコさんはするりとベッドを抜け出し、冷蔵庫から缶ビールを二本取ってまた足早にベッドに戻ってきた。
「ありがとう」
二人でベッドに腰掛けて缶ビールを開ける。
セックスしたままの部屋。
明かりも落としたままの暗がりだった。今日はカーテンも閉めているので月明かりすら入ってこない。
目が慣れた今、闇は透明だった。
薄っすらとしたフィルター。
部屋の中にある物達も、隣に座るケーコさんも、その輪郭のみがはっきりと分かるくらいの。
「美味しいね」
「うん?」
「ビールのことよ」
「あぁ、うん。ま、ビールだからね」
「何よそれ」
そう言ってケーコさんは笑った。
「次もビール? 私はチューハイにするわ」
「ペースが早いよ」
「いいじゃない」
そう言ってケーコさんはビールの残りを一気に飲み干してベッドを出た。
「何かあったの?」
「別に」
そう言って冷蔵庫から缶チューハイを取り出す。ベッドに戻るとケーコさんはやたらと俺に引っ付いてきた。
「絶対なんかあったでしょ」
「別にって言ってんじゃん」
「嘘だ」
「何であなたにそんなこと分かるのよ」
「何でって」
そう言われると確かにそうだった。俺がケーコさんのいったい何を知っているというのだろう。
ぐびぐびと缶チューハイを飲むケーコさんを横目に俺もビールを飲んだ。
カーテンを開けたかった。
この部屋の中、月明かりが入れば何か少しでも良くなる気がしたから。
はぁーっとケーコさんが大きな息をつく。小さな肩で精いっぱい息をしてるって感じ。
「ケンヤとミキちゃん、ちょこちょこ会ってるみたいよ」
「え?」
突然の話で戸惑った。
「どういうこと?」
「だから、会ってるみたいなのよ。あの二人。こうして四人で会ってる時以外にも」
「そんなこと……」
「無いって言える?」
言えなかった。だって現に今も、おそらく二人は愛し合っているのだから。
「私、知ってるのよ。ちゃんと。あの二人は間違いなく会ってる」
「見たの?」
「そうよ」
「どこで?」
「そんなんどこでもいいじゃない」
断ち切るような言い方だった。それ以上何も話す気が無いような。
その時、俺が思い出したのはあの晩のミキ。
薄手のシャツにふわっとしたスカート。すれ違っていった夜。あれはもしかしてケンヤ君に会いに行っていたのだろうか。
そう言われてみればそんな気がしてきた。いや、もはやそうとしか思えなくなってきた。
どす黒い何かが渦巻いて、頭の中で聞いたことのない音が聞こえた。
これは何の音なんだろう?
しばらくして分かった。これは錆びついた難破船が崩れていく音だった。
ロビーに出ると今日は俺達の方が早くて、十分後くらいにケンヤ君とミキがエレベーターから出てきた。
「お待たせ」
人の気も知らないでケンヤ君は笑顔だった。
ケーコさんも笑顔でそれに応えていた。何だかそれは不気味だった。
相変わらずミキはケンヤ君の後ろで言葉数少なく俯いている。
「帰ろうか」
そう言うとミキは小さく頷いた。何だか少し疲れているようにも見えた。
いつも通り二人で駅まで歩く。
相変わらず会話は無い。ケンヤ君のことを聞いてみたかったが、どうしても言葉が出なかった。
もしケーコさんの言うことが本当だったとしたら、俺達はこの先、どうなってしまうのだろう? 想像がつかなかった。そしてその疑問はそのまま苦しみになって胸をちくちくと刺した。
愛は。
愛はどうなってしまうんだろう。
無意識でそんなことを思い、はっとする。
こんな状態になってもまだ俺とミキの間にそんなものが微かだが残っていたことに気づいた。
とっくに消えたと思っていた。でもそれは確かにそこにあるようだった。
俺は今、はっきりとそれを感じたのだ。
今日はまだ電車がある時間だったので電車で帰ることにした。
改札前、どちらともなく立ち止まる。
「切符あるの?」
横に立つ俺にミキが言った。
「カードがある」
「そっか」
「ミキは? 切符買う?」
「私もカード。でもちょっとチャージするわ」
「うん」
何となく俺もミキについて券売機の方へ歩く。
その時、驚くことにマリとすれ違った。
「あれ?」
「あー、スグルさん」
マリは友達らしき女の子と二人だった。大きな声。その声にミキも振り向いた。
「あ、奥さんですね。ご無沙汰しています」
「こんばんは」
ミキが丁寧に頭を下げる。
「職場の部下だよ」
「ええ。前に一度お会いしたことがあるわ」
「覚えててくださったんですね! 嬉しい!」
酔っているのか、マリのテンションは高めだった。ミキは少しその勢いに少し押されていた。
そういえば飲み会がどうとか、紹介がどうとか言っていたな。足元はちょっと千鳥足だった。
「お前、気を付けて帰れよ」
俺が怪訝な顔でそう言うと一緒にいた友達が笑って、もう行くよー、なんて言ってマリの腕を引いた。
「スグルさん、おやすみなさい。奥さんもおやすみなさい」
マリはそう言って手を振り歩いて行った。俺とミキも手を振ってそれに応えた。
「賑やかな子ねぇ」
そう言ってミキが少し笑う。
二人でいる時にミキが笑うのを見たのはいつ以来か分からないくらい、本当に久しぶりだった。
電車から見た月は前に見た時から比べるとかなり欠けていた。
見落としがちだが、時間はちゃんと進んでいるのだ。間違いなく。
満ち欠けていく、その時間。
俺は月の欠けた部分のことをたまらなく愛しく思った。
暑くなった日々の中、同じ部署のメンバーで暑気払いをした。
ホテルのディナーバイキング。お客さんの関係もあり、うちの課のイベントは基本的にここで開催される。
課員は七人、行儀よく席に着くと、ウエイター、という感じのタキシードが肉厚のあるローストビーフを人数分運んできた。何から何まで高級なのだ。
「えー、では毎日暑いですが、今期も残り半分、頑張っていきましょう」
なんて課長の冴えない挨拶で乾杯して会が始まった。
正直、部署のメンバーでの飲み会はあまり楽しくない。
普段、特別仲良くしているわけではないし、こんな時にだけ集まっても話したいことなんてあまりない。それに美味しいのだが、ホテルのディナーなんてものは慣れないから肩が凝る。フォークナイフも使いにくいし、やたらと背の高い観葉植物も鼻に付いた。
マリの奴も俺の斜め前でやっつけ、という感じでローストビーフをがつがつと口に運んでいた。
当たり障りのない話にうんうん、なんて相槌を打っていたら、こういうのってなんかサラリーマンっぽいなぁ、なんて漠然と思った。大人だなぁ、と思った。
いつの間に俺はそんなもんになったんだろうとも。
並べられたバイキングの料理を皿に取り分けていると、たまたまマリがいた。湯気の立つ出し巻き卵におたまでどろりとした餡をかけていた。
「スグルさん、これ終わったらちょっと付き合ってください」
「いいけど、どうしたの?」
「ま、後で話します」
それだけ言うとさっさと自分の席に戻っていった。
じきに会はお開きになり、また近いうちに第二回やりましょ、やら次はビアガーデンなんていいね、なんて社交辞令を交わしながらいつの間にかみんな解散していった。
俺とマリは電車に乗って事務所の最寄り駅まで戻り、行きつけのパブに入った。ハイネケンとバドワイザーを注文する。
二本ともキンキンに冷えた瓶で出てきた。
「で、なんかあったの?」
「実はね、最近例の彼とメールしてるんですけど、あの紹介の。なかなか上手くいってなくて」
「そんなこと俺に相談してどうするんだよ」
「だって、彼二十八だし、私よりスグルさんの方が歳が近いし、男だし、参考になるかなって思って」
「まぁ話を聞くのはいいけど、そんなに参考になることを言えるかどうかは分からないよ」
「分かってます。今ね、お仕事お疲れ様です的なことをメールしたいんですよぉ。ね、そんなんて重いですかね?」
分かってますって何だよ、と思ったが、何も言わなかった。マリはいつになく不安そうな顔をしていた。だから俺も素直に考えた。
「別にいいんじゃないの? それくらいしれっと送ってみなよ」
「しれっとってどんなですか?」
「『仕事お疲れ様です。今日は忙しかったですか?』とか」
「えー、なんかそれ彼女気取りみたいじゃないですか」
「そうかなぁ? じゃ『仕事お疲れ様です。次はいつ会えそうですか?』とか?」
「なんかそれはグイグイ行き過ぎな気が……」
「難しいなぁ。どうしたいんだよ」
「どうって……仲良くなって付き合いたいんですよ。普通に」
「じゃグイグイいきゃいいだろ」
「あんまりグイグイいったらヤラシいじゃないですか」
「意外とそういうとこは冷静なんだな」
「そりゃそうですよ。本気なんですから」
本気か、俺は心の中でぼそっとつぶやき冷たい瓶にまた口をつけた。
「ね、他なんかないですか?」
「『仕事お疲れ様です。また飲みに行きたいですね』は?」
「うーん、なんかなぁ……」
「もう自分で考えろよ」
「それができるんならとっくにしてますよ!」
マリがちょっと怖い顔で言った。
「なんだよ。そんなイライラするなよ」
「イライラもしますよ。私、今生理中ですし」
「あ、そう」
「あのね、本気だから悩むんですよ」
ぼそっと言ったマリの顔は何だか少し可愛らしかった。
そんな具合でメールの文面を考えていたり恋愛論の話を聞いていたら気づいたらもう午前一時。俺はうっかり終電を逃してしまった。
仕方がないからマリの家に泊めてもらうことにした。
マリの家はタクシーでワンメーター。すぐ近所だった。
順番にシャワーを浴び、リビングのソファに座りもう一杯だけビールを飲んでいたらもう午前三時だった。
「そろそろ寝ましょうか」
そう言ってマリが立ち上がり、うーんとノビをする。背中の腰元から白い下着がちらっと見えた。
「そだね」
「あー、スグルさん、今変なこと考えてたでしょ」
「アホ。考えてないって」
ヒールを脱いだマリは、いつもより背丈が低くかった。それに顔はすっぴん。オフモードという感じ。
「ダメですよ。私、絶対不倫はしませんからね」
「だから何もしないって」
「本当ダメですからね」
「しつこいなぁ」
「それに生理中ですし」
「うるさいって」
「じゃおやすみなさい!」
そう言って手を振り自分の寝室に入っていった。
俺は一人、リビングに残ってソファに寝転んだ。
真っ暗な天井。少し開けた窓から涼しい風が入り込み、意外と寝やすく、朝まで数時間ぐっすりと眠った。




