アクアパッツァの海 1
この運命に抗おう
真っ暗な部屋に入ると、ケーコさんはどうも既に服を脱ぎ去っているみたいで、暗闇に青白く、その細身の輪郭だけがぼうっと浮かんでいた。
カーテンだけ開け放した窓からは月。
それは満月。グレープフルーツみたいな。
「ドアを閉めてよ」
「あ、ごめん」
ケーコさんはちょっと怪訝そうな顔をしていた。
そりゃそうだ。ケーコさんは裸。ここはあまりぱっとしないシティホテルの一室で、入り口から部屋中を見渡せるような。そんな場所なんだから。
「遅かったじゃない」
「うん、仕事がちょっと押してしまって」
「相変わらず忙しいのね」
「うん」
「あっちはもう始まってるはずよ。あの人、今日早帰りの日だもん」
「知ってるよ」
「早く。待ってたの」
「分かってる」
ケーコさんの表情は少し焦れているように見えた。月明かりが照らしてる。
だから俺は少し急ぎ気味でネクタイを外し、そのままカーペット調の床の上に捨てた。
ケーコさんの大きな瞳が、愛欲によって剥かれていく俺をじっと見てた。可愛らしい瞳、でも凄くいやらしくも見えた。
シャツも同じように捨ててベッドに上がると薄暗がりの中でもケーコさんのツンとした乳首がしっかりと確認できた。
相変わらず見事だった。
造形美。そんな言葉が似合う乳首。
下半身は薄手の毛布の下。俺は何となくそれを想像する。
だんだんと理解しつつあるケーコさんの下半身を。その中に潜む溶岩のような欲望を。
「身体、ちょっと痩せた?」
ケーコさんの指がそっと俺の鎖骨をなぞる。少し冷たかった。
「どうだろ? 最近体重測ってないから」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。一日二食」
「ダメよ。三食ちゃんと食べなきゃ」
「うん」
「きて」
それで俺は何も言わずケーコさんの裸の身体をゆっくりと抱きしめた。
「ね、コーヒーがいい? 紅茶がいい?」
全部終わった後、ケーコさんはクローゼットにあった白のバスローブに身を包んでいた。俺は乱れたシーツの海に寝転がってそんなケーコさんを見てた。
「どっちでもいいよ」
「あのね、どっちでもいいは困るのよ。決めてよ」
「じゃコーラ」
「コーヒーか紅茶」
「分かってるよ」
「うだうだ言ってないで、早く決めなさいよ」
「コーヒーで」
「オーケー」
しばらくすると部屋中に淹れたてのドリップコーヒーの匂いが広がった。
イメージだけど、それは何だかイタリアの海辺の小さな街みたいな、なんだかそんな感じのする匂いだった。
優雅な。それで上等な。
でも俺は窓の外を見て、夜空に浮かんでるグレープフルーツを見て、あぁ、柑橘系なんていいなぁ。なんて思ってた。漠然と。それに少し眠かった。
「はい」
ケーコさんがコーヒーを渡してくれた。カップと皿にはホテルの名前が筆記体でプリントされていた。
「ありがとう」
「化粧整えてくるから。それ飲んで休んでなさい」
「うん」
そう言ってケーコさんはバスルームへ姿を消す。別に特別コーヒーが欲しいわけじゃなかったけど、とりあえず俺はそれを飲んだ。苦く、熱いその液体を。ブラックのままで。
エレベーターでロビーに降りると、ケンヤ君と俺の妻、ミキは先に出ていたみたいで、ソファに並んで腰掛けていた。
俺たちに気づくと二人、手を振ってきた。
俺は全然そんな気になれなかったんだけど、ケーコさんは嬉しそうに小さく手を振り返していた。
「ごめん、待った?」
「ううん、全然」
そう言ったミキの髪は微かに濡れていた。
ドライヤーでさっき乾かしたばかりのような、でも急いでいたから諦めた部分もあるような。ミキにはそういう雑な部分がある。
その横に深く腰掛けていたケンヤ君がのっそり身体を起こす。俺も背は高い方だが、ケンヤ君は更に少し高い。
「なんだぁ、スグル。お前スーツかよ。事務所から直接?」
「そうですよ」
「だめだなぁ、だって今日は早帰り日だろ?」
「ま、そうなんですけどね」
「早帰り日くらい早くあがんなきゃ」
そう言ってケンヤ君はポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「なかなかあがれないんですよ。うちは。ケンヤ君の部署とは違って」
「営業部は大変そうだな」
「この人、ほんと全然帰ってこないのよ」
ミキがほくそ笑んで言う。ケンヤ君との距離が近くなっていることを感じた。
「どうする? この後、四人で軽く飲みにでも行く?」
と、提案したのはケーコさん。
「いや、今日はやめときます。仕事、明日も早いので」
「あらそう?」
ミキが低調に断ると、ケーコさんは少し寂しそうだった。
「あらそう、ってお前。もう二十三時だぞ。今から飲みに行くか? 普通。しかも今日はまだ水曜だぜ。ど平日だよ」
「そう? 残念ね」
「ほとんどアル中だな、お前は」
そういうケンヤ君の肩をケーコさんが照れ笑い、平手で叩く。なんだかその仕草は、ぐっと、うん。華麗だった。
ゆきずり人間の俺なんかには絶対見せない仕草。夫婦の、解り合った二人の、て感じだった。
「また連絡するね」
そう言ってケーコさんは俺たちに手を振って言った。
「また」
ケンヤ君夫妻達と別れ、ミキと二人駅まで歩く。
でも電車に乗るわけではなく、うちの最寄り駅までの電車はもう終わってて、駅のロータリーでタクシーを捕まえて帰るつもりだったのだ。
夜は非常に澄んでいて、透明で、人影も少なく二人きりだった。
俺は意味もなく商店街の、閉まったシャッターにプリントされた絵なんか見て、センスの欠片も感じさせないペイントを見て歩いた。ミキもだいたい似たような感じで、会話は無かった。
遠くで微かにオートバイの爆発音が聞こえたけど、二人とも特に興味はなかった。もちろんそれについても何も言わなかった。
乗り込んだタクシーの中、疲れていたのかミキは俺の肩に寄りかかってすぐに眠ってしまい、静かな寝息を立て出した。
頭の重さ、やわらかそうな頬っぺた、長く真っ直ぐな黒髮。そんなんが肩に当たって。
でも何もなくて、仕方がないから俺は明日発売の少年誌のことを、楽しみにしていた週間連載の漫画のことを考えながら、じわじわと上がっていく料金メーターを睨んでいた。
ミキの手をちょっとだけ握ってみた。驚いたことに薬指には今も指輪がついていた。
「私ね、気づいたんです。スグルさんの口癖」
そう言ったマリは満面の笑みだった。隣のデスクから得意先にメールを打つ俺の顔を覗き込んでくる。
「へぇ、何?」
「座る時にね、いつも、よいしょ、って言うんですよ」
「言わないよそんなん」
「いいえ、言ってます」
「よいしょって、そんなん還暦前の口癖だろ。俺、まだ三十だぞ」
「でも言ってるんだからしょうがないでしょ」
「嘘つけ」
「なんで私がそんなくだらない嘘つくんですか」
そう言われるとそれもそうだと思いながら、毎日飲んでいる栄養ドリンクを食道にぐっと流し込んだ。
「毎日毎日そんなんばっか飲んでるから老けこんでいくんですよ」
「うるさいなぁ」
「ほら、白毛だって多いし」
「うるさいって」
「そんなんじゃ今に奥さんに愛想つかされますよ」
「マリ、お前まじでうるさい。仕事しろ」
「アイアイサー」
そう言うとマリはやっとパソコンに向き合い伝票処理を始めた。
俺は俺で栄養ドリンクをまた一口飲み、自分の仕事に戻った。この栄養ドリンクは俺のお気に入りで、ちょっと高いが事務所の自販機で買えて、本当に毎日飲んでいた。
飲んだら不思議と、頭がカッ、となる。カフェインやらアルギニンやらがたくさん入っていて、多分、身体には悪いだろう。そんなことは分かっている。でもやめられないのだ。すっかり仕事の相棒になっていた。
しばらくすると、マリはコピー機のところで事務員の女の人と談笑していた。
まったく。ちょっと目を離すとすぐにこうだ。
「マリー、そろそろ外出するぞぉ」
俺の声に反応してマリが片手を挙げる。口パクでアイアイサー、と言っていた。アホだ。
マリは会社の後輩で、歳は俺の六つ下。
入社した時からずっと俺の下で働いている。細っそりとした身体付きに茶色の癖毛、今風の女の子て感じのスタイル。一見したらキャリアウーマン風でもある外見。
でも中身は男っぽくて、だいたいのことにおいてさばさばしていて、そのくせ妙に乙女な部分もあって、恋にはいつも踊っていて、よく分からない不思議な奴だった。
そんな感じだから得意先の反応もまちまちで、愛嬌はあるのでもの凄く好かれている得意先もあれば、頼りないという理由でどうしようもなく嫌われる得意先もあった。平日はだいたい行動を共にしていた。
外に出ると午後の日差しが強く、陽光に耐えかねてぐっと、顔をしかめてしまう。
もうすぐ夏が来るのだ。雲の向こうから少しずつ顔を出している。
夏の予告編。
そんなふうに思える毎日だった。
足早に地下鉄に乗り込み二人でシートに腰を下ろすと、向かいには同じく二人、女子高生が座って談笑していた。
最初はあまり意識をしていなかったのだが、ふと見るとそのうち一人は話に夢中で少し股を開きすぎていた。それでひらひらのスカートが突っ張ってしまい、その薄暗闇の奥に微かな白色が見え隠れしていた。
男の性と言うか、ついつい俺もそれを見てしまう。
女子高生はしばらくすると楽しそうに談笑したまま二人で降りて行った。
するとマリが耳元で、
「嫌ですよ。あんなじろじろ見ちゃって」
引っ掻くような口調だった。
「じろじろなんて見てないよ。ちらっと見ただけ」
「ああいうのはじろじろって言うんです。ね、今のどっちの子がタイプでした?」
「まだ子供だよ」
「そんなこと言って。パンツ見てたくせに」
「ま、強いて言うなら左かな」
何となくしか顔を覚えてなかったけどとりあえず答えた。
「左かぁ。スグルさん相変わらずセンスないですねぇ」
「え? 右だった?」
「どう考えても右でしょ」
「そうかぁ」
「分かってないなぁ。スグルさん、奥さんは綺麗なのにそれ以外は全然駄目ですね」
「はぁ、綺麗かな?」
「えっ、凄い綺麗じゃないですか」
マリは驚いたような声を出した。前に会社のイベントで一度ミキに会ったことがあるのだ。
「長く一緒にいるとそういうのって分からなくなるもんだよ」
「結婚して何年でしたっけ?」
「五年」
「恋人なら五年て長いけど、夫婦生活ならまだまだこれからじゃないですか! 先は長いですよ」
「ま、そう言われたらそうなんだけどね」
「でもすごいですよねー」
「何が?」
「いや、私はそんなに長く誰かと付き合ったことないから」
「あぁ、いつも一年くらいで終わっちゃうって言ってたよね」
「そう。あーあ、彼氏欲しいなぁ。もうすぐ夏だし」
「それ、冬にも同じこと言ってたよ」
「そうですけどぉ」
地下鉄が地上に出る。
車両の中が一気に明るくなった。
六月。窓の外は生命力に満ち溢れていた。
風は綿毛を運んで、地下鉄は人を運んで、行く。
今日も。
夜、最寄り駅に着いた時に初めて雨が降っていることに気づいた。
それも結構強い雨。ざあざあ降ってる。
まったくなんで今まで気づかなかったんだろう。帰りの電車、約三十分、つり革に捕まって何を考えていたのかを上手く思い出せない。
仕方がないので駅のコンビニでビニール傘を買った。五百円ちょっと。大した出費ではないけど、こういうのは悔しい。
雨は黒く染まったアスファルトを打ち続けていた。これでもかってくらいに。
うちに帰るとミキはもう帰っていて、リビングで何かの果実酒を飲みながら小説を読んでいた。片脇の灰皿には半分くらい吸った煙草が二、三本押しつぶしてあった。
「おかえり」
「うん」
それだけ言うと俺は早々に自分の部屋に入った。
マンションの一室。四畳半の俺の部屋。
朝脱いだ寝巻きのスウェットのズボンがそのままの形で落ちていた。俺以外誰もここには用がないようだった。そのまま布団に倒れこむ。
ミキとの夫婦関係はおよそ三年前からほとんど破綻していた。
三年前、ミキは一度流産した。
不妊治療の末、やっとの妊娠だった。
二人とも今度こそ、という思いが強くあった。だから流産が分かった時は俺達は本当に落ち込んだ。物凄く苦しんだ。
街中でも部屋の中でも、目に見える希望が全て引き裂かれたような気持ちだった。この世には慈悲も救いもない、と。
その頃、俺達は全てを恨んだ。本当に何も信用できなかったのだ。そして最後にはお互いのことを恨んだ。
夫婦関係が崩れるのに時間はかからなかった。
始めの方は意味もなく互いを罵り合い、いつしかそれも収まっていき、最終的には希薄になりきったぼろぼろの夫婦関係だけが残った。
その関係はまるで砂漠のようだった。水も植物もないカサカサの世界。
今や言葉を交わすのはたまに顔を合わした時の挨拶と、ケンヤ君夫妻と四人でいる時だけ。
お互い別々に仕事をしていることもあり、リズムも違うため、そんな状態でも何とか生活は成り立っていた。
先の見えない霧がかった河を小舟で流れていくような、そんな不気味な日々だった。
そんな冷めきった夫婦関係をケンヤ君に相談したのはちょうど一年くらい前だった。
ケンヤ君は職場の先輩で、部署は違うが昔から何かと俺のことを気にかけてくれていた。
「分かるわぁ、スグル。うちも最近ちょっと倦怠気味なんよ」
「嘘でしょ?」
俺は驚いた。
だってケンヤ君と奥さんはいつも仲良さそうで、俺の中では一番の理想の夫婦だったから。
「いや、別に仲が悪いとか喧嘩してるとかじゃないよ。たださ、それだけと言うか、何もないと言うか、何て言うかな、刺激みたいなものが足りないんだよ」
そう言ってケンヤ君は水割りのウイスキーに口を付け、カウンターの隣に座る俺を見た。
「刺激って、上手くいってるんならそんなもの必要ないじゃないですか」
「あのなぁ、スグル、刺激って大事だぞ。仕事にしても毎日毎日同じことしてたら飽きてくるだろ?」
「そりゃ、まぁ。そうですけど」
それは当時、自分でも仕事に対して感じていたことだった。だからその考え方はよく分かった。
「だからさ、お前もきっとそういうのが足りてないんだよ」
「刺激ですか」
俺も水割りをぐいっと飲む。アルコールが喉を焼く感じが脳に伝わる。でもそんなに酔ってはいなかった。
「そう」
「でもそんなんどうしようもなくないですか? 日々の生活に刺激なんてなかなか無いですし」
「そうだよ。だから無理にでも作るんだよ。そういうもんは」
「作る?」
「そう。なぁ、スグル。俺にいい考えがあるんだ」
そう言ってケンヤ君はタバコに火を点けた。
それを見ているとケンヤ君が箱からもう一本煙草を出して俺に勧めてくれたが、俺はそれを断った。煙草はもう何年も前に止めたのだ。
「なんですか、いい考えって?」
「うん、あのな。入れ替えてみるんだよ。一度。俺とお前、両方の嫁さんを」
「どういうことですか?」
「相手を変えてやってみるってこと。お前は俺の嫁さんと、俺はお前の嫁さんと」
「そんなこと」
「信じられないって顔だな」
「そりゃまぁ」
「悪くない考えだろ?」
ケンヤ君が笑う。
俺はなんとも言えなかったからグラスの水滴をぐるっと指でなぞっていた。
「なぁ、スグル。もう限界が来てるんだろ? お前も、嫁さんも。それでいてどうしていいのかも分からないんだろ?」
言葉を返せなかった。そしてそれは一つの回答でもあった。
「辛いと思うよ。それは。でも何かしないと何も変わらないぞ。このまま今の状態が続いても何も良くならない。深海に沈んでる難破船みたいだよ。今のお前らは。ほっといたらどんどん醜く錆びついていくだけだ。分かるだろ?」
ケンヤ君の言う通りだった。否定のしようがない。
俺達は難破船だった。
このまま錆びついていくだけの寂しい難破船だった。
「分かります」
実際、限界だったのだろう。今振り返ってもそう思う。
初めて四人でシティホテルに集まった夜、なんだか凄い雨が降っていた。ちょうど今夜みたいに。
俺とミキが傘をたたみロビーに入ると、ケンヤ君夫妻は既に先に着いていて、ソファに座って楽しそうに談笑していた。
どう見ても仲睦まじい夫婦だった。
「よぉ」
ケンヤ君が俺達に気付いて手を振る。
「お疲れ様です」
「なんか固いよ、スグル。仕事じゃないんだからさ」
そう言ってケンヤ君は俺の肩を叩いた。
「はい」
「これ、妻のケーコ。よろしくな」
「あ、スグルです。初めまして。こっちは妻のミキ」
「初めまして」
ケーコさんが微笑んで言う。
前にも会ったことはあるが、話をするのはこれが初めてだった。
綺麗な人だった。
すらっとした細身にショートカットの髪。薄手の緑色のサマーセーターを着ていた。
「初めまして」
ミキも応える。
正直言って俺はミキが何を考えてこんな話に乗ったのか、まったく分からなかった。
ケンヤ君から持ちかけられた話をミキに伝えると、その返事は意外なことに「いいよ」だった。こんな話、流石に怒ると思っていた。だから拍子抜けした。話の意味を理解していないのではないか? とも思った。でもどうもちゃんと分かっているらしかった。
「さ、時間もないし行こうか」
ケンヤ君がそう言って既にチェックイン済みの部屋のキーを俺に渡すと、自然と俺とケーコさん、ケンヤ君とミキで立ち位置が分かれた。
エレベーターに四人で乗る。
俺とケーコさんが三階、ケンヤ君とミキは五階の部屋だった。
エレベーターを先に降りる時、振り返るとミキと目が合った。
いつもと同じ、感情のない目だった。でも多分、俺も同じような目をしているのだろう。だって俺達は難破船だから。
いつからだろう? こんな目でお互いを見るようになってしまったのは。
そう思っているうちに扉がゆっくりと閉まった。
「何か飲む?」
部屋に入るとケーコさんはテレビ棚に埋め込まれた小さな冷蔵庫を開けて言った。
「いえ、結構です」
「そ、私はビールを一杯いただくわ」
「どうぞ」
ケーコさんは缶ビールを開けてダブルベッドの端に腰を掛けた。一人立っているのも変なので俺もその横に腰掛ける。
「仕事帰り?」
「そうです。えーっと、ケーコさんも仕事帰りですか?」
「私も今日は仕事帰り。これでも私ね、一応学習塾の講師なのよ」
そう言ってケーコさんは美味しそうにビールを飲んだ。
「先生なんですか」
そんなふうには見えなかったから少し驚いた。
「そうよ。ま、小学生相手だけどね。スグル君はケンヤと同じ会社なのよね?」
「そうです。部署は違いますけど。僕は営業部で」
「あぁ、営業ぽいね。何だか」
「そうですか? そんなこと言われたのは初めてですよ」
「うん、ぽいよ。話しやすいし。初対面でも全然気を遣わないわ」
良くとっていいのか悪い意味なのかわからず、俺は「はぁ」なんて言って適当に相槌を打った。
窓の外は相変わらずの雨。雨足は落ち着く気配がまったくなかった。
「こういうこと、よくするんですか?」
「まさか」
そう言ってケーコさんは笑った。くすくすという感じで。素敵な、品のある笑顔だった。
「私、そんな女に見えるかな?」
「いや、そういうわけではないですけど」
ちょっと慌てた。よく考えたら失礼な質問だった。
「初めてよ、こんなこと。あ、このホテルは初めてじゃないけどね。昔よくケンヤと来たわ。結婚する前だからもう大分前のことだけどね」
「そうですか」
「ね、緊張してる?」
「ちょっと」
「そう。向こうが気になる?」
「気にならないって言ったら嘘になりますね」
「そうよね。ねぇ、やっぱりあなたもビールでも飲みなよ。お酒、飲めないわけじゃないんでしょ?」
「いただきます」
ケーコさんは腰を浮かしてそのままの中腰で冷蔵庫から缶ビールを取ってくれた。
礼を言いビールを飲んでみると、懐かしい、いつも通りのビールの味だった。少し気持ちが収まった気がした。
「結婚して何年くらいなの?」
「今年で四年です。何年くらいなんですか?」
「うちは八年」
「仲良いですよね」
「そうね。比較的」
「それなのに何でこんなことするんですか?」
「そんなの簡単じゃない。恋愛が好きなのよ。二人とも。単純にそれだけよ」
「恋愛、ですか」
「そう。結局、いつまでも子供なのよね。私達。どうしてもやめられないのよ。でもそういう気持ちも何となく分かるでしょ? 恋をしたことが無いわけでもあるまいし」
「どうでしょう?」
「恋愛の甘いところ。まだ知らないゲームをクリアしていくような感覚。何となく分かるでしょ?」
そう言ってケーコさんはまたくすくす笑う。俺はもう何も言わなかった。
「ね、もういいじゃない。始めましょうよ」
そう言ってケーコさんは立ち上がり緑色のサマーセーターとその下に着ていた黒のキャミソールを重ねて脱いだ。薄水色のブラジャーと身体つきの割に大きな胸が露わになる。
俺は、喉元の少し下あたりにぐっ、と込み上げる何かを感じた。
魔法のような呪いのようなそんなもの。
多分、ケンヤ君とケーコさんはこの感覚が好きなんだろうなぁ。ケーコさんの言う通り、その気持ちは分からないでもなかった。
俺は立ち上がりゆっくりとケーコさんの胸に手を当てた。
厚手のブラジャーの感触が生々しかった。
ロビーでケンヤ君達と合流した。
ケンヤ君は上機嫌で、ケーコさんと一緒に一言二言冗談を言ったりしていたが、その内容は全然頭に入ってこなかった。
ミキは静かに俯いていて、相変わらず感情が読めない。でも少し、前とは違う女の匂いがした。それはやっぱり少し辛かった。
この日も帰りの電車はもうなくて、駅でタクシーを拾った。雨が強くて列に並んでいる間に足元がすっかり濡れていた。
家に帰るまで一言も話さなかった。お互い別の方向に降る同じ雨をそれぞれの窓から見ていた。
一人の四畳半。ベッドから立ち上がり窓のカーテンを開ける。
雨は降り続いていて、その様子は一年前のあの日にそっくりだった。
あの日に戻ったみたいだった。でもそれは嘘で、今日ははっきりと今日であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
難破船は今も仄暗い海底奥深くに沈んでいた。




