夜襲
そしてインド。
とにかくバルチック艦隊は、あちこちで閉め出しや追い出しを食らい、ようやっとの思いでインドまでたどり着いたようだった。
しかしこのインドでも、接岸は禁止。石炭や生鮮食糧品、飲料水などは短艇で運搬しなければならないという、ほとんどイジメのような扱いを受けている。
大使館で仕入れた情報だ。
そのバルチック艦隊が、沖合いに並んで浮いている。
夜の海だが舷燈が灯っているので、その位置は丸わかりだ。夜間は灯火を規制するのが常識だが、おそらくこれもインド政府の嫌がらせであろう。
そう、夜の海だ。
月は陸地からのぼっている。
左舷で見張り(ワッチ)に立っている船員たちは、このかすかな明かりに目がくらんでいるだろう。
「お兄さま? 月がきれいですね」
「そうだね、緋影。この辺りは地元で、悲恋海岸と呼ばれているらしいよ」
サクサクと砂を踏みながら、観光客の振りをしながら、砂浜を歩く。
紅葉のように小さな、緋影の手を引いていた。
ヤワラギの男女ならば腕を組んで歩くか、女性が三歩あとを歩くのが普通なのだが、海外の雰囲気と観光地の空気が、緋影の手を取らせた。
俺たちは若い夫婦ということになっている。
緋影は先程から、うつむいてばかりいた。
幼な妻という設定に、ずいぶん入れ込んでいるようだ。
俺もそれに合わせて、伊達メガネをいじってみたり空を見上げてみたりと、照れ臭さを演じてみたりした。
「悲恋海岸ですか………。私としては、恋路海岸の方が好みです」
「恋路海岸か、素敵な名前だね。誰も彼もが恋路に迷ったら、初めてのときめきを思い出すために訪れる場所。それですべての恋が成就するなら、すばらしいことじゃないか」
月明かりが、俺たちを照らす。
砂浜には二人の影が落ちていた。
満天にかがやく星が、ささやくようにさざめいている。
あなたが好きです、と告白するように。
恋路海岸。
迷える恋路を照らす浜辺。
「やあやあ、ひ~ちゃん。お仕事を忘れてもらっちゃ困るなぁ………」
姿を消していた芙蓉が、突如として現れた。
「緋影さま、我が差し料はさきほどから、鍔鳴りをしてたぎっているのですが」
「あんなぁ、緋影さま。男という生き物は、みんなケダモノなんよ? どうせやることやったら、ヤリ捨てポイなんじゃからね?」
「………咲夜………やることって………どんなこと?」
「瑠璃さま。イヤ、それは!」
急に辺りが騒がしくなった。
使鬼たちがわらわらと現れ、好き勝手なことを口にしている。
「緋影、襲撃準備はできているのかい?」
「もちろんです。いつでもいけますよ」
ちょっと不機嫌そうに、緋影は頬をふくらませた。
「輝夜、大丈夫ですか?」
「御命令あれば、いつでも」
「よし緋影、やってくれ」
うなずくと、緋影は出撃を命じた。
立ち上がった輝夜は袴の裾をヒョイと持ち上げた。
そして波に一足。
それから、海の上を走り出す。
って、ちょっと!
「飛ぶとかなんとかできないのかよ!」
「お兄さま、使鬼に無理を言ってはダメですよ? お兄さまだって、空は飛べないじゃないですか」
「いや、それにしても面白すぎだろ、あれ!」
いまにも「ぃやっほ~~っ!」とか叫び出しそうな、すごく楽しそうな輝夜の後ろ姿だ。
とてもじゃないが戦争や軍事行動に出る姿ではない。
つーかアレ、スキップ踏んでるだろ!
「あ~~あ、輝夜ってばもう。久し振りの大仕事で、はしゃいどるねぇ………」
「咲夜、お前はアレを止めんのか?」
「そんなことしたら、輝夜が可哀想じゃろ? せっかく張り切っとんのに」
そういうものなのか?
とにかく、輝夜の後ろ姿は見る見る小さくなってゆく。
双眼鏡は持ってないので、芙蓉の使い魔に観測をたのむしかない。
「輝夜、バルチック艦隊へ順調に接近中。まもなく駆逐艦と接触するよ。………というか、通り過ぎた?」
なにもしないでか?
思わず咲夜の顔を見る。
「抜く手も見せず、斬って捨てた。というやつじゃよ」
まあ、俺が直接見ている訳じやゎない。
抜く手を芙蓉が見落とした。あるいは使い魔が見落とした、ということもある。
「ねぇ、大矢くん?」
「なにかな、芙蓉」
「駆逐艦が沈むってのは、かなり大きな損害なのかな?」
「戦場では、そうでもない。だけど停泊中に謎の沈没なら、特に今みたいな情況なら、効果は絶大だな」
原因不明の沈没は、敵の接近を疑わなければならない。
そして退避すべきか否かを判断しなければならない。
すべては上意下達。すみやかに指示が通らなければならないのだが、パニックに陥ってしまうと思い通りにはいかないものだ。
「………って、沈んだのか! 駆逐艦が?」
「うん、大きく傾いてるね。………って、今度は巡洋艦だ!」
輝夜、お前は通り魔か。
いや、だとすれば、これほど頼もしい通り魔もいないだろう。
この夜、バルチック艦隊は三隻の駆逐艦と一隻の巡洋艦。さらには、戦艦も一隻失うことになった。




