緋影、勉強する
ということで、その日から緋影とおやっさんと俺の、共同生活が始まった。
「まずはお部屋にご案内しますね」
緋影に招かれて二階へ。
「一階には南野中将………お父様が住んでます。必然的に、私も少尉さん、つまりお兄さまも、二階に住むことになります」
「それはかまわないんだけど、なんだいそのお父様とかお兄さまってのは?」
「設定です! ここが海軍の秘密施設と知られないように、私たちは家族と偽って暮らしているんです!」
「ほうほう」
「お父様は海軍指令部に勤務していた、元少佐どの。私は女学校に通っているものの、年老いた父の世話のために学校を休みがち。お兄さまは海軍の士官学校を卒業したけれど、病気のため退役ということになってます」
「だとすれば、さっきのおやっさんはマズかったかな?」
説明してませんでしたからね、と緋影は笑う。
「なにごとも慣れですよ、お兄さま。初めからなんでも上手くいく人なんて、この世にいませんよ」
まあ、失点というのでなければ、良しとしておくか。
「はい、こちらがお兄さまのお部屋です!」
無人の四畳半が、俺を待っていた。
特別ピカピカというのではないけれど、たぶん緋影が掃除してくれたのだろう。清潔な空間だ。
窓の外には春の海。
真っ白な巡洋艦が錨をおろしているのが見えた。
窓際には文机がひとつ。それと押し入れに衣紋掛け。俺の白い詰襟が、しわひとつなく掛けられていた。
「いい部屋だね。海が見えるよ」
「でしょでしょ? 私もこのお部屋がお気に入りだったんだけど、お父様が、『そこは健治郎に譲ってやれ!』、ですって………」
「俺が緋影の部屋を取っちゃったんだな、スマンスマン!」
「ですからお兄さまは、妹に優しくしなくてはなりませんよ?」
優しくか………。今の今まで、シゴキと鉄拳制裁しか無い日々だったから、その響きが懐かしいね。
「そういえば中将………親父は南野を名乗っていたけど、俺も名字が変わるのかな?」
「こーぶんしょに署名とか、軍のかんけーきかんでは、本名でかまわないそうです。こうしたぷらいべーとな空間、地方人相手の時のみ、南野としてください」
かなり危なっかしい説明だったけど、意味は伝わった。
秘密施設とは言うものの、俺の知る限り海軍に諜報部隊の類いは存在しない。つまりノウハウが無い。だから割りと拙いというか、機密保持の手段そのものが作りかけなのだ。
あるいは手探りと称してもかまわないだろう。陸軍ではその辺りの研究が、かなり進んでいると聞いたことがある。
「向かいが私のお部屋になります。なにかございましたら、お声をおかけください」
「ちょっと待った」
「ぐひ」
いけませんいけません、あやうく任務を忘れるところでした。
「あの、お兄さま? 乙女を呼び止めるのに、頭ワシ掴みは無いのでは?」
「いやいや緋影、なにをシレッと自室へ逃亡しようとしてるのかな?」
「………はて? なんのことでしょう?」
立てた指を頬にあて、頭の上に「?」を浮かべているが、ごまかそうったってそうは行かないぞ?
「緋影、お兄さまの崇高かつ重要な任務って、なんだったかな?」
「はい! 妹である私と、仲良くなることです!」
「君に勉強を教えることじゃなかったかな、緋影?」
「お、お兄さま………指を………指の力をゆるめてください! 緋影の頭蓋骨はくらっしゅ寸前の灯火です!」
「士官学校仕込みの必殺クロー、これ以上味わいたくなければ、教科書を持って俺の部屋。いいね?」
「めり込みます! 鋭い鷹の爪が、私の頭蓋骨に食い込んでます! 緋影さんピンチ! 緋影さんピンチ!」
と、いうことで。
緋影の勉強をみてやることに。
まずは古典、漢文。女学校の教科書を元に、授業開始!
だが。
思った以上に緋影は優秀で、万葉集の和歌や李白などをソラで暗唱したり、鉛筆で帳面に書き付けたりしていた。
「やるじゃないか、緋影」
「詩文は乙女のたしなみですよ、お兄さま」
「なるほどな、ということは理数系が不得意だと?」
「ギクリ」
なるほどフムフム、十三歳では方程式をやるのか。教科書を確認した。もちろん横目で、緋影のギクリを確認している。
義妹は、あきらかにうろたえていた。
「あぁ、お兄さま。何故でしょう、お兄さまの笑顔が緋影には、暗く恐ろしいものに見えます」
「そうかい? それじゃあ緋影、この問題を容赦なく解いてみようか?」
「あら残念、お兄さま。その公式はまだ習っておりません」
「習ってないという割りに、教科書の折り目はここより四ページ先までついてるよ?」
俺が指摘すると、チッという音が聞こえてきた。まごうことなき、舌打ちの音だ。目をあげると、緋影はおもしろくなさそうな顔で、ソッポを向いている。こら乙女、都合上とはいえ我が妹よ。それは品が無いぞ。
「さあ緋影、文句をたれてないで、問題に取り組んでみようか?」
しかし天宮緋影、さすがは我が妹。見事スラスラと方程式を解いてしまった。もちろん全問正解。
「能ある娘は艶かくすですよ、お兄さま」
「いまの誤使用で、減点してもいいかな?」
「減点されるとどうなりますか?」
「三時のおやつが俺のモノになる」
「お兄さま、横暴という言葉を御存知で?」
「緋影は朱子学という学問を知ってるかな? 良くも悪くも大ヤワラギ帝国は、朱子学の年長崇拝を基本思想にしてるんだけど」
「減点しないで下さいませ、お兄さま。緋影一生のお願いにございます」
朱子学も用法によっては素晴らしい学問だけど、悪用すればゴミ以下の学問だ。それを知りながら悪用する、俺はまさにゴミ人間。
そんな思いがあるから、緋影の頭を撫でる。
「嘘だよ、緋影。減点なんかしない、おやつは緋影が食べるといい」
訳のわからない状況で家族となった緋影だが、実の妹のように可愛らしく思える。エヘヘと笑う田舎くさい笑顔も、化粧くさいよりはよっぽど誠実だ。
こんな感情は海軍少尉らしからぬものだけど、緋影にだけは気を許してしまう。
「よし、緋影。最後は米英語だ! この文を訳してみようか!」
「は?」
何故かは知らないが、緋影は動きを止めた。顔が青ざめている。………気のせいではないだろう。教科書を見詰める瞳は、瞳孔全開だ。
「いや………だから、この英文を和訳してもらえるかな?」
「無理です出来ませんお許しくださいというかお兄さまいかに我が国が朱子学を基盤としてうようともいやむしろ朱子学を基盤としていればこそ欧米外来の言語を習得する必要性が緋影には見出だせませんこのような言語は習得すべからざるものと緋影は訴えます!」
ものすごい早口だ。
それこそこちらが、気持ち悪くなるくらいに。
「あの、緋影?」
「却下です!」
「いいから聞いてくれるかな?」
「断固として反対です! このような言語を習得するのは!」
「じゃあ読み上げてくれるかな?」
緋影の硬直、ふたたび。
いや、今回は違うな。
眼球だけが動いている。
右に黒目が動き、左にうつって、教科書上に落ちる。
「お、お兄さま………」
「さ、頑張って読み上げてみよう!」
だがしかし、やっぱりと言うべきか。
緋影の頭はポンと煙を噴いた。目玉がぐるぐる回っている。
そしてそのまま、仰向けに倒れてしまった。
察するに、緋影は米英語が苦手なのだろう。
いや、苦手を通り越して大嫌い。
大嫌いを通り越してアレルギー反応を示すのかもしれない。
とりあえず、緋影に米英語は禁物というのは理解できた。