雨と 人魚姫
【雨と】
しとしとと降り続く雨模様は、今日も含めてとうとう7日連続だった。そして、それは青年の家に姫が現れなくなってからの時間でもある。青年は普段姫がどこにいるのかを知らない。彼女を探してあてどなく島内を歩き回ったことはあったが、結局姫を見つけることは出来なかった。
「何にも、知らなかったんだな、オレは」
さした傘にぶつかってくる雨音を聞きながら、青年は買い物に向かう。特に入り用なものはなかったのだが、あの家にいると姫の面影がより鮮明に思い出されて苦しく、結果、外出するしかなかった。
「こんちわ」
「いらっしゃい」
姫は、いないか。もうどこにいても彼女の姿を探していた。島に唯一の小さな売店は、老いたご婦人一人で切り盛りされている。ここだけではない。50人程度の島民は皆が老人だった。いわゆる限界集落なのだ。
「お兄ちゃんは、いつまでこの島におるんかいねぇ」
「あと、一週間くらいですかね」
そう。彼も島を出て行かなくてはならない。もう姫と過ごせる時間はわずかしかなかった。
「そうかい。寂しくなるねぇ」
「あの、姫、いや、白いワンピースの女の子、来ていませんか?」
胸の奥が苦しくなって、話題を無理やり変えた。
「ああ、あの子かい。そう言えば、近頃とんと見ないねぇ」
「そうですか」
このご老人は姫が島の守り神であることを、おそらく知らない。
「私らも、来年には島から出て行かなきゃならねぇ。あの子の元気な声が聞けなくなると思うと、寂しいよ」
その一言は、青年にとって青天の霹靂だった。
「ちょっ、ちょっと待って下さい! 出て行くって、島民全員ですか!?」
店を出て、青年は傘も差さずに駆け出していた。ただひたすらに姫のことを想う。彼女は知っていたのか。この島が空っぽになってしまうことを。彼女が一人になってしまうことを。考えれば考えるほど、胸が張り裂けそうになる。あの優しい笑顔の裏には、隠された気持ちがあったのか。
「姫!!」
古屋が崩れそうなほど強く扉を開けた。名を呼んだのは、なんとなくそうすることで、姫が帰って来てくれるような気がしたからだ。そして、
「あら、おかえりなさい。どこに行ってたの?」
返事があった。果たして姫は、いつものように縁側に座っていた。
「お、お前……。どこ行ってたんだ! 心配したんだぞ!」
「フフ。貴方なんかに心配されちゃうなんて、神様失格ね」
それでも良いけれど。かすかに笑ってそう言った。その姿は儚げで、そのまま消えてしまいそうな程だった。
「そんな風に言うな」
青年はそう言う事しか出来なかった。何とか声を絞り出して、姫の隣に座る。
「雨が続きすぎて、洗濯物が乾かないんだが」
「うん。ごめんなさい」
「ひまわりも、枯れちまったんだが」
「うん。ごめんなさい」
「何か、食うか?」
「うん」
「わかった。少し待ってろ」
青年には、聞きたい事も、伝えたい事も、もっとたくさんあった。だが、いざ姫を目の前にすると、その全てが霧散して、ただ一つの言葉だけが残ってしまう。それを伝えるべきか、彼はまだ迷ってしまっている。
「何作るの?」
姫がハムを抱き抱えて、台所についてきた。そのどこか辛そうな姿を見て、しかし、青年の心の中で抑えこまれてた感情が、一気に溢れた。
「姫、好きだ」
姫が、固まった。
「好きなんだ。お前が」
「好きだ!」
「好きなんだ……!」
子供が駄々をこねるように、同じ言葉を何度も繰り返す。
「ちょ、ちょっと待って、そんなに何回も言わないで!」
姫は両手で顔をおおう。その仕草でハムが床に激突した。おかげで、姫の表情はうかがえないが、耳や首筋まで真っ赤に染まっていた。
「好きだ!」
「もう! わかったから!」
青年はゆっくり姫に近づいていき、その両手をそっと握って顔から引き離した。
「見ないで……」
姫は、泣いていた。
「何で……泣いてるんだよ。嫌なのか。オレが、嫌いなのか」
「ううん、違う。違うの……!」
姫は泣きながら頭を左右に振るう。
「嬉しいの。心の底から嬉しい。でも、同じくらい悲しいの」
それは、どうして。何故姫は悲しんでいるのか。
「貴方も、島の皆んなも、もういなくなっちゃう……! 私は一人になっちゃう!」
涙は大粒のクリスタルのように、煌めき、流れ、落ちていく。
「一人になんかさせない! 一緒に行こう。島を出よう!」
姫の手を強く握ったまま、青年は叫ぶように話す。気がつくと、彼も涙をこぼしていた。
「あれ、何でオレ泣いて……?」
「それはね」
姫が泣きながら言う。
「知ってるからよ。貴方も。私は島から出られない。一緒にはいられないの」
「そんなことねぇよ! オレは姫を悲しませたりなんかしない!」
「もう、悲しくなんかないわ」
姫は、青年の手をそっと自分の頬に当て、目を瞑る。
「私、今とっても幸せ。大好きな貴方に出会えて、好きだって言ってもらえて」
だから、終わりにしましょう。姫は優しい声で告げる。
「ハッピーエンドじゃない。私も、貴方が大好き」
最後に姫は、青年に寄り掛かかるようにして、そして、消えていった。
【人魚姫】
あれから何度夏が巡ったことだろう。その度に彼女は思い出す。あの熱く焦がれるような一カ月を。
今日も一人で埠頭に座り込み、瀬戸の海を見つめていた。誰もいなくなった小さな島で、彼女は今暮らしている。楽しい日々だった。だが時折、あの青年を思い出して、寂しさが胸をよぎるだけだ。
「さあ、もう帰りましょうか」
独り言を呟いて、立ち上がる。風が彼女の髪をなびかせた。
「あら……?」
島の反対側、誰かが上陸した気配があった。もう、もしかして、とは思わない。これまで何度も別の人間がやってきては、彼女の期待をへし折ってきた。その度に涙するのは、もうたくさんだ。
だが、それでも心の隅で彼を思い出してしまう自分に、彼女は少し笑ってしまう。その時。
「姫ーーーーーーーーー!!!!!」
島全体に響かん大音量で、名を呼ぶ声があった。
「っ!! この、声……!!」
彼女の「名」を知っている人間は、世界に一人しかいない。涙が溢れてくるのを、今から抑えることが出来なかった。空を駆ける想いで、いや、実際に空を飛んで、彼の元へと向かう。
「見つけた」
彼の胸元に、飛び込んでいた。力強い腕が、彼女の細い身体を抱き締める。
「な、なんで……? どうして……?」
泣きながら、問いかける。色んな言葉が溢れ出してくるが、そのどれも表現出来ない。
「これ」
青年がポケットから、一枚の紙を取り出した。
「島の居住許可証。申請して通るまで、随分時間がかかっちまった。すまん」
「そ、そんなの、もう、私は泡になっちゃったわよ……!」
「すまん」
「許さない」
「一緒に暮らそう。これからはずっと、ずっと……!」
「うん。うん」
青年と姫は、二人手を繋いで山道をのぼる。やってきのは思い出の古屋。何年も人が住んでいなかったのに、まるで昔のまま、綺麗に残されていた。
「帰ってきたな」
「ええ、そうね」
「ただいま」
「おかえりなさい!」
夏に咲くひまわりのような笑顔で、人魚姫は笑った。