子ブタ ガリガリ君
【子ブタ】
「ただいま」
炎天下の中、青年が買い物から帰ると、出迎える声があった。
「おかえりなさい。どこに行ってたの?」
パタパタと玄関まで姫が走ってきた。本当はこの島で一人暮らしをする予定だったが、すっかり二人に慣れてしまっている。
「おう。ちょっと食材の買い出しに……って、何だそれ」
姫が両手で抱えてる物を見て、思わず突っ込んでしまった。
「あら、貴方知らないの? ブタよ、ミニブタ」
小さなブタが、姫の腕の中に大人しく収まっていた。
「……元いた場所に返してきなさい」
昔青年が子犬を拾ってきて、母親に言われたことを、まさか彼自身が言うことになろうとは、思いもしなかった。
「ひどい! あなたってひょっとして犬派? それとも猫派かしら?」
「少なくともブタ派じゃねぇよ」
ブタじゃなくてミニブタよねと、姫がブタに話しかける。ブヒ、と小さく子ブタは答えた。
「どこで拾ってきたんだよ」
サンダルを脱いで家に上がる。姫はととっと後ろをついてきた。
「山向こうにおばあさんが趣味で小さな養豚場をしている所があるのよ。きっとそこの子よ」
「だったら、そのおばあさんに返してこいよ」
一人暮らしのつもりが、どんどん大所帯になっていく。それに、ペットを飼えるような余裕などなかった。
「嫌よ。あそこの養豚場もそろそろ潰れるの。この子一人ぼっちになっちゃう」
買ってきた食材を冷蔵庫につめる。それが終わると、青年は冷えた麦茶を取り出して、二つのコップにそれぞれ注いでテーブルの上に置いた。
「わかった。ちょっとそこ座れ」
「うん」
姫は子ブタを抱えたまま席についた。青年はテーブルの上に、一つの食材をコトリと置く。
「これが何かわかるか?」
「お肉?」
そう。
「豚肉だよ。今日の晩飯はトンカツだ」
「あら、私はトンカツ好きよ」
姫は何でもない事のように言う。どうも、まだよくわかっていないようだ。
「よく考えろ。トンカツだぞ。トンカツ。その子ブタの仲間を食うんだぞ」
「あっ……」
やっと姫も理解したようだ。サッとひたいを青ざめる。
「ひ、ひどい。あなたそれでも人なの!?」
「人だよ。だから豚肉も食うし、牛肉も食う。諦めろ。これから豚肉が食えなくなるぞ」
姫の膝にちょこんと座る子ブタを見ながら説得する。青年自身も今日の献立の変更を検討していた。こうも実物を見てしまうと、なんとも気がひける。
「で、でも、ほら見て。こんなに可愛いのよ。この優しい目を見てよ!」
「やめろ。目を合わせようとするな」
姫の両手で抱えられた子ブタの瞳の、なんと純粋なことか。どうしようもなく庇護欲が掻き立てられる。
「決めたわ。私、今日から豚肉は食べない!」
「はぁ!? ベジタリアンになるのか?」
「いえ、豚肉だけ食べない。だからいいでしょ? 貴方に迷惑は掛けないわ。お世話も私がするし、もうトイレも覚えたのよ」
上目遣いで涙さえ浮かべて懇願してくる。青年はどうもこの瞳に弱かった。それこそ捨てられた子犬のような眼差しは、昔の自分を思い出させる。
「う、うう……」
「ね? いいでしょ? お願い……」
「く、くそ!」
青年はダンとテーブルを叩いて立ち上がった。その仕草に姫はビクリと肩をすくませ、瞳を閉じる。怒らせてしまったのだろうか。青年は再び財布を手に、どこかへ行こうとする。
「ど、どこに行くの……?」
姫は怖る怖る尋ねた。それは、青年が出て行くことを怖れている様子だった。
「買い物だよ! 今日の晩飯は野菜炒めに変更だ!」
「じゃ、じゃあ!」
「飼っていいよ !ただし、ちゃんと世話しろよ!」
「うん! ありがとう!」
そう。青年はこの笑顔に弱いのだ。どうも、飼いならされているのは自分ではないかと思いながら、青年は再び炎天下の中、山道を下りるのだった。
その夜、青年がそろそろ寝ようかとタオルケットをめくると、子ブタがそこにいた。姫にハムと名付けられたそいつは、彼の布団でよく眠っている。
「ったくよぉ」
仕方なくハムと同じ寝床に入る。全開にしている縁側から、チリンと風鈴の音が聞こえてきた。気がつくと、タオルケットの中、彼の背中に暖かな温もりがあった。
「ね、今日一緒に寝かせて?」
夜になると自然といなくなる姫が、青年の布団に入ってきていたのだ。突然のことに、彼の心臓がバクンと跳ねる。
「ね、ね、抱きしめて。お願い」
首筋で甘い声が囁かれる。もう、どうにでもなれと、青年はハムをギュッと抱きしめた。
「違うわよ。わ、私をよ」
あまりのことに、少し混乱していたようだ。青年は意を決して寝返りをうつ。そうしたら、思ったよりずっと近くに姫がいた。
「抱きしめて」
何も言わずに姫を強く抱いた。ほんのりとひまわりの香りが鼻腔をくすぐる。
「苦しい。それに、暑いわ」
「そうだな」
「ええ、でも」
とっても安心する。そう姫が言ったのを最後に、二人は穏やかな眠りに落ちていった。
【ガリガリ君】
「今日も暑いわね」
「姫は涼しそうだけどな」
姫は、桶いっぱいにはった氷水に足を浸しながら、縁側でアイスを舐めていた。青年が買い与えた訳ではないのだが、先日のすいかといい、どこから持ってきているのだろうか。
「いいなアイス。オレの分はないのか」
「え? ある訳ないじゃない。これは島の人からの私へのお供え物なんだから」
「そうなのか」
そう言えば、青年が姫と暮らし始めて数日が経つが、島民と彼女の関係についてはよくわからない。
「なあ、島民は姫のこと、守り神だって知ってるのか?」
「んん? 知ってる人もいる、って感じかしら。そんなことより!」
姫がまた急にこちらに身を乗り出してきた。ちゃぽんと桶の水が揺れる。
「貴方、ガリガリ君についてどう思う?」
「が、ガリガリ君?」
青年としてはかなり重要な話をしていたと思っていたのだが、そんなことの一言で片付けられてしまった。
「どうって……何だよ」
ガリガリ君。日本人なら誰しもが口にしたことのあるだろうアイス。そう言えば、良く見ると姫が食べているのがまさしくそれだった。身を乗り出してきた姫の肩をつかんで押し戻しながら考える。
「そうだな。何かすごい色々な味があるんだよな。コーラとか、シチューとか」
彼は食べたことはなかったが、シチュー味のアイスとはいったいどんなものかと興味はあった。
「そう、そうなのよ」
見ると、何だか姫は落ち込んでいるようだった。青年には意味がわからない。
「ど、どうした?」
「貴方の言う通りよ。ガリガリ君はまさしく味のデパート。赤城乳業の開拓魂は、凄いものがあるわ。でも、でもね!」
何だかわからないが、姫は妙に熱くなっている。その様子を青年は若干引き気味に見つめる。
「私としては、ガリガリ君には、ブレることなく、このソーダ味一本で勝負して欲しいのよ!」
「アイスを振り回すな」
飛び散ったアイスをタオルでふく。青年の冷静な対応に、姫は納得いかない様子だった。
「ちょっと、随分冷めた対応ね。まさか貴方はガリガリ君コーンポタージュ派なのかしら」
「いや、そもそもオレはカップアイス派だし」
コーンポタージュなんて変化球な味があることを、青年は今初めて知った。その事を姫に告げると、彼女は大きく瞳を開いて驚愕する。
「あ、貴方都会に暮らしてたんじゃないの!? 本当に食べたことないの?」
「ないよ。姫はあるのか?」
「もちろんあるわ! 売店のおばちゃんに頼んで仕入れてもらったの!」
「ああそう」
神さまのくせに、いやに俗っぽく、また社交的すぎる姫に呆れる。だが、そんな中一つの疑問が口をついた。
「でも、姫は神さまなんだろ? アイス、ガリガリ君くらい、ささっと準備出来ないのか?」
よくよく考えると、姫が神さまらしき行動をしたのは、出会った初日だけだ。それ以外は、普通の少女と何ら変わりない日々を過ごしている。
「出来ないわ。私はこの島の守り神だもの。島の中のことならだいたい何でも出来るけど、それ以外はダメ。あと、島から出ることも出来ないわ」
島から出られない。さらりと言われた一言に、青年は反応した。一緒にいることが当たり前のようになっていたが、決してそうではないのだ。そのことを思うと、何故か胸が締め付けれるように痛んだ。
「なに、どうかしたの?」
急に姫が覗きこんできた。近い。思わず触れ合ってしまいそうな距離だ。
「い、いや、何でもない」
ふと浮かんでしまった考えを振り払う。パン、と膝を叩いて青年は立ち上がった。財布をポケットにつっこむ。
「あら、どこか行くの?」
「ちょっと売店。オレもアイス食いたくなってきた」
「え、そ、それじゃあ……」
姫は上目遣いで何かを言いたげな様子だ。
「わかってるよ。ガリガリ君、ソーダ味だろ?」
「うん!」
元気に頷く姫。もう青年は彼女の言いなりだった。そして、そのことにお互いが気づいている。
「じゃあ、ちょっと待ってろ」
「うん。いってらっしゃい」
青年はガラリと扉を開けて出て行った。一人残された姫は、縁側に寝そべる。ハムがトコトコやってきたので、抱き抱えた。
「そう。私は島から出られないのよ……」
姫の小さな呟きは、風鈴の音色にかき消されて、誰に届くこともなかった。