神様 すいか
【神さま】
愛媛県今治市大島から連絡船に揺られること三十分。目的の島に辿り着いた。
「うー。意外と船揺れたなぁ」
船から下ろされた小さな桟橋を渡って、一人の青年が島に降り立つ。彼は大きく伸びをしながら、瀬戸内海の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。半袖のTシャツに、青いジーンズの半ズボン。外気に晒した手足を、容赦なく夏の日差しが焼いている。
彼は大きなボストンバッグを抱えて海辺を歩く。キラキラと陽光を反射して輝く海面を、眩しそうに眺める。すると、ピチャリと一匹の魚が跳ねた。
「おぉ、魚だ魚だ! すっげぇ!」
海のない都会暮らしの彼には、浅瀬の小魚すら珍しかった。思わず歓声を上げて、浜辺に近よる。冷てぇ。そう言って瀬戸内の海に膝まで突入した。
バシャバシャと水飛沫を小さくあげる。一人はしゃいでいた。すると、どこからか少女の澄んだ声が聞こえてきた。
「あら。島に若い人がいるなんて何年ぶりのことかしらね」
その声は、青年がいたより少し沖の方からした。ふいのことに思わず彼が沖の方を見やると、何もない海面が静かにせり上がっていき、そして、一人の少女が現れた。
「なっ!?」
燦々と降り注ぐ夏の日差しをキラリと浴びて、水飛沫を小さな宝石のように散りばめながら、白いワンピース姿の少女は微笑む。
「君は……人魚姫か……?」
それが、青年の口をついた言葉だった。そんな突拍子も無いことを考えてしまうほど、その少女が美しかったのだ。長く絹のような滑らかな黒髪を水に濡らし、振りまく少女。その子は、可笑しそうにクツクツ笑いながら、
「へぇ、素敵ね。なら貴方が私を泡にしてしまう方なのかしら?」
静かに言った。
「あ、いや、今のは……」
思わず見惚れてしまった目を離すと、青年は慌てて両手を振る。
「ふふ、いいのよ。あなたはだぁれ? この島には何しにきたの?」
少女はそんな彼に構わず話をすすめる。どうやらこの島の子供みたいだった。髪をバサリと払って水滴を飛ばす。
「お、オレはその、大学の休みを使って、じいちゃんの実家に遊びにきた……」
「学生さん」
少女の声は鈴の音のように澄んでいて、波の音と一緒によく響いた。
「まあいいわ。しばらくこの島にいるのなら、また会うかもね」
そう言って少女は海から上がってくる。すれ違い様、青年の肩を軽く叩くいて、
「島へようこそ」
花が咲いたような笑顔で言った。
青年はまだドギマギしていた。あんな綺麗な娘、大学でも見たことがない。まるで、それこそ人魚姫のような、物語の世界から飛び出してきたかのような娘だった。彼女の微笑みを思い出しながら、バッグを担いで山道をのぼる。海辺とは違って、暑さで汗が滝のように流れ落ちていった。
「っの、よっと」
それでも、ゆっくりと歩みを進める。道は申し訳程度だけ舗装されていた。道の端からは、これでもかという程、夏草が伸び放題で、てんとう虫が目線を横切る。
「つ、着いたぁ!」
小さな木造の古屋の前にたどり着いて、青年は倒れ伏しそうになるのを、何とか堪える。一階建てのその古屋は、これから一カ月、青年が暮らす予定の場所だ。ポケットから借りてきた鍵を取り出し、ガチャリと扉に差し込む。少し手こずったが、何とか扉が開いた。中は予想していたよりずっと綺麗だった。
とりあえず荷物を置いて、古屋の窓という窓を開けにいく。こもった熱気で室内はサウナのように……なってはいなかった。それどころか、チリンチリンと涼しげな風鈴の音がする。不審に思って、縁側の方に行ってみると、
「あら、いらっしゃい。随分遅かったわね。すいか、冷えてるわよ」
先ほどの少女が、一人座ってすいかを食んでいた。
「なっ!? 君は、さっきの……!」
あまりのことに、二の句が告げない。また会うかもとは少女も言っていたが、それがこんなにすぐで、しかもこんな状況だとは思いもしなかった。
「ちょっと何してんだ。ここはオレの家だぞ!」
「あれ、田坂のじい様のじゃなくて?」
「この夏一杯はオレの家なんだ。不法浸入だぞ」
青年もそこまで煩く言うつもりはなかったが、一応権利を主張する。
「あら。それは困ったわ。私ここがお気に入りの場所なの。もう来れなくなっちゃうわね」
「べ、別にちょっと訪ねてくる分には構わねぇけど、無断で入りこまれちゃ困る」
青年の主張に少女は可愛らしく小首を傾げて、右手を口元にあてる。
「でもひどいわ。これまで誰憚ることなく使えてた場所が、こんなことで使えなくなるなんて。理不尽だと思わない?」
「んなこと言われても……」
困るのは青年の方だ。すると、少女が何か思いついたように、パンと胸の前で両手を合わせた。
「そうだわ! すっかり忘れてたけど、私こう見えてこの島の守り神様なの。だから、お供え物だと思って、この場所を私に提供なさいな」
「……は?」
何を言ってるんだこの娘は。確かに青年から見ても、現実離れした美しい少女だが、だからって神を名乗るとは。ひょっとすると電波ちゃんなんだろうか。
「うむ……」
青年は考える。神云々は置いておいて、この古屋に後からやってきたのは彼だ。それをいきなりもう出入りするなというのは、少々ひどい話に思えた。
「わかった。ある程度なら自由に出入りしていいぞ。後から来たのはオレだしな」
「やった! そうこなくちゃね。でも……」
食べかけのすいかを脇に置いて、猫のような仕草で少女は青年に擦り寄る。
「貴方、私が神だと信じてないわね?」
上目遣いで言われて思わず青年はドキリとしてしまうが、今はそんな話じゃないと頭を振る。
「信じ、られるわけないだろ。そんなこと」
「ふーん。柔軟性に欠けるのね」
少女の言い方に、大人気なくカチンときた彼は、
「じゃあ、証明してみせろよ」
そう言い放った。
「あら、えらく挑戦的ね。いいわ。見せてあげる」
しかし少女も強気だ。だが、どうせマジックかペテンの類いを見せられらのだろうと青年は考える。そんな中、少女は縁側から歩み出て、小さな庭を、くるくると、両手を広げて回転しだした。
「今から、雨を降らせてあげる」
静かに言った。回転はまだ終わらない。ゆっくり、ゆっくりとスケート選手のようにくるくる回る。
「雨? そんなもの降るわけが……」
言い切るまでもなかった。外はピーカンで雲ひとつない。この状態で雨が降れば、それこそ神業だ。ただ、回る少女が美しいので見惚れていると……。
ポツリと小さな庭の隅に置かれた竈の、水面が揺れた。
「ふふ。ありがとう」
ポツポツと水面が波紋を次々に広げていく。気がつくと、空には雨雲が満ちて、外は薄暗くなっていた。天からの恵みの雨が降り注ぐ。
「なっ!? な!?」
驚きのあまり、床に尻餅をついてしまった。青年は目をこすり、頬をつねりしてみるが、目前の光景は変わらない。しとしとと雨は降り続ける。
「どうかしら? 信じてくれた?」
少女は微笑みながら青年を振り返る。彼女が回転を止めると、箒ではかれたように雨雲が散っていく。
「ぐ、偶然だ。それか何か、知ってたんだろ! そうだ。潮とか風の香りとかで!」
「あらあら強情さんね。なら、これはどうかしら」
少女はクツクツ笑うと、庭のひまわりの方へ歩いていく。このひまわり、すっかり枯れてしまって、萎れている。そのひまわりの花に、少女は優しく触れる。そうすると、枯れているはずのひまわりが、みるみるうちに元気を取り戻し、大輪の花を太陽に向けて咲かせた。
「う、嘘だろ……」
「さあ、これで信じてくれたでしょう?」
少女は振り向いて、デンと胸を張る。もはや疑う余地はない。彼女は、本当に神様なのだ。青年は尻餅をついたまま、ただただ少女を見つめていた。
【すいか】
「すいかに塩をかける人っているじゃない?」
今日も快晴だった。真夏の日差しは肌を刺すようで、ヒリヒリと鼻の頭を焼く。そんな中、青年は庭のひまわりに水をやっていた。せっかくまた咲いてくれたのだ。再び枯らすのは忍びない。そのままの姿勢で答える。
「ああ、いるな」
青年は、だからどうした、という態度だ。ついでに今日は庭の草むしりをする予定だった。頭に巻いたタオルを外し、汗を拭う。
「なんだ。塩が欲しいのか」
頭の中で塩のありかを考えながら尋ねると、強い口調で返事された。
「否。断じて否よ。おかしいと思わない? すいかは甘いから美味しいのに、どうしてそこに塩をかけるの? 意味がわからないわ」
少女は今日も縁側で足をぶらつかせながら、すいかを食べていた。外の水道でキンキンに冷やしたすいかは、綺麗に八等分され、その半分が既になくなっている。
「ああ、あれは、甘いすいかに塩をかけることで、より甘さを引き出せるっていう……」
「納得いかないわ。すいかを甘くしたいのなら、砂糖をかければいいじゃない!」
少女の言い分に、少しなるほどと思う。ただ、彼の家では、誰もすいかに塩をかけなかったので、なんとも言えない。
「そんなに文句があるなら、お前が実際にやってみればいいじゃないか」
「それは、ムグ」
青年はタオルで少女の口元を軽く拭ってやる。頬にすいかの種がついていた。それも手で取ってあげる。
「ありがとう。でも、それは嫌よ」
「どうして」
「もし美味しかったら、負けた気になるじゃない」
めちゃくちゃな言い分だと思った。
「お前それは……」
「あと!」
少女の細い指が青年の唇を抑える。
「そのお前っていうの、やめて」
「じゃ、じゃあ何て呼べばいいんだよ」
青年は少女の名を知らない。そう言えば、お互いまだ名乗ってもいなかった。
「さあ? 私に名前なんてないもの。あなたがつけて」
すいかの話はどこへやら、少女の隣に腰を下ろした青年に、グイと身を乗り出してくるくる。その目はキラキラと輝き、期待に満ちていた。
「んん、ええと、じゃあ……姫」
「姫?」
「ああ、姫だ」
少女があまりに近いので、青年は目をそらしながら言う。
「それって、もしかして人魚姫からとったの?」
「そうだ」
「悲しいお話から名前をつけるなんて、ひどい人ね」
「ふ、不満か?」
不安になって問いかける。だが、少女はもう縁側にはおらず、片手にすいかを持って、庭に降りていた。
「いいえ、気に入ったわ。そう、姫、姫ね。女の子の憧れじゃない。お姫様なんて」
「そ、そうか。なら良かった」
嫌がられたらどうしようと思っていたが、気に入ってくれたようで、青年は安堵した。
「ふふふ」
庭を歩く少女の姿は、あまりに嬉しそうで、今にも踊り出さんばかりだ。
「今日から私は姫。なんだか生まれ変わった気分だわ。ってあれ?」
少女が縁側に視線を戻す。だが先ほどまでそこにいた青年がいなくなっていた。家の奥で何やら物音がする。
「何してるの?」
「いや、おま……姫があんまり塩、塩言うもんだから、どんなものなんだろうと思ってな」
青年の手には、赤いキャップの塩の瓶が握られていた。
「どうだ。姫も試してみないか。ちなみに砂糖もある」
ポケットからもう一つ。青いキャップの瓶を取り出す。
「いや。私のアイデンティティに関わるもの」
「生まれ変わったんだろ? ほら」
すいかに軽く塩を振って、青年は姫に手渡す。それを渋い顔で姫は受け取った。
「あ、美味い美味い。ほら、食ってみろって」
青年が嬉しそうな声をあげる。姫はそのまま胡乱げな視線ですいかを見つめていたが、とうとう、パクリとすいかにかぶりついた。しばらく咀嚼して、飲み込む。だが、姫は何も言わない。
「ちなみに、こっちが砂糖だ。好みにもよると思うが、オレは苦手だな」
苦笑いする青年。砂糖をまぶしたすいかを縁側にことりと置く。その途端、姫がそれをかっさらって、パクリと食いついた。
「お、おい……それ……」
間接キス、とまで言いかけて、やめた。もう彼も子供ではないのだ。
「ふう。恋愛と一緒ね」
「は?」
すいかを完食すると、姫は悪戯っぽく笑って、腰に手を当てる。
「甘いだけじゃダメ。むしろ、ちょっぴりスパイスが効いてた方が良いってことよ」
「あ、ああ。そう、だな」
青年の顔が火照るのは日焼けのせいか。身体が熱いのは夏だからか。青年の胸に小さく生まれた気持ちを飲み込むため、彼は再びすいかにかじりついた。