青の世界
透けるように美しい少女、夏海は夏が嫌いだ。
生まれつき色素が欠乏していて、薄碧の瞳と白磁のような肌は太陽に対応していない。肌と同じ色の柔らかい髪まで痛く感じてしまう程だ。
無論色素がなくても暑さは感じる。むしろ夏海の華奢な身体は暑さに弱いほうだった。学校までは親にクーラーの効いた車で送迎してもらい、体育の授業は屋外なら涼しい日陰で見学している。
精巧な美術品のような夏海は大切に守り抜かれていて、放課後は光が射さない声楽部の部室でカーテンを締め切り篭っている。
淡い空色の瞳は世界をはっきりと映せない。眼鏡やコンタクトレンズでの矯正はほとんど効果がなく、スポーツや読書すらも楽しめない。神はそんな薄幸少女に幻想的な美しさの他に、素晴らしい歌声を授けた。どこまでも清らかに伸びる美声は人々を魅了し、すぐに歌姫と呼ばれるようになった。
歌姫にも歌姫なりの夏の楽しみはある。部活での休憩時間、カーテンの隙間から窓の外を覗くのだ。すると透明な青を映した一角がすぐ目に飛び込んでくる。水面では光が乱反射してキラキラと輝いている。夏海の裸眼でわかるのはそこまでだ。常備している双眼鏡をの覗くと、夏海とは対照的に健康的な小麦色の肌の水泳部員達がせわしなく泳いでいるのが見えた。
その中に一際目立つ男子がいる。プールの中で立つと頭が一つ分周りより飛び抜けていて、長い手脚を駆使し見失いそうになる程のスピードで泳ぐのだ。プールサイドに上がると、女子マネージャーとの体格の差がより顕著になる。長身にバランスよくついた筋肉はより彼を大きく見せていた。こんがりと日焼けしたその肌色みたいな、くっきりと浮かぶ濃い影もいつだって他の部員より長い。
そして彼には妙な癖がある。スタート台に立ったら、右手の指でゴーグルの表面をこするのだ。速く泳ぐためのまじないではないかと夏海は踏んでいる。右肘が上がりちょろちょろと動くから、彼だと見分けがつきやすい。
双眼鏡を通しても顔はよく見えないし、名前すら知らない。それでも、美しいフォームで水の中を駆ける彼に、いつも目を奪われていた。泳げない夏海が恋焦がれる理由はそれだけで十分だった。
勢いを殺さない豪快なクイックターンも格好良いが、夏海は彼の滑らかなクロールが一番好きだった。
力強い蹴りで二十五メートルプールの四分の一まで真っ直ぐ伸びる。イルカのようにしなやかにうねりながら、引き締まった足で数回水を弾く。そして水を纏った手を水面に滑り込ませる。大きな体躯は易々と水をすり抜け、ぐんぐん進んでいく。その姿を夜ベッドの上で思い出すだけで、幸せな気持ちで眠りにつけた。
クロールの他に、背泳ぎをしているのも見かける。
頭の天辺から爪先まで、糸で吊るしているかのように伸びた姿勢はすごく綺麗だ。真っ直ぐに振り下ろされた腕は水面を切り裂き、水飛沫を上げる。たったの一かきで驚く程に進んでいく。彼の泳ぎは一つも無駄な動きなんて存在しないに違いない。
不思議で美しいまだら模様が揺れるプールで泳ぐ姿を、夏海は眩しそうに目を細めて見つめる。日差しを受けながら、水に吸い込まれていくのはさぞかし心地よいだろう。
夏海という名前なのに光に弱いため海に行けない。紫外線の影響を丸ごと受けるため、少し外出するだけでも日焼け止めクリーム、長袖長ズボンなどの対策が欠かせない。暑い夏は特に厄介だ。これほどまでに名前負けしている人物を、夏海は自分自身以外に知らない。
「いいな私も、外で泳いでみたい」
ぽろり、と本音が漏れた。幼稚園も、小学校も、中学校も、プールは当然屋外にあったため見学だった。陽が入らないようなスイミングスクールに通えば夏海でも泳げたのだろうが、特別習おうとは誰も言い出さなかった。
「えー、そぉ?」
そう不思議そうな顔で口を挟んできた部員の肌は決して黒くはないが、実に健康的に見える。
「日焼けするし水冷たくて寒いし、かといってプールサイドは灼熱地獄よ。いいことないわよ、プールとかだるいだるい」
その絶対的な白さも、体育授業の見学も羨ましい、とでも言い出しそうな勢いで文句を連ねる。徹底的な紫外線対策に夏海はいい加減辟易していた。まわりの人達は綺麗だと囃し立てるが、街中でも校内でも物珍しそうに見られたり、ギョッとされるのは未だに慣れない。特に後ろ指をさされると傷つく。
「……そんなことないよ」
夏海はか弱く否定して、そっと目を伏せた。憂いを帯びた瞳を縁取る睫毛さえも白く、血の色がほんのり透ける頬に淡い影を落とした。彼は相変わらず、蝉時雨も誰の小言も聞こえないであろう静謐なる青色の世界で泳いでいた。
彼女は今日も声楽部で、彼への想いを歌に乗せる。
締め切っているガラスの窓が震える程に蝉がわんわん泣き喚く、ある夏休みの昼下がり。声楽部は近々開催されるコンクールに向け、蝉の大合唱にも負けないよう練習していた。
いつものように窓の外を覗くと、抜けるような青空の下、プールサイドに見慣れない制服の女子数人が目に入った。普段と比べて水着を着ている人数も多い。
「水泳部、今日はどこかと合同練習してるのかな」
独り言のような呟きに、近くで水分補給をしていた部員が反応した。
「どっかの強豪校らしいよ。友達が水泳部だから、ちょっと行ってくるね」
「見に行ってもいいの?」
毎日のようにプールを眺めているが、体育の授業の補習以外では、いつも水泳部しかプールサイドにいない。
「うん、応援なら誰でも大歓迎って言ってたよ」
「待って、私も行く!」
夏海は慌てて鞄からポーチを引っ張り出した。
「今日、日差し強いよ?」
陽光が燦々と降り注いでいるのが、室内からでもわかる。
「うん、だから待って」
顔と手の甲に丁寧に日焼け止めクリームを塗り込み、長袖の分厚いクラブパーカーを羽織る。肌と同じくらい白いハイソックスを伸ばし、スカートを膝下まで下げる。これで肌の露出は最小限になった。
部室から出た途端、もわっとした不快な熱気が彼女たちと襲う。暑い。クーラーのおかげで服と肌の隙間にとどまっていた冷気は、すぐにまとわりつくような生ぬるい空気に変わっていく。
校舎の外は更に暑かった。パーカーの中のブラウスが汗でじっとり湿っていくのを感じる。どこまでも広がる空をふと仰ぐと、高く昇った太陽が眩しくて、人形のように整った顔を歪めて目を細めた。直射日光が夏海の肌理細かい白肌を容赦なく突き刺し、焼き尽くそうとしている。髪は光の筋のように煌めいた。
プールに近づいて行くほど、風に乗ってくる塩素に臭いがどんどん濃くなる。それに比例するように、夏海の心臓の鼓動も大きくなっていった。
部室からはプールサイドは涼しげな空間に見えていたが、実際は全くそんなことはなかった。太陽からの熱をたっぷり吸収したアスファルトは、いつか誰かが言っていたように灼熱地獄だった。一緒にいた部員は靴下を脱いで裸足になっているため、「熱い、熱い!」と声をあげながら踊るようなステップを刻み、黒く濡れている部分を踏んでいる。夏海は素足になれないが、靴下越しでも十分すぎるほどに熱が伝わってくる。濡れた部分を踏んでしまわないように、足元を見つめてテントの隅まで歩いた。
顔を上げると、眩しさに目がくらんだ。視神経にまで光が突き抜けてくる。眩しいのは太陽の光だけではなかった。
瑞々しい小麦色の肌も、引き締まった筋肉の上を滑る水滴や、青に揺蕩う水面が光を受けてキラキラと輝くのも、原色のペンキをぶちまけたように鮮烈な空の青と、その奥に湧き立つ入道雲の白のコントラストも、全てが眩しくて目を細める。
こんなにも美しい世界で皆は生きているのか、と感嘆した。それは羨望にも似た感情だった。夏海は生きられない眩しい世界は、絵画のように鮮明で現実味がない。
「次、早く準備しろ!」
その鶴の一声でいかつい男子が何人か、一斉に各レーンのスタート台に並んでいく。皆がゴーグルを目に押し付ける中、中央のレーンの一人だけがゴーグルを右手の指でこすっていた。見慣れた癖に心臓が飛び跳ねた。横顔を凝視するものの逆光でよく見えない。
他のレーンの男子達は、写真でしか見たことのないような見事な逆三角形の身体の持ち主だった。想いを寄せる彼の筋肉はごつすぎずしなやかについているが、手脚が長く伸びているためむしろ有利そうだ。太陽の光を一身に受け、スタート台に立つ彼の背中は部室から眺めている時より広く見える。
「頑張って、ください……!」
コンクールの独唱の時よりも緊張で震えた声は、たっぷりの水に吸い込まれていった。聞こえなかったかな、と思った瞬間に彼は夏海のほうへ顔を向けた。相変わらずの逆光だったが、表情が和らいで「ありがとう」と口が動いたような気がした。
「用意!」
笛の合図が緊張した空気を切り裂くのと同時に、彼は綺麗な弧を描いて流麗なフォームで飛び込んだ。音も水飛沫も殆ど立てずに青に吸い込まれる。
しばらくの潜水の後、大きな手はしっかりと水を捕え始める。力強く水をかいて、彼の姿はどんどん遠ざかっていく。
穏やかに広がる波紋と弾ける泡を見つめながら、夏海は人魚姫を想っていた。美しい声と引き換えに人間になったが、王子と結ばれずに泡となってしまった少女。青空の下、彼と一緒に塩素剤の溶けた狭い海で泳げるなら声なんていらない。人間の脚より、鱗に覆われた尾ひれがほしい。叶うはずのない願いは喉の奥でしゃぼん玉のように膨らんで消えていく。
噎せ返りそうなほどカルキ臭のする風は、夏海の真珠色の髪を撫でていった。