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1999年、小さな地球

 綾香との関係は良好だった。いつものように暇なときには綾香から突然電話がかかってきて、突然私たちは繋がりが出来た。どこかに行きたいというから二人でバッティングセンターに行った。普段は女性だとなかなか行けないだろうから連れて行ったのだ。綾香は楽しんでくれた。私は出来るだけ女性がひとりだと行けないような所に連れて行った。特にラーメン屋に行こうと言えば彼女は喜んでついてきた。

 彼女はゼミを同じところに行こうと誘ってくれたし、私もそれについていった。何かと綾香は私を誘ってくれていた。私には亜季とあのロックバンドの喪失があったが、その大きな穴を綾香が埋めていた。ひとつ心残りはイナだった。この年の連休中は実家に帰られなかった。イナはたくさん私に話したいことを用意しているだろうし、私もたくさん嘘を用意していた。それを披露することができなかった。


 秋、学園祭があった。そこで私のところのゼミは展示物を作ることになった。私のゼミのクラスはみんな仲が良かった。そこで何かみんなで協力して展示物を作ろうということになった。そこでリーダー格の学生が学際実行委員に掛け合って、スペースを確保したのだという。高校の頃そういうことがあったが、クラスの女子が盛り上がって男子は取り残されることを思い出した。私はこういうことはどこか苦手だった。楽しんでやることは結構だが、本当に楽しんでやろうという感じだった。いろんなことが中途半端だった。詳細に計画を決めていたわけではなくて、作る創作物はみんなで絵を描いて飾ろうという物だった。単に騒ぎたいだけなのだろう。綾香もそうだった。

展示物は白い大きな布にみんなが絵を描くというものだった。ひとり絵の上手な人がいて彼がしたデザインにみんなが絵を描くのだ。私は絵を描くのが苦手だったので気が進まないのもあった。ただ周りのみんなもいい加減だった。メリハリのない作業だった。各個人サークルでの出し物もあるようだから、そっちに行ってしまったり作業の進みは遅かった。

 同じく私もいい加減だった。特に展示物の出来なんてどうでもよかったし、綾香がいたから作業について行ったと言うのが正しかった。綾香と喋りながらの作業だった。そんな調子だったから結局、文化祭前日まで作業が続いたのだ。それでも何とか間に合いそうな進捗状況だった。


 作業も大詰めとなった日、ゼミのみんなが最後の仕上げを行うことになった。もうほぼ完成の一歩手前だったから二、三人が作業しているくらいだった。床に布を敷いて、絵を描く人はしゃがみこんで作業している。私をはじめ何人かはその様子を見ているだけだった。

 そのとき、綾香がゼミの女性に赤の絵の具を要求した。彼女はそばにあった小型のバケツのような容器を布の上越しで手渡そうとした。綾香は取っ手の部分をつかもうとせずに、容器のふちの部分をつかんだ。それは見ていて非常に不安定だった。綾香は彼女の手が離れると、重みに耐え切れずにそれを落としてしまった。絵の具は布の上に派手に流れ落ちた。みんな一瞬「あっ」と声が出てすぐに静まり返った。絵の上には真っ赤な絵の具のあとが布の中央に広がっている。もう台無しだった。綾香は両手で口を覆ってその布を見ている。完全にショック状態に陥っていた。そして大粒の涙を流し始めて泣き始めた。同じゼミの女性たちが数人綾香を取り囲んで慰めている。一方で男子はこれからのことをどうするか相談し始めた。

 今からでも小さな絵を書こうとか提案があった。みんなそれに反対はしなかった。このままで何も展示しないのはあまりにも綾香に気の毒と思ったからだ。彼女たちを見ると私が悪いのと言い合ってまだ慰めあっていた。ただ問題は今から準備しても間に合うかどうかだった。

「僕が何とかしてみようか」

普段私が意見を言わないこともあって、みんな驚いて振り向いた。何人かは「どうするんだよ」とか言っている。何ができるんだという表情だった。少し偉そうな言い方に聞こえたのかも知れない。

 私は青色の絵の具を取ってみてそれを黄色に変えた。またみんな驚いた。一度に多数の人に自分の嘘を見せるのはこれが初めてだった。

「僕は嘘がつけるんだ。だから何か展示物には都合がつくと思う」

またみんな相談を始めた。そろそろ日が暮れてきた。打ち合わせは今までのだらだらしたものではなくてすぐに終わった。展示物のメインは私が担当し、その周りのセッティングはみんながするということに決まった。

 私はすぐに文房具店へ行った。そこで一番大きなサイズの地球儀と地図帳を購入した。去年の暮れに帰ったときにイナが一番喜んだ嘘をつこうと思った。イナはそれを「小さな地球だね」と言った。イナは今までの嘘よりもずっと長くそれを眺めていた。いつもは声を出してはしゃいでいたが、小さな地球に対しては全く違う反応だった。暗い部屋の中で輝く青い光に反射したイナの表情は私にとって印象的だった。


 私は床に座り、作業に取り掛かった。みんな展示物のセッティングのためにテーブルや暗幕、看板の製作作業をしていたが、手を止めて私のことに注目していた。

 私はいつものように落ち着いて作業を始めた。緯線、経線を消し、海を青く染める。国境を消し、陸地を埋める。

「世界地図あるかな?」

私が購入してきた地図帳を綾香が持ってきた。

「アフリカ大陸のページを開いて。」

私は両手が塞がっているので、彼女に頼んだ。私は砂漠、高原、山脈の位置を確認し、嘘をついていく。部分ごとに確認しながら綾香に言ってページをめくってもらう。そういう作業を続けた。私は普段はサッカーボールよりも小さな地球儀に嘘をついていた。今回はだいぶ大きいサイズだった。初めての嘘ではあるが何とかなると思った。それでも時間がかかっていて額に汗がにじんできた。それを綾香が拭いてくれた。

 作業が進み、地球の全貌が出来上がった。次に白い雲を作っていく。そして台風を発生させる。私はふと隣の綾香の顔を見た。彼女は幾分かショックから立ち直ったみたいだったが一言も話していなかった。私がじっと顔を見ていたら、綾香はそれに気づいた。

「何よ」

「いや、泣いている顔も綺麗だなと思って」

私は半分冗談、半分本当のことを言った。

「馬鹿」

彼女はそう言ったが少し元気そうに見えた。

「これは台風何号にしよう?」

「そんなのどうでもいいよ」

「どうでもよくないよ」

「一号」

彼女は適当に答えた。いつもどおりの様子でよかったと思った。

 台風一号が発生して、太陽の光を反射させる。小さな地球は青色に輝いた。

「できたよ」

みんなから一斉に拍手が上がった。こんな拍手を浴びるのは初めてかもしれない。あとはゼミのみんなが小さな地球のセッティングをしてくれた。


 帰り道は綾香と二人で歩いた。

「嘘がつけるんだね」

「まあね。隠していたわけではないけどね」

「将来は嘘つきになるの?」

「まだそれはわからないよ」

そのまましばらく黙って歩いた。今日は何も起こらなかったような静かさだった。さっき作業中のとき私は彼女に話しかけることができたのに、今はなぜか出来なかった。今日はあんなことがあったから話しかけない方がいいと思った。

 一方でいろんなことも考えた。なぜ自分はあんなことをしたのだろう。綾香を助けたいと思った。彼女の点数を稼ごうと思った。あるいは自分の嘘を他の人に見てもらいたいと思った。それはどれも正直な気持ちだと思う。

駅の改札前で綾香はこう言った。

「今日はありがとう。じゃあね」

改札を通ったあと彼女は振り返って私に手を振った。私もそれに手を振って応えた。


 翌日からの学園祭の反応は良好だった。展示ブースは入場者数が多かった。使い捨てカメラで写真を撮っている人もいた。すごいと言ってくれるギャラリーの反応がうれしかった。もうひとつ私が気がかりだった綾香の様子も元気そうだった。

 それ以降大学内を歩いていると嘘つき呼ばわりされるようになった。選択していたドイツ語の講義でも近くの席の人から嘘をついてよと頼まれたりした。

 私はこの頃あたりから嘘つきとして将来働くことを少しずつだが考えていくようになった。「将来は嘘つきになるの?」という綾香の言葉がよく思い浮かべるようになった。



 私たちの友人関係は亜季との関係よりも長く続いていた。そして私たちには特に進展はなかった。綾香には別に男友達はいたし、好きな人はいないようだった。でも私は彼女と毎日会っているわけではなかったし、彼女はそういう時どう過ごしているかわからなかった。もしかしたら綾香にはすでに彼氏がいるかも知れないとも思っていた。たしかによく一緒に出かけることはあったが、異性の友達と遊びに行くことは別に普通でもあった。

年末、今年もまた二人でささやかな忘年会をした。

「今年もいろいろあったねえ」

綾香はそう振り返った。

「今年はよく泣いたものね」

「一回だけだよ」

私がからかうので彼女は嫌そうに言った。でも表情は笑っていた。

「泣いている顔も綺麗だったよ」

私は冗談の様に本当のことを言った。

「馬鹿」

彼女は私の冗談の部分だけを理解した。

「今日はお酒よく飲むのね」

綾香はそう指摘した。

「お酒と愛さえあればいいのさ」

私はまた冗談っぽく言った。前ゼミのコンパで女子にこれを言ったら、意外と受けたので綾香にも同じことを言ったのだ。ただ彼女は笑わなかった。あまり面白くはなかったのだろうと思った。

「本当に好きな人とかいないの?」

愛ということに綾香は反応した。私には愛から連想される恋人がいないからだ。

「普通は少しくらいあるでしょ?」

彼女の表情は怪訝なものだった。

「うん。まあ」

私はどっちつかずの返事しか出来なかった。そういう質問は今までよく綾香から聞いた。彼女は単に恋愛話が好きな人だと思える程度だった。だからそういう質問をよくすると思った。でも今日はそうではなかった。初めて見た表情と初めて耳にする口調だった。

「今年の年末にはまた実家帰ることにしたよ。またイナに会える」

私は話題を変えてイナの話をした。綾香にはよくイナのことを話していた。

「もう六年生だからだいぶ大きくなっているかな」

「多分ね」

「あの子と遊んでいるときに自分が嘘つきって気づいたんだ。『小さな地球』を一番初めに見せたのもあの子なんだ」

「そうなの」

 綾香は話題を変えた直後、相槌ばかり打っていたが次第にイナの話題に乗ってきた。いつもどおりの彼女に戻った。それに私はどこかほっとした。でもあの反応は少し嬉しかった。確かに戸惑ってはいたが、私に何かしらの関心を持っていると思った。でもあくまでも私の希望的観測でしかない。綾香の本心はわかったような気もするし、全くわからないような気もしたのだ。


 結局、今年も何事もなく終わった。この年イナにも会えなかった。イナはおばあさんのところに行っているということだった。


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