1998年、小さな地球(1)
大学二年生になった。五月の連休に亜季と動物園へ行こうと誘った。私はデートの場所にあまりに合わない気がしたが、行ってみたいと思うのだった。それは何となくではなくて、もう一度見てみたいと思ったからだ。昔、子供の頃に動物園に行ったことはあった。だがそれは単に何となくで見ていた気がするし、もうあまり覚えていなかった。ひょっとすると大人になってから見るほうが面白いかもしれないと考えたのだ。
亜季とは駅で待ち合わせをした。でも約束の時間に十分過ぎても彼女は来ない。彼女が少し遅れるのは珍しかった。二十分過ぎて彼女はやってきた。
「ごめん。寝坊した。」
亜季は走ってきたせいか息切れしていた。
「遅いよ。」
私は軽く彼女の頭を叩いていった。
「もう、携帯買ったら?」
私は携帯電話をまだ持ってなかった。確かに持っていたら便利だろうと思った。だが私は新しいものには結構疎かった。周りの様子を見ながらいつか購入しようと思った。彼女といつも約束するときは分かれる際にするのだった。今度はいつ、どこで会うか毎回決めていた。これは面倒くさいと亜季は思ったかもしれないが、私はそれで繋がっていたと思う。いつも別れ際に「私たちの続き」を作っていた。それはお互いに付き合っている実感を持たせていたのだと思う。
動物園に着くと、とりあえず適当にまわっていた。空いていそうなところから行くことにしたのだ。動物園は予想外に面白かった。子供の頃はあまり気にはならなかったが、大人になった今、動物の細部を見ようと思ったのだ。ただ動物が動かなくてじっとしていても面白かった。
特に面白いと思ったのはホッキョクグマだった。今までのイメージだとずんぐりとした体格でのそのそと動く、そんなものだった。でも実際はそうではなかった。体はもちろん大きいと言えるのだが、細くも見える。四本の足など思ったよりも長い。そして巨体なのに静かに歩く。それは塀の上を歩く猫のように柔らかい動きだった。見れば見るほど愛嬌がある。獰猛な一面もきっとあるのだろうが、非常に可愛らしく見えた。
「もう、次行こうよ」
亜季は苛立ってそう言った。
「もうちょっと」
私は彼女の顔を見ずにそう言った。亜季は少しクスッと笑った。
明日実家に二日ほど帰ると言うので、亜季は園内でお土産を買いに行くと言った。私もそれに付き合うことにした。店の中で亜季は商品を選びながら話した。
「動物好きなんだねえ」
「いや、そうでもないけど、どうだろ?」
「熱心に見ていたよ」
そうだろうと思った。今まであんなにじっと見つめていた事なんてあったのだろうか。テレビを見るとは違っていて脳裏に焼き付けようと思って見ていた。それは多分、今後動物園になかなか来ないだろうという考えだったからだ。
「何か買わないの?」
亜季がそう言う。私も実家に帰るのは今年の夏になるが、イナに何か買っていこうかと思った。
「キーホルダーがあるね」
私はたくさん動物のキャラクターがぶら下がっているのを見つけた。
「そんなのが好きなの?」
亜季は私をからかうように言った。
「違うよ。君も見たろ? あの女の子に買うんだ。」
「ああ、あの一緒に遊んでた子? 今何年生なの?」
「五年生だね」
私は亜季と会話しながらイナが好きそうなものを選んだ。でも私はイナが好きな動物は知らないので、キャラクターで一般的に女の子が好みそうなものを選ぼうとした。
「赤羽君の好きなシロクマでいいじゃん。ほら」
亜季はホッキョクグマのキーホルダーを見つけた。私はそれにしようと思った。
*
残りの連休は亜季がいないので私はアルバイトをしていた。このとき勤務シフトが綾香と似通っていてよく会うことになった。勤務中は黙々とレジ打ちしたりするだけなのだが、仕事が終われば一緒に帰ることにしていた。ドイツ語のとき以来、久しぶりの帰宅だった。私たちのバイト先は大学のそばにあった。私の生活圏内なので徒歩で通えるし、綾香も大学終わった後、あるいは午後からの講義の日は午前中勤務するというシフトだった。大学でも講義でもバイト先でも彼女と会うので親しく友達付き合いをしていた。
綾香と一緒に歩いていると亜季のことを考えた。今日、亜季はここにいないから大丈夫なのだが、もし綾香と歩いているところを見ると彼女はどう思うだろうか。もちろんそんな様子を見て私が浮気をしていると考えないと思う。亜季にも男友達は当然いるだろうし、私もそうだ。私はそこまで考えていてばかばかしいと思った。一方で私には女性の友達がいない分、かえってそんなことを考えてしまうのかもしれない。
「何考えているの?」
綾香の言っていることが聞こえた。さっきまで何か話していたらしいが、私は考え事をしているので聞いてなかった。
「いや、今日は何を食べようかなって」
「彼女に作ってもらいなよ」
「今日は実家に帰っているんだ」
「じゃあ、連休中はずっとひとり?」
「昨日は彼女と動物園に行ったよ」
「ふうん」
ここで少し会話が途切れた。私は綾香がどう過ごすのかを聞いた。
「君は彼氏とどこかに行かないの?」
「別れたの」
「それはご愁傷様。君は可愛いからすぐに次の彼が見つかるよ」
私は棒読みを強調してそう言った。
「意地悪ね」
彼女は私の肩をはたいた。
駅に着くと今まではここで別れるのだが、しばらく立ち止まってそのまま会話するようになった。それがちょっとした日課になっていた。
「今日はもう寝るだけ?」
綾香が言うことに私はそのまま肯定するのも何かしゃくだった。私は何か暇だからすることは無いか考えた。
「携帯電話を買いに行こうかな」
「まだ持っていないの?」
「彼女にも昨日、同じこと言われたよ」
「ふうん。電車の時間だわ。じゃあ、またね。お疲れ」
「うん。またね」
だいたい、いつもこんな会話だった。
ドイツ語の履修も上のクラスになって他の学部の学生と交流することがあって、私と綾香と共通の友人がいた。その友人の誘いを通して一緒に飲みに行くこともよくあった。バイト先でも同じ大学の学生が数人いたのでよく彼らと綾香を含めて遊びに行くこともあった。去年までは特にそんな場面は無かったが、共通の友人を通して綾香と関わる機会が多くなった。
仲が前より良くなったのはそうだけど、私たちは他の人から見るとかみ合ってないように見えるかもしれない。特別一緒にいて楽しいというのはあまり無かった。
*
夏休み、久しぶりに実家へ帰った。とは言っても、前は春休みに帰省したから定期的に帰っていたと言える。実家に着くと母が出てきて、もうイナが部屋で待っていると言った。
自分の部屋のドアを開けるとイナが座っていた。私を見つけると、すぐに立ち上がって
「お帰り!」
と大きい声で言った。いつもどおりで元気がよかった。
「イナは大きくなったね」
彼女の頭を二、三回叩きながら言った。前あったときもまた背が伸びていた。イナは早速今までの話を「あのね、あのね」と言いながら喋ってくれた。学校で何があったとか、今街ではこんなのが建ったとかそういう話だった。半年分の積もりに積もった話を聞かせてくれた。話が落ち着くのを待って、私は彼女にお土産を渡した。
「イナにね、シロクマのキーホルダーを買ってきたよ」
私はイナに渡すと、彼女はそれを手のひらに乗せて
「ふうん」
と言った。嬉しくもないし、がっかりした様子でもない。
「ありがとうは」
私はイナの頬を軽くつねった。
「ありがと」
彼女は笑って答えた。私は彼女が夏休みの宿題をしに来たというので、もって来たペンケースのチャックにそのキーホルダーを付けた。
「なんか邪魔だね」
イナはペンケースを持ちながら言った。シロクマはだらんとぶら下がっている。
「ありがたく付けなさい」
私は声色を変えて冗談っぽく言った。イナは「ふん」と言って笑った。
イナは夏休みの宿題を始めた。でも私と喋りながらだったのであまり進んでいなかった。私も別に彼女の勉強を見るということはあまりしないので、そのあたりは適当だった。そのとき私の携帯電話が鳴った。相手は亜季だった。
「はい、どうした?」
私が会話していると横からイナが「誰?」と小さな声で聞いて来る。私は「静かにしなさい」と口を動かしながらイナの頬をつねる。「ふんだ」と言ってイナは笑う。
「ああ、今ね、前に言っていた子が部屋に来てるんだよ。」
亜季は電話の向こうで誰かいる気配に気づいて聞いてきたので私は答えた。
「うん、わかった。じゃあね」
私が電話を切ると、
「彼女?」
イナは聞いてきた。
「宿題やりなさい」
私はイナの額を軽く叩いた。「ふんだ」と言って彼女は笑った。
「お兄ちゃん、携帯買ったの?」
イナは興味がありそうなのでそれを渡した。
「おお、すげえ」
彼女はそう言いながら適当にボタンを押していたりする。ディスプレイが緑色のバックライトで光った。イナはシロクマより携帯の方に興味があった。それも仕方ないなと思いながらキーホルダーのシロクマをいじった。
私の買ったシロクマはぬいぐるみのような素材で出来ていた。私が実際に見たシロクマは毛が長く人形とは全く違う。このキーホルダーは手足が短いが、実際は逆だった。この私の手にしているシロクマはあのとき動物園で見たものと違い、人間によって一般的に可愛らしく見えるようにデザインされたものだった。
それはいつか見た子供向けの人形劇と同じでもあった。人形劇では動物たちが二足歩行で歩き、会話する。そして前足ではなく、両手になっているのだ。劇を演出するために人間の手によってデザインされたものだ。このシロクマもそうだ。あの猫のように柔らかく動くのではなく、人間のように二本の足で歩くのだ。
私はイナの宿題のプリントを見た。計算問題をやっている。私は人形を手にしながら。それをぼんやりと見ていた。人形の手触りが変わったことに気づいた。少し気持ち悪い。異変に気づいて手を見ると人形が動いていた。
「うわ!」
私は驚いて人形を手放した。私の声に驚いてイナも人形を見た。
「わっ!」
イナも声をあげた。
シロクマは歩いていた。キーホルダーに繋がっているので、鎖のついた飼犬のようにも見えた。私たちはじっとその様子を見ていた。
「ねえ、触っていい?」
イナがそう聞いた。特に人形が危害を与える恐れはなさそうだった。だが念のため私が触ってみて危険は無いか調べた。人形は私の手のひらで歩くだけだった。
「うん。多分大丈夫だよ」
私がそう言うとイナはゆっくり人形に触れた。すると人形の動きが止まった。そのまま二人で動かなくなった人形を観察した。動く気配は無い。
私は人形を調べてみたが、小さなぬいぐるみである以外に変わった点は無かった。何らかの動力で動いているということでは無さそうだった。私はまさかと思って、また人形を手でつかんだ。さっきは人形が動く様子をイメージしていたら動き出したのだ。私もイナも自分の手の中にあるシロクマに注目した。手の中が動いた。私は人形を机の上に置くとさっきと同じようにまた歩き始めた。イナははしゃいでいるが、私は怖くなった。私は多分青ざめた表情をしていただろう。するとすごいと言った感じの表情でイナは言った。
「ねえ、お兄ちゃんって嘘つきじゃないの?」




