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1997年、小さな地球

 一九九七年、四月。私は大学の法学部へと進学した。この年に私は実家を離れ一人暮らしを始めた。イナにはまた夏休みに帰ってくると言い、実家から少し離れた以前よりも大きい街での生活だった。一人暮らしを始めた当初は下宿先の周辺の地理関係を覚えるため、よく街並みをぶらぶらとしていた。特に友人もいなかったのですることが無く、退屈な日を少しの期間だったが過ごした。

 入学式が終わって授業が始まると、何人か友人が出来た。ゼミで同じだった生徒や講義でたまたま隣の席に座った人と友人になった。周りの人間にも私と同じ越境から入学する人が多かったので友人探しをしていたのだろう。私は積極的に人に話しかけるタイプではなかったし、おとなしそうに見えたのだろう。結構知らない人から話しかけてもらうことが多かった。だから友達作りもあまり苦労はしなかった。

 私は第二言語としてドイツ語を履修していた。そのときのドイツ語のクラスで席順が決まっていた。私の隣の席に座ったのが綾香だった。


 初めてのドイツ語の講義で私は授業の十分前から座っていて、すぐあとに彼女がやってきた。彼女は非常に小柄で私の肩にも身長が満たない女性だった。容姿としては可愛い女性に分類されると思う。ただ当時としてはぼんやりとした印象の女性だった。特に私は彼女と話すことも無く、それは向こうも同じだった。

 ドイツ語の講義は最初アー、ベー、ツェー、デーといった基礎的なアルファベットの発音から入った。日本人講師の発音に続いて私たちがそれをやるといった、中学一年の英語の授業みたいだった。そして講義の最後に、講師が語学の科目の説明を始めた。一年での必修科目だとかその後の履修はどうなるかというものだった。

 講義が終わった後、ちょうど履修科目のことが話題になって気になったのだろう。彼女は私に話しかけてきた。

「すいません。履修科目のことで聞いていいですか?」

「ええ。いいですよ。」

私たちの会話は最初敬語だった。

「法学部の履修科目なんですけど、ちょっとよくわからなくて」

彼女はそう言って教務課で配布された大きな新聞紙サイズの履修表を広げた。私も履修科目はまだよくわかっていなかった。まだ先輩もいなかったから大学の授業システムを教えてもらう人がいないのだ。もちろん履修科目の説明会とかあったけど、退屈で聞き流している部分が非常に多かった。

 とりあえず私たちは履修表とかシラバスを出して何が必修科目かを確認した。しかし同じ必修科目の憲法は週に二回やっていてどの講義を履修するかわからなかった。シラバスのページをめくってどの時間の講義を受けたらよいか確認する。そんな作業を二人でしていた。必修科目を把握し、あとは選択科目を二十単位ほど自由に決めればいいのだろうという結論に落ち着いた。クラスの他の学生は教室からもう退出していて、残っているのは私たちだけ二人だった。

 私は話が終わったので帰る支度を始めたとき、綾香が言った。

「洋楽聴くんですか?」

私の鞄から見えている雑誌の表紙を指差していった。

「ええ。好きなんです。講義の合間にでも読もうと思って」

私は雑誌のページをなんとなくパラパラと見せた。

「あ、この人たち来年アルバムとか出すんですよね」

私は少し驚いた。自分の好きなロックバンドを知っている人がこんな所にいるなんて思わなかったのだ。しかも女性が知っているのだ。私の中でロックは男性が聴くものと思い込んでいたからだ。

「よく知っていますね」

「私の家で有料チャンネルが見られるんです。よくそれでビデオクリップが流れていたから」

「え、それはすごくいいな」

私はビデオクリップなんてテレビで短時間流れるものしか見たことが無かった。地上波ではランキングの紹介のときにしか映らなかった。当時は今と違ってDVDとかあまり普及していなかったのでビデオクリップを見る機会は限られていた。

 私たちは講義のあと二人で一緒に帰った。私が女性と二人で歩くのはこれが初めてだった。帰り道でお互いにどこから来たとかそういう話をした。大学で出来た友人と初めにした同じような会話だった。そのあとは一緒に昼ご飯でもという流れだったが、当然彼女とはそうはならなかった。ほんのちょっとした知り合いだったからだ。


 それ以降、あまり彼女とは頻繁とまでは言えないが、話すようになった。広い講義室で私を見つけてノートを写させてとかそんな話くらいだった。でも一方でドイツ語の講義ではいろんなことを喋った。それは授業が始まるまでの数分とそのあとの帰り道くらいだった。ドイツ語の講義のあと、私たちはその日の講義が無いので一緒に帰るのが習慣となった。

 そんなある日、彼女は私にアルバイトを紹介してくれた。ちょうどアルバイトを始めたいと私が話したら、彼女のバイト先のコンビニで一人やめたから店長に紹介してくれるのだ。彼女のおかげで私はすんなり採用された。ただ彼女とは勤務する日が違ったのでそこではあまり会えなかった。ただそれをきっかけに綾香との共通点が増えていったと思う。同じアルバイト先ということで帰り道の話題も種類が増えた。

 

 ところがもうすぐ夏休みという頃に、綾香は私といつもの帰り道を歩くことは無くなった。それは綾香に彼氏が出来たからだ。話によると歳が三つ上の人で、彼女が所属しているテニスサークルの男性らしい。ドイツ語の授業のあと、その人と一緒に遊んだりするらしく、大学の校舎の出口までが私たちの帰り道となった。

 私はごく自然なことだと思った。大学生になると恋人くらい作るだろうと考えていた。綾香以外でも周りはサークル活動とか積極的に行動していた。でも一方で私は大学とアルバイトくらいしかしていなくて、他は何もしていなかった。友人も講義で顔を合わせるだけの人だったし、バイト先でも一緒に働いている人という間柄でしかなかった。私には毎日の生活に不満も悩みも無かった。でもそれは単に何も起こらないだけだったのだ。



 一九九七年、七月。私は大学の講義が終わって駅前の横断歩道で信号待ちをしていた。すると隣から女性に声をかけられた。

「赤羽君、赤羽君」

隣を見ると日傘をさした女性が私に声をかけている。私は最初誰だかよくわからなかった。

「アキ、亜季よ」

私は最初亜季という女性の名前を頭の中で思い浮かべた。それは短い時間か長い時間かわからないが、戸惑ったように思い出したのだ。

「あ、ああ」

私はそれくらいしか声が出なかった。

「忘れていたでしょ」

亜季はそう言ったが、忘れたというよりは誰かわからなかったのだ。彼女は薄く化粧をしていたが、高校の頃とは違って綺麗に見えた。

「こんなところで会うなんてね」

亜季は嬉しそうに言った。私が話す女性は綾香と亜季くらいしかいなかった。でも彼女は綾香とだいぶ違う。

「今からどこへ行くの?」

彼女は尋ねた。

「家に帰るところ」

私は簡単に答えた。

「どこ住んでいるの?」

「あそこのマンション見えるだろ? あの隣のアパートなんだ」

「ええ、近いじゃない。私は反対の方向だけど今度さ、お茶しようよ」

彼女はそう答えたところで信号が青に変わったので私たちは歩き始めた。

 話を聞くと亜季はこの辺の女子大に通っているらしかった。住んでいるところも近かった。高校卒業してだいたいのクラスの人の進路は知っていたが、私と亜季はお互いどうしていたかは知らなかった。私はお互いの近況を話した。何の学部かどこでアルバイトしているかそういう話をした。

 亜季は駅から電車を使って今から友人に会いに行くといった。私はちょうど通り道なので改札口まで一緒についていった。改札につくとお互いの連絡先を交換した。彼女は「また今度ね」と言って改札を通っていった。

 

 私は亜季と別れたあとでふと思い出した。彼女が私の実家に電話をかけたことだった。それは高校を卒業してしばらく経ったあとだった。まだ三月で私は実家に住んでいた。そのときは私が留守だったので電話を受け取れなかった。母が代わりに出たが、彼女は内容を特に話さなかったという。そのあと電話はかかってこなかった。私にクラスの女子から電話がかかってくるのはとても珍しかったので内容は少し気になった。でも再び電話をかけてこないとなると同窓会の誘いとかだと思うことにした。

 ただそれは私に電話で告白するのではないかとも思った。亜季は私に好感を持っていたのは理解していた。卒業文集の企画でクラスの王子、姫コンテストというのがあった。それはクラスの異性に投票する企画だったが私に一票入っていたと友人に聞いた。別に友人は私をからかっている様子は無かった。周囲の男友達はそのことに驚いていた。それは亜季が投票したのではないだろうか。

 これは単に私の希望的観測に過ぎないかもしれない。でもあの頃よく話していた女子といえば亜季しかいなかった。電話の内容もあの一票もそう考えると一番辻褄が合うと思う。結局同窓会を開いたことはなかった。一方で亜季以外の女子が投票することも考えにくかった。

 私は考えられる手がかりからそう分析した。でも一番は彼女と会えたことが嬉しかったからそう考えたのかもしれない。亜季は私の話すことによく笑っていたし、そして楽しかった。私は何も起こらない毎日に何かが起こることを期待していたのだ。


 亜季は早速翌日から私に連絡をくれた。どこかで会おうと。私たちは駅前で待ち合わせをして喫茶店に入ることにした。単に会話をしただけだった。とりとめの無い会話だったしそれはどうでもいい話だった。でも私が受け取るものはどうでもよくは無かった。ドイツ語の帰り道から亜季と会うことが日課となった。

 会う場所も変わっていった。いつもの喫茶店から私の大学キャンパスのときもあった。食事に行くことも増えた。そしてそのあと私の部屋に、彼女の部屋になった。私たちは付き合うようになった。

 夏休みに私たちはそろって地元に帰省した。そこでも亜季と会った。地元の街を二人で歩くのは初めてだった。順序は逆な気もした。もうちょっと早ければ高校生活もお互い違っていたのかもしれない。高校の帰り道も休日ももっと楽しいものになったのではないだろうか。制服姿で自分たちの生まれ育った街を歩くことは出来なかったが、それは今更、後悔することではなかった。私たちは今までの時間を取り戻すように過ごした。


 夏休みの終りに近いある日、亜季はCDショップに寄りたいと言い出した。好きな邦楽のユニットのアルバムを買いたいのだそうだ。店内に行くと目当てのCDは特設コーナーが作られていたのですぐに見つかった。私は何となくでアルバムを手に取る。裏面のトラックリストを見た。そこに細かい字で「パソコン対応のエキストラトラック収録」と書いてあった。パソコンで音楽が再生できる時代に入りつつあった。音楽は前を向き出していた。その文言から私はぼんやりと将来を考えた。それは考えてもやはり、ぼんやりとしていた。だが私は何か新しいことが始まると考えていたのだ。それはそのときが楽しかったからだろう。私は毎日何かが起こる期待をしていたのだ。


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